弱虫が万年弱者である理由

「あるふぁまっちょ」小飼さんのblogより。

To Be or Not to Be – 書評 – 限界自治夕張検証

小飼さんには悪いけど、小飼さんのblogで直接本を買ったことは一度もない。それでも興味深く読むのは、そこに小飼氏なる人の「視点」が伺えるからだ。これは別に小飼さんに限ったことではなくて、他の人のblogでも同じで、その人の「視点」に興味を感じて読む。

そういった意味で、小飼氏のblogを読むのは「マッチョ思想」を知る上で重要だ。

件のエントリはただの書評だ。その本に興味が持てない人や、書評者と同じ視点に(一時的にでも)立てない人は何の役にも立たないかも知れない。私も最初から興味を感じない本の書評は読み飛ばすのだけど、今回のはちょっと面白いことを発見した。

件のエントリの中に

ここで重要なのは犯人探しではない。

という一言がある。この一言の中に小飼弾なる人がマッチョである所以が詰まっている。

犯人を探す時、それは何のためか。それは犯人を発見して、その人に罪を償わせるためだ。端的には「現状復帰」をさせるということ。その犯人に現状復帰の責任を負わせるという考えなわけだ。「これお前がやったんだろ。ちゃんと元に戻せよ」と。つまり、一生懸命犯人探しをする人は、

犯人に全責任を負ってもらう

という根胆だ。これは当然のことながら間違いではない。人は自分の行動に責任を取るべきだからだ。

ここで件のエントリでは、「重要なのは犯人探しではない」と弾じてある。それはその犯人に責任能力がないからである。つまり、犯人に全責任を負ってもらうことが出来ないから、探してもしょうがないと言うのだ。これも確かにそうで間違いではない。

どちらも正しく見えるのだが、単純に「実利」から言えば後者を取るべきだ。なぜなら、犯人に責任能力がなかった場合、犯人探しをすることは手間や時間がムダになるだけで、何も得ることがないからだ。ところが、その「手間や時間」を節約することによって何が起きるかと言えば、「現状復帰」のための労力を、自分で払う責任を負ってしまうということだ。

弱虫(ウィンプ)は犯人探しが好きだ。自分で責任を負いたくないから、犯人に責任を負ってもらう。自分が責任を負う必要なんて最初からないのだから。その考えは誰が見ても正当だ。だからとにかく犯人を探す。

マッチョは犯人はどうでもいい。犯人に責任能力がないんだから、犯人を見つけてもしょうがないからだ。そんな時間があったら、とっとと自分で現状復帰をしてしまった方がムダが少なくていい。家の前にゴミが捨ててあったら、捨てた犯人を探す手間に片付けてしまった方が早い。労力も少ないかも知れない。

両方を比較すると、どっちが「前進」するために有利かはわかるだろう。「前進」のために必要なもののうち、一番高価な資源は「自分の時間」なのだ。多少余分な手間がかかっても、自分の時間が節約出来る方が、「前進」出来る。弱虫が犯人探しでモタモタしている間に、とっとと問題を片付けてしまって「前進」してしまうのだから、マッチョが先に行ってしまうのは当然なのだ。もちろんその代償として、「負わないでいい責任を負う」という手間が発生するのだが。

どっちが「正しい」かは、最終的に自分がどれだけの「コスト」を負うかによって決まる。手間よりも時間が惜しいと思う人は後者の戦略を取り、時間よりも手間が惜しいと思う人は前者の戦略を取るというだけだ。問題は前者の戦略を取った時に、犯人に責任能力がなかったらそれまでの時間は

単なるムダ

で終わってしまうということ。逆に後者を取った場合は、常に自分の責任能力を消費してしまう。まぁ後者の戦略を取るということは、自分の責任能力の強化訓練をしているという意味でもあるから、自分の責任能力に納めることが出来る限り、リスクにすらならないのだが。

つまり、「犯人探しをしない」ということは、自分へのチャレンジなわけだ。自分が超えられないわけではないチャレンジを繰り返せば、自ずと鍛えられて行く。自分へのチャレンジをしなければ、鍛えられない。単にそれだけのこと。

だから、「弱虫のアプローチ」は正当ではあるんだけど、プラスにはならない。「マッチョのアプローチ」は時として不条理ではあるんだけど、プラスになる。どっちを取るかはいろいろなパラメータで決まるだろうが、自分で何とかなる限り「マッチョのアプローチ」を取る方が、プラスになる。「弱虫のアプローチ」を取る限り、いつまでも弱者のままなのだ。