いいことを言う評論家はむかつく

書きかけて放置していたエントリなんだけど、「分裂勘違い君劇場」を見てあらためて書き直してみる。

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多分、分裂勘違い君は評論家じゃないし、件のエントリは単なる評論家の弁とは違う「罠」があるのだけど、それはとりあえず置いておいて。

件のエントリは非常に「いいこと」が書いてある。表層的に読めば単なるブログエントリ以上の価値があるし、批判ばかりで提言のない評論家の意見よりもずっと示唆に豊んでいる。冒頭に書いたように、裏には「罠」があるのだけど、そういったものの存在を無視してしまって、一種の「政策提言」だと思って読めば、それはそれで十分楽しめる。

私はいろんな評論を読むことは好きだし、必要だと思っている。件のエントリのようなものも好きだし、日経ビジネスオンラインあたりにある、評論家の連載はためになる。なんて書くとネット中二病の人達にあれこれ言われそうだけど。

私自身、他人から見ると「確たる信念」を持っているように見えるようだ。でも、その実そうでないことは自分が一番知っている。他人の意見、それも自分よりも偉そうな人の意見には容易に左右される。それは、自分の思想信条と一致しているかどうかとはあまり関係なく、「なんとなくいい意見だなぁ」と思ったらすぐ同調してしまう。

ところがそれでは考えがフラフラしてしまうから、なるべくいろんな意見に同調して、それらの「引力」を打ち消すようにしている。だから、なるべくたくさんの「引力」を作用させる必要があると思っているのだ。そのためには、いろんな意見に触れるべきだし、特に自分のあまり好きでないタイプの主張こそ、興味を持って読むべきだとも思っている。まぁあまりに底の浅い「評論未満」のものは読んでもしょうがないけど。

読んでて価値を感じる評論の多くは、立場はどうあれ「ポジティブ」なもの、つまり「だからこうしろ」的展開になっているものだ。批判するだけなら、ビール飲んでクダまいてるオヤジにだって出来るわけだから。blog界は読み飽きる程そんなのはあるわけだし。

ところが、最近そういった「ポジティブな評論」がむかつくようになって来た。それに気がついてからよく考えてみたら、「いい提言」をしている評論家ほどむかついている。秀逸な提言、特に「確かにそうなるべきだ」と同調したくなるような提言ほどむかつく。それについてまた考えてみたのだけど、そういった「提言」というのは、結局

画餅

なのだ。彼等がどんなに「いいこと」を言っても、それが実現されているわけじゃない。いや、むしろ「そうなるべきだ」と思ったことほど、実現性が低い。それは評論家の言うことは理想論に過ぎないということだけじゃなくて、それがやれそうな政治家もいないよなぁということでもある。

私は二次元で満足出来るタイプの人間じゃない。だから、「すごく旨そうな画餅」を見せられても、ちっとも嬉しくない。それが旨そうであればあるほど、「本物の餅が食いたい」と思う。だから、評論家がいいことを言えば言うほど、「おおおおお、その餅食いてーー」と思うのだが、その実現は不可能だと気がつくと、

食えない悔しさ

が大きくなる。画餅が旨そうであればあるだけ、食えない悔しさが募る。

そうしてみると、むかつかずに読める提言の類というのは、もっと地味で、今の延長で、新奇性はないけど実現性の高いものということになる。そんなもん読んでもつまらないんだが。