ネットワーク上のエチケットをネチケットと言うらしい。また、ネットワーク上の市民はネチズンと言うらしい。
私はこの両方の言葉が大嫌いである。なぜなら、これらの言葉の裏には、
ネットワークは特別な世界
という意識が見え隠れしているからである。つまり、現実社会とネットワーク上の社会は別だということである。これは、はっきり言って
間違っている
と考える。それは、
ネットワーク上の社会は、
現実社会の単なる投影
に過ぎないからである。ネットワークが特別な世界であるというのは、パソコン通信オタクどもの偏狭な幻想に過ぎないのである。ネットワークは特別な世界ではないのだ。また、そうでなくては一般市民が使えないではないか。
例えばネチケットについて考えてみよう。ネットワークだからと言って、特別意識するエチケットが存在するだろうか? 現実社会で許されないことは、ネットワーク上でも許されないのである。違いのようなことを敢えて言うなら、
ネットワーク上でちょこっと言ったことは、
街中を宣伝カーで歩いたよりも多くの人に届いている
ということくらいなものである。これとても、
言葉は口から出たとたんに、
自分で歩き初める
と言ったことと同じようなものである。だから、結局のところは、ネットワーク上だからと言って、特別な倫理なぞ存在しないのである。と言ってしまうと、
Internetの多様な価値感について言及しないのか?
と言う人もいるかも知れない。しかし、それとても、結局現実社会に於いても同じことである。ネットワークが特別なものではないのである。違いがあるとすれば、それはどちらかが
間違っている
だけなのである。
そうであるが故に、ネチズンなどと言う言葉もナンセンスなのである。なぜなら、ネットワーク上に居る人々は、現実社会の普通の市民に過ぎないからである。現実社会と異なる価値感は存在しないのだし、実際に普通の市民がいるだけなのだから、ネチズンなどと言う必要はないのだ。
ついでに言えば、最近ネットワーク上の犯罪がどうこうとゆー話がよくある。猥褻やら暴力やらが無節操にInternet上に存在することが、どうもお上には面白くないらしい。そこで、どうもネットワーク上の犯罪を取り締まる法律を作りたいらしい。しかし、これもネチズン同様に
ナンセンス
である。そもそも、電話上の犯罪を取り締まる法律なんてのは存在していない。それは、犯罪は常に現実に行われるものであって、電話上であろうとなかろうと、現実の法律で処罰が可能であるからである。ネットワークと言うものは、それと同じようなものなのである。ネットワーク社会が単に現実社会の投影に過ぎないのであれば、何も特別にネットワーク社会用の法律なぞ作る必要はないのである。現実社会で犯罪が行われた時に、現実社会用の法律で裁けば良いのである。