まなめさんのエントリ
今までの「非公式RTウザい」な声の多さからすると、ブコメでいろいろ言われてんじゃないかなーって気がするんだけど、見てないw
でも、最近の自分TLからすると、「非公式RTがご褒美」どころか、「公式RTウザい」と言いたいくらいに思ってる。
twitterの使い方なんて100人100様だろうから、「べきだ」とか「である」なんて必要ない。必要なのは、
俺はこうだ
という主張と共感だろう。いろんな意見を読んで「あー、それはいいね」と思ったものを自分で実践すればいい。
私のフォローの基準は、
その人をフォローしたいか
だ。「twitterで情報収集」な人達を否定するわけじゃないけど、私がフォローするのは「人」であって「情報源」じゃない。だから、どんなにいいことをtweetする人であっても、不快な言葉が多ければフォローしない。いつもTLに表示させておいてもいいと思う人をフォローすることにしている。
で、最近よくやってるのが、その人達の公式RTを止めることだ。つまり、基本的にフォローしている人の発言だけを読むようにしている。
と言うのも、よくRTされる発言って、いろんな人がRTしている。その結果、何度も何度も同じtweetを目にすることになってしまう。まぁ、トレンドがわかって良いとも言えるのだけど、あまり多いといい加減うんざりして来る。
Google+はこの点ではもっとタチが悪い。まぁ、出来たばかりのサービスだから、そういったことはいずれ直されるだろうが。
非公式RTは、たいてい一言何かが添えられている。その「一言」は元発言に対するRTした人の意見だ。つまり、その人のtweetだ。それがついていてこそ、その人をフォローした価値がある。なぜなら、私は
フォローした人のtweet
が読みたくてフォローしているからだ。
公式RTは「情報を正しく伝える」ものだが、別に私はtwitterに「正しい情報」なんて期待していない。「正しい情報」を期待してないから、「正しく伝わる」ことはわりとどうでもいい。非公式RTが繰り返されて、しっぽが切れたり改竄されることに目くじら立てる人もいるけど、どうせリアルでも「伝言ゲーム」なのだ。「あの人がこう言った」とかいつの間にか変化してしまう。だいたい、
人は伝えたいことのみを伝える
ものなんだから、変に発言を切り取っている人がいたら、「ああ、この人はそいうことが言いたいんだ」って解釈すればいい。そう思うことにしている。震災直後のAREAの表紙の酷さをtweetした時の引用のされ方の香ばしさは、深煎りのキリマンジャロに勝るね。それが私には楽しいのだ。
そんなことで、コミュニケーションという遊戯として、人間観察とゆー遊戯としてのtwitterの価値を考えれば、
むしろ公式RTは邪魔
と言ってしまっていいくらい。だから、最近は公式RTを見掛けると、RTした人を見つけて「公式RT止め」をしている。なーに、私がフォローしてる人達以上のtweetをする人は、そうそういないよ。トレンドな情報は、別に公式RTでなくても伝わって来るものだし。