「馬鹿自慢」

小飼さんのblog

人間の価値を賃金の多少で差別したがるのは誰か?

より。

私が読む限り、小飼さんの書いていることは至極まっとう。小飼さんと私では過去も現在も違うから、100%同じことは言わないだろうが、だいたい同じことを思う。だからエントリ自体はどうってことないのだが、コメントが面白い。

件のエントリを身も蓋もなく要約すると、「ボロを着て心の錦までなくすと、ずっとボロを着たままだぞ」という話で、ごくあたり前のことを言っているに過ぎない。まぁ、「心の錦」をなくさないからと言って、「ボロ」を着ることから離れられるとは限らないのが世の常なんだが、「心の錦」をなくしてしまったら、いつまでも「ボロ」を着る生活からは離れられない。私がよく言う、

○○したからと言って××するとは限らないが、
○○しなかったら××しようはずがない

というパターンそのものではあるのだけど、それでも「○○」はしとかないと、「××」は起きない。

ということに、小飼流煽り風味を入れて書いているだけ。これに反論したい奴は、別のスキームを考えるか、ずっと「ボロ」を着ていればよろしい。私は「んなもん当然じゃん」としか思わないので、賛成する価値しかない

件のエントリで面白いのは、コメント欄だ。よくもこんなに「馬鹿自慢」が集まったものだと感心する。もちろんみんなが馬鹿じゃないし、「別のスキーム」の人もいるから「反論 = 馬鹿」と言うつもりは更々ない。

じゃあ何を「馬鹿」だと思うかと言えば、

書いてないものを読み、
書いてあるものを読んでない

ということだ。「書いてないものを読み」という部分に関して言えば、文章にはいわゆる「行間」というものがあるし、皮相的なものばかりを読んでもしょうがないから、「書いてないものを読む」ということは、文章読解に必要な能力ではある。しかし、そこでやってはならないのは、著者が「そうでない」と思っている方向に読んでしまうことだ。その原因はたいてい「書いてあるものを読んでない」からだ。

たとえば、件のエントリのどこにも「貧乏人は汚らわしい」の類のことは書いてない。仮に小飼さんが「差別したい」と思っている対象があるなら、「心にボロをまとっている」人間に対してであって、「ボロは着てても心は錦」という人間ではない。常識的にはどこをどう読んでも、「ボロ着てりゃダメ」の類のことは書いてない。むしろ「ボロを着てるからと言って、それだけで評価すべきではない」ということを書いている。

ところが頭が悪い^H^H^H^H読解力の低い人は、なぜだか「小飼弾はボロを着てる人間を差別する」と読んでしまう。多分、

その中学を辛うじて卒業した私は、暫く土方として働いていた。そんなある日、高校の玄関の補修工事をする機会があった。その高校はその地域で最低ランクの高校として知られており、卒業生たちは今ならワーキングプア一直線といった趣きである。そこでタオルを首にかけヘルメットをかぶった私は、中学生の時の同級生とはちあわせた。
そいつの名は覚えていない。しかしそいつの嗤い顔だけは一生忘れることがないだろう。その嗤い顔は実に雄弁だった。「おまえ、おれより下だな」、と。
その時私の心に湧いたのは、「そんなことはない」では全くない。「こいつのようにだけはならない」という嫌悪感だった。「おれのものさしは、おまえのそれほどくだらなくないよ」。その時実際どういう表情を私が返したのかは、鏡もなかったので確認したわけではないが、体が覚えているのは私が笑い返したということだ。

このあたりだけを読んで思ったのだろう。確かに「その箇所」だけを読めば、「中卒のDQNがDQN高校生を笑う」という、あまりに「低レベル」な争いなわけで、客観的には「どっちもどっち」だ。そして、その理解の範囲を「現在の小飼弾が嗤った」ととらえれば、「小飼弾はボロを着てる人間を差別する」という結論になる… と全力で理解してみた。

ところが、このような「曲解」も、エントリがもっと「低俗」なこと、たとえば「うちの猫ニャー」の類であったり、「はてな」に山のようにある「優秀な技術者の俺が不遇なのは会社や日本に間違いがある」の類であれば、多分なかっただろう。ところが、小飼さん(や私)が時々やるような、

目覚めよ! 大衆

的なエントリには、それこそイナゴのようにわいて来る。

「芸能人blogの炎上」の類の何割かも「読者にちょっと読解力を要求する」ようなエントリだったりする。そう言えば、blogじゃないけど昔はCMが「炎上」したものも結構あったな。たいていは微妙な皮肉が気に入らないということで、妙な曲解をしたものが多かったようだけど。

そりゃ「高度な読解力」を求めるような文章は、悪文でしかないから、そういったものはもっと文章を練るべきだろう。しかし、「読んでる途中にむっとするけど、読み終わったらニヤリとする」という程度の「深さ」がないと、読んでいて面白くない。

まぁこれだけなら「読解力がない」ってのは単に「馬鹿を晒してる」だけで、その「馬鹿」はこれから賢くなればいいんだから、救いようがある。「馬鹿」なんてのは「状態」であって「属性」じゃない。何年後かに自分の書いたものを読んで赤面するようになればそれでいい。

じゃあ、なんで「馬鹿自慢」かと言えば、「書いてないものを読み、書いてあるものを読んでない」のやり方に問題がある。

人は他人を理解する時に、無意識にまず

自分をテンプレート

にしてしまうものだ。

人は何かを理解しようとする時、理解対象の情報が少ない時には、自分の知識の中にテンプレートになるものはないかと探して理解しようとする。そこでテンプレートの不足に気がついたら「学習」をする。それは「何かの文献を調べる」ことだったり、理解対象を注意深く読んだりすることだったりと方法はいろいろなのだが、まぁとにかく「学習」をして「新しいテンプレート」を作る。歳を取るごとに増える類の「理解力」は、この「テンプレート」が豊富になった結果だ。頭に入る速度は歳を取るごとに落ちるのだが、それを補ってくれるのがこれなのだ。

この「テンプレート」を使って、「書かれてない部分」を補う。

たとえば、「朝起きて会社に行きました」という文章を読んで、「顔は洗わなかったのか?」「服は着替えないのか?」とツッコムのはネタの時だけだ。また、件の文章を読む時に普段朝食がパンの人は「パンを食っている情景」を思い浮かべるだろうし、食ってない人は朝食を採らないで出掛けることを想像する。独身童貞であっても、アメリカ映画で「お出掛けのキス」をしているのを見ていれば、件の文章がアメリカ人によるものであれば、そういった情景も思うだろう。人間はそんなふうにして、文章を理解する。まー、これはSchank学派的な理解なんだけど。

ところが、「書いてあるものを読んでない」と、この「学習」が行われない。その状態で「主張を表に出す」ことをすると、そういった「学習能力がない」ということを晒してしまうと共に、「自分のテンプレートの貧弱さ」を晒してしまうことになってしまう。

「人が他人を理解する時のデフォルトのテンプレート」は、たいてい「自分自身」だ。だから、その「テンプレート」のままに読むと「自分が同じ状況ならこうする」という読み方をしてしまうことになる。腹の中でそう思うだけなら、後で気づいて赤面すりゃいいだけなんだが、それを「コメント」に書いてしまっている。それは結局、件のエントリのコメントで言えば、

自分はボロを着ている人間を差別してしまう人間だ

と言ってしまっていることになるのだ。これが「学習能力のなさ」とコンボになるんだから、「馬鹿自慢」と言われてもしょうがなかろう。

「自覚のある馬鹿」は、いずれ賢くなって行く。「叩かれると良くなる」というのはそういったこと。残念なことに、「あるレベル」を目標にしたら到達できないかも知れないが、そうったことでなければ、相対的には「過去より未来」の方が賢いということになる。

しかし、その「馬鹿」が「自慢」になってしまった時には、成長は止まる。「自覚のある馬鹿」にとっての「馬鹿」は一過性の「状態」に過ぎないが、「馬鹿自慢」にとっての「馬鹿」は属性なのだ。

「馬鹿自慢」” への4件のコメント

  1. >書いてないものを読み、書いてあるものを読んでない

    シーザーが言った
    「人は見たいと欲するものしか見ない」
    ってやつでしょう。

  2. >~「貧乏人は汚らわしい」と
    >「おれより下」に向かって言い放つ~

    の辺りでは全く同じように思いましたw

    「え?そんな事書いてたっけ?」ともう一度読み直した後、
    「あぁ、こいつは『誰もが貧乏人は汚らわしいと考えている』と思っているんだろうなぁ」としみじみ思い耽ってしまったほどですw

    自分と違う考えの人がいるからこそ人の文章は面白いのだから、一度自分を真っ白にして読んだらいいのにと思いますね。

    まぁ、私も万全に出来てるとは言いがたいですがw

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