悪意をスルーするべき理由

毛語録に「悪意ある攻撃でない限り批判は聞くべきである」という意味の言葉がある。

毛沢東がどうであったとか、中国がどうであったかということは全く別のこととして、この言葉は正しいと思う。どう行動するかは別にして、批判は聞くべきだ。

しかし、この言葉は悪意ある攻撃については聞くべきではないとも言っている。要するに「スルー力」なわけだ。その理由を考えてみた。

単なる認識の違いとか、誤解に基くものであれば、いろいろ話し会えば理解することが出来る。そういったものであれば、「聞く」べきである。毛語録で言うところに、「悪意ある攻撃でない限り」というのは、そういったことだと認識している。そうやって相互理解を深めることが出来るのが「語らい」であり、それがワールドワイドに出来る可能性があるのがネットの醍醐味だ。

ところが世の中には「理解したくない人」というのがいる。小飼さんやはまちちゃんのちょっと前のエントリにあるのだが、

わからない理由

三番目のわからない人間

あたりにも例示されている。いくつかタイプ分けしてあるけど、要するにこういった人達は最初からわかるつもりがない(私がもう一つ挙げるなら「ネタにしたい人」かな)。そういった人達は理由はどうあれ最初からわかるつもりがないがゆえに、こちらが理解してもらおうという努力は無駄になる。悪意がある場合にこれらは少なくない。

ということもあるのだけど、こういった類の話とは別に「悪意はスルーするべき」だと思っている。それはなぜかと言えば、

その悪意は「今」だから

だ。これはどういうことかと言えば、彼/彼女が悪意を向けている対象は、「今の私」であるし、向けている主体は「今の彼/彼女」だということだ。

たとえば、悪意を向けている人が自分にとって明らかに間違っている場合、それをボコボコに反論するというのは、実はあまり良いことではないと考える。もし悪意を向けている人が間違っているとすると、「未来」の彼/彼女がその時の自分を振り返った時にはその当時の自分をどう思うだろうか。「今」その人をボコボコに反論したら、ネットにはその記録は残るだろうし、残らなくても見ている人は覚えているだろう。となると、「間違った自分」が否定と共に記憶されてしまう。将来「更生」した時、その当時の自分を恥じるだけでは済まなくなるかも知れない。

逆に自分が明かに間違っていた場合、その逆のことが起きる。

人は常に成長し続けるものであり、「今」は常にその発展途上にある。その中途半端な状態で無理やり白黒はっきりさせるのは、「未来」の本人にとっては後悔をより大きくする。だから、自分が正しくても正しくなくても、無理やり白黒はっきりさせるというのは、お互いに後で傷になってしまうこと。

理解の余地のある悪意のない時には、徹底的にやりあってもいいだろう。だけど、悪意がある時はその「悪意」がなくなった時に何が残るか考えてからやりあうべきだ。というか、悪意があるのだったら関わらない方がいい。悪意なんてそう長くは続かない。それが消えた後に後悔が残るようなものであれば、スルーして

なかったこと

にしておく方が、お互いのためになる。

そんなわけで、某所で私に向けられている悪意はスルーすることにしている。私にとっては数ある誤解の一つを解くに過ぎないことでしかないが、彼にとっては「今の彼」の否定に近いことになってしまうし、「未来の彼」に申し訳ないことになるのも嫌だから。

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