ネット上の主張は主観的に書き続けられるべき

mixiである人がある雑誌の批評のblogをやめるという話をしていた。

理由は、「その雑誌の編集を批評しているつもりが、結果的に筆者の批判に見えてしまい、筆者を傷つけてしまうから」だそうだ。確かに批評批判の類は、油断するとそうなってしまうし、そうなる意図がなくてもそう見えてしまうこともある。

たいていそうならないように、「客観的」に書く努力をするし、批判がある時はなるべく対象となる意見(記事)に対して行われるようにし、人格攻撃を避ける。それが批評の作法だ。

しかし、ネット上では「評論家」は非常に多い。多いという前提に立つなら、「客観性」もいらないし、「人格攻撃を避ける」ということも、それ程気をつける必要もないのではないか?

人は何かを評価する時には主観的に行う。「他人にとって良いもの」が自分にとって良いという保証はない。どんなものであれ、「自分にとって良いもの」が良いものであり、

他人がどう思っていようと知ったことではない。

ところが、実際に「自分のもの」にする前には、他人の評価が気になる。なぜなら、「他人にとって良いものは、自分にとって良いものである傾向が強い」という仮定があるからだ。そして、その仮定が崩れた時に「あの批評は客観性に乏しい」と文句を言う。それが単に「自分の主観」と一致してない結果であったにしてもだ。

しかし、もっと精度が高い参考意見を手に入れる方法がある。それは、「自分と似たプロファイルの人の意見」を聞くことだ。同じような環境、同じような好み、同じような経済状態… そういった人の意見であれば、自分の意見と一致しやすい。だから、「良いもの」という評価が一致しやすい。

それが成り立つためには、「同じようなプロファイルの人」が「主観的」に主張していないといけない。「同じようなプロファイルの人」を見分けるには、「○○氏が嫌い」というような情報も重要だし、いわゆる「自分語り」も重要だ。また、そんな人が「客観的」に書いていても、あんまり嬉しくない。まぁ人が主観で書くことに真の客観性なんてないけれど、主観が見えなくなってしまったら、ないのと同じだ。

さらに、「同じようなプロファイルの人」が存在するためには、大勢の人の意見がないといけない。書く人が大勢になるためには、個々人が書き続けていないといけないわけだ。

つまり、ネットの上の主張は、表題のように「主観的」に「書き続けられ」なければ、価値が低くなる。また、主観的であればある程、「プロファイル」がわからなければならない。

個々の意見はゴミのようなもの、あるいは異なる意見の人には不快なものであっても、それを必要とする人はいるかも知れない。そうすれば、「一般大衆向け」なものでなくても、「私(と意見を同じくする人)にとっては凄く価値がある」ものになるのだ。だから、

ネットの個人的な意見に、公平性も客観性もいらない

むしろ、下手にそれが存在してしまうと、「情報の価値」は下がるかも知れない。

また、その人のプロファイルがわからなくなるような、

理性的な発言もいらない

そりゃ、いつもキレてると馬鹿でしかないし、事実誤認で興奮してるのもどうかと思うけど。

でも、「同じ傾向の人」にこそ参考になる意見が多数ある方が、同じ傾向の人にとっては役に立つし、それを目指しても全体として悪い方向にならないのがネットだし、ネットくらい情報が多いと、そうなって行かないと具合が悪い。

だから、特に「いい人」になる必要がなかったら、

遠慮なく暴言を吐け

ネット上の主張は主観的に書き続けられるべき” への2件のコメント

  1. 同感。

    意見は正解を狙うものではなく、拡散してなきゃ。客観に徹したものは意見とは言わないし。

    かと言って、あえて暴言まくってるのも自意識過剰だと思うけどね。あ、そういう人もいていいのか。

  2. いいんでない?

    「好みのあう他人の主観」で自分の主観を代理出来ると考えりゃ、暴言したい人の代わりに暴言してる人がいればいいのだから。

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