SNSは流行りblogは廃れる(2)

私はmixiで日記を書く前は、2ちゃんねるの自分のスレをblogのような使い方をしていた。2ちゃんで実名スレに本人降臨すると、お手軽なblogになる。

2ちゃんに限らず、情報を提供する対象が不特定多数になり、そこからのフィードバックが不特定多数からのものになると、つまりは「大衆」を相手にしているということになる。「大衆」には「個」は存在していない。と言うよりも、個の特定ができない。これでは継続的な議論はできない。

純粋に事実を扱うこと、たとえば科学上の議論であれば、「誰が言ったか」はどうでも良い。提示される仮説は(電波な説でなければ)検証可能であるし、事実は誰にとっても事実である。だから、個の特定は不要である。

ところが、いわゆる主義主張の類は、「誰がどんな文脈で言ったか」が重要だったりする。その人がどんな背景を持った人かによって、その意見から受け取るものが違う。たとえば「人生とは無である」ということは、キリストが言うか、釈迦が言うか、私が言うかで意味がまるで違うわけで、そういったことは個の特定が重要である。

「大衆」に向けて意見を発することは、「大衆」からの意見を聞く覚悟が必要になる。それには独特の「スキル」が必要になる。「大衆」には語りかけ、意見を聞く必要はあるが、語り合ってはならない。それが「大衆」を相手にする時の基本だ。「語り合う」ためにはどうしても個の特定が必要になるが、「大衆」に個はないのだから、語り合えないのだ。そして、うっかり語り合ったりしないためには、「スルー」ということを身につけなければならない。これがなかなか難しいのだ。

別の見方をしてみよう。そもそも、一般の個人がそんな特殊なスキルを身につけてまで、「大衆」に向けて何かを言う必要があるのだろうか? ほとんどの「一般の個人」にとって、ネットワークは「遊戯」であり、遊び場に過ぎないのだ。「大衆」に向けて何かを言うべき人、言う価値がある人は、「その人」が特別の人だからではないか?

芸能人や政治家、あるいは会社の経営者、そういった人達の意見は聞いてみたいだろうし、たとえ「大衆」としてでもコメントをしてみたい。簡単に言えば、2ちゃんねるの「削除ガイドライン」の「個人」の部分に書かれている「三種」ではない人達は「大衆」に語りかける価値がある。そういった人達は、「大衆」に語りかけることが本業の一部であるとも言える。

しかし、「どこの馬の骨ともわからないプログラマ」の「主張」が「大衆」に向けて発せられるだけの価値があるかと言えば、私はそうは思わない。するかどうかは個人の勝手なので、止めることはしないが、「価値」はないと思う。もちろん「これから一流のbloggerを目指します」という意気を否定するわけではないが、そのためには「blogと称する駄文」を書き散らすことよりは、自分の本来の居場所での価値を高める方がずっと意味がある。そうすれば、「その人の意見を聞いてみたい」という人も出て来るだろう。

また、そんな「一般の個人」が特別なスキルを使ってまで情報発信するべきかと言えば、そうは思わない。なぜなら、それは彼の本業の一部ではないからだ。彼が発する「事実」の部分は、あるいは価値があるかも知れないが、主義主張の類なんぞに興味はない。仮に興味を持てるとすれば、「そいつを知っている」場合に限る。

ここで重要なのは、「そいつを知っている場合に限る」ことである。これはまさしくSNSに求められることである。だから、大多数の「一般の個人」はSNSで日記を書くのが、「身の丈」に合っているのだ。

blogやmixi日記の機能である「俺様主人公の掲示板システム」は楽しいものだが、それを快適に楽しむには「大衆」ではなくて、「大勢の友達」の中の方が向いている。「大衆」を相手にするということは、無用なストレスだし「俺様主人公」の維持が難しくなることもある。

専門性が高い人が、その専門の世界でblogを書く。これは全く世間が求めることである。また、そういった専門性の高い人達のプライバシーの一部、個人的な考えの一部も見てみたい。しかし、そうではない完全な「素」の部分は、仮に専門性の高い人であっても「一般の個人」だ。そういったものは、SNS上で楽しむのが適当ではないかと思う。

PS.

最近、この考えの末節の部分はいくらか変わった。特に「blogを書く資格」については、「まぁ誰がどう書いてもいいんでないの」と思うようになって来た。とは言え、大筋においてはそんなに変わってない。「うちの猫があくびしてニャー」なことは、SNSの日記の方がいいと思う。