フリーライドでいいじゃないの。オープンソースだもの

ZD Japanより。

フリーライドから一歩進んで大人になろう

内容はごく普通の「オープンソースに貢献しましょう」ということ。これ自体はまぁ当然なのだけど、どうもこの「フリーライド」という言葉が出て来ることに抵抗を感じる。

私は「オープンソース」というのは、ビジネスタームであって、哲学や思想ではないと考えている。この世界、

ライセンスは哲学

という部分があるのだが、「オープンソース」の「哲学」はどうも後付けだ。と言うのも、「オープンソース」なんてのは、元々が「フリーソフトウェアなんて呼び方じゃビジネスで使い難いから、オープンソースと呼びましょう」が始まりだったはずで、「この辺のライセンスはだいたい似てるから、大同団結しましょう」というのがそもそもの「哲学」なはずだ。つまり、細かい哲学的な差異はスルーして、ビジネスに使いやすいまとめをしたというだけのものだ。

だいたい考えてみたらわかるが、BSDLとGnu GPLでは、「ソースを公開してみんな幸せになりましょう」以上の思想的な共通点は何もない。背景となる考え方も、実行のしかたも、また目的とするところもまるっきり違う。「旧約聖書を共通土台に持つから」と言って、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教を「同じ宗教だ」と言ってしまうに等しいくらい、乱暴な括り方なのだ。まぁ宗教だの思想だのに縁のない人は、「そんな細かいことにガタガタ言わないで大同団結すれば世界は平和だ」と言ってしまうわけだけど、要するに「オープンソース」というのは、そういったことを言っているわけだ。

つまり、それぞれのライセンスのかなり本質に近いところにある思想の部分はまるっきり無視して、「共通点」にだけ着目するということをやって、「実務」に使いやすくしたということだ。アラブ人に「キリスト教圏には原油はやらん」みたいなことを言われても困るから、「お金」という「共通点」で取引をする。まぁそれに近いものがあると言っても言い過ぎじゃない。つまり、物やら所有者について回る、思想だの宗教だの哲学だのと言ったものを、「とりあえず忘れる」ことをしたわけだ。

そうして、忘れなかった部分を「OSD」として文書化されたわけだけど、ここには元のライセンスが持っている「思想性」の部分は、うんと弱められている。だからよくストールマンが、「俺達のやっているのはフリーソフトウェア運動だ。オープンソース運動のことなぞ知らん」とか言ったりする。彼はそういった「思想性」を抜いてしまうことに反対だということがわかる。

まぁそんなことだから、「オープンソース」と言った時には、

OSD以外のことは勝手にしろ

というのが「オープンソースの哲学」なわけだ。だから、

フリーライド自重www

なんてことは、「オープンソースの哲学」に属する話ではない。いや、長々と「オープンソースには哲学がないのが哲学で、哲学するんだったら他のライセンスを見ろ」ということを言ったのだが、実際にそれぞれのライセンスを読めば、「オープンソースに属するライセンス」には、「フリーライド自重」と言った類のことは書いてない。つまり、「フリーライド自重」というのは、

言いたい奴が勝手に言っている

に過ぎないと言ってもいい。

確かに、いろんなフィードバックがあると嬉しいことが多い。また、そういったサイクルがあるからこそ、オープンソースがプロプライエタリに勝る部分を持つに至ったのは事実だ。だから、いろんな形でアクションを起こしてくれるのは、ありがたいことではある。

だけど、そんなことがあろうとなかろうと、開発者は開発を続けるだろうし、「あなた」でなくても他の人がアクションしてくれればそれで十分なことも多いだろう。だから、何も「あなた」がする必要はないのだ。「オープンソースの哲学」のどこにも「フリーライド自重」とは書いてない。遠慮なくフリーライドして構わないのだ。

しかし、そこでちょっと考えて欲しいのは、「あなた」がそれをしなくても、喜々としてフィードバックをしている人がいること、様々な形で「貢献」をしたがる人がいるということだ。

わかりやすいLinuxを例に取れば、様々なコンピュータメーカやソフトウェアベンダが開発に参加している。彼等は別にそれをやる義務はない。それで直接金になるわけでもない。多くは企業だから、いわゆる「無償奉仕」の類でもない。つまり、彼等はLinuxに貢献することは

商業的メリットがある

と思ってやっているわけだ。Linuxに何らかの形で「足跡」を遺すことが、彼等に商業的メリットをもたらすと、彼等は信じてやっている。

それは、「自社ソフトを競合する他社よりも効率的にLinux上で動くようにしたい」ということかも知れないし、「弊社はLinuxの開発に参加しています」と言いたいからかも知れない。あるいは「Linuxというプラットフォームが良くなることが自社の利益になる」と思っているからかも知れない。理由事情は様々だろうが、彼等にはそれをするだけの「理由」があるわけだ。

そう考えると、そういった「貢献」というのは、実は「義務」の類ではなくて

自分たちにメリットをもたらす権利

なのだ。

「あなた」には「街をきれいにするという義務」はないかも知れないが、街がきれいになれば、気持ちよく街に住めるだろう。だから街をきれいにしたいと考えることは、何もおかしくはない。そこに「住んでいる」者の当然の「権利」なのだ。それは「街をきれいにしない人」はフリーライドしているように見えるかも知れないが、たとえば「ゴミ箱」をどこに置くかは、「街をきれいにしている人」が決めることが出来るし、「自分の家の前を最初にきれいにする」ことだって出来る。「貢献」する者は、意思決定に参加する権利を得るのだ。

「あなた」には「フリーライドする権利」がある。それがオープンソースだ。しかし、「フリーライドしない権利」もあるし、そっちの権利を行使した方が得であることも少なくないのだ。

フリーライドでいいじゃないの。オープンソースだもの” への4件のコメント

  1. ここであえて

    「何でもいいし、一つでもいいから、貢献してみて~」

    と言ってみる。

    自分がしたアクションにリアクションがあって、それが更なる動きに連なって行った時の喜びはなかなかの物である。

    何と言うか、ニコニコ動画に作品をアップして、コメントを貰ったりマッシュアップしてもらったりする感覚に似ているw

    コードの解析ははっきり言って面倒だ(私は友人に任せっきりだw)。
    だが、それはそのコミュニティの固有言語であり、合言葉を教えてもらって秘密結社の一員になったような感覚も覚える。

    そこには一つのコミュニティがあり、そこで一緒に一つの作品を作る喜びがあるのだ。

    君も、仲間にならないか?

    (僕は引退気味だがw)

  2. 「貢献」なんて、そんなたいそうなもんじゃないのです。まー、確かに

    > 秘密結社の一員になったような感覚

    ってのも悪いもんじゃないんだけど、それにあまり染まってしまうのもいかがなものかとも思ってます。

    でも、そうやって参加するってのは、「権利」なんでね。行使しないともったいない。

  3. ライセンスを厳密に守ることは自由であるというオープンソースソフトウェアの精神に反することになるので,法律で制限するべきだ。
    某学会で重鎮がこんなこと言ってたんで腹が立つというより,ただただあきれたこと。

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