いじめはあってもいい

釣り臭いタイトルなんだが。

私は別にいじめ自体はあってもいいと思う。いや、別にいじめを推奨するとかそんなことは当然思ったりはしてない。あくまでも、いじめが存在することそれ自体は、不思議でも異常でもないと思っているというだけだ。

どれくらいそう思っているかと言えば、

「生きている」ということと等価

なくらい当然だと思っている。それは、いじめが本能に根差すものであり、社会的にも不可避であるし、人間の持って生まれた性(さが)というものとしてしょうがない。キリスト教で言うところの「原罪」のようなもので、人が気をつけたところで逃れられるものではないとさえ思っている。あるいは「交通事故」と同じようなものだと言ってもいい。個々人はそうならないように気をつけていても、集団としてとらえれば一定確率で発生してしまう。一つ一つ潰したところで、同じ数だけ発生する。

だから、「いじめをなくそう」的なスローガンは、ある意味

ナンセンス

だと言ってもいい。それは「人間やめろ」と言っているのと、大差ない。それくらい人間の本性と深く結びついているものだと思った方がいい。

ということを前提に考えるなら、「いじめがあった」ということは恥ずかしいことでも何でもない。むしろ、

あって当然

と考えるべきなのだ。実際に今なくても、それは「たまたま」ないか「見えてない」だけだ。何かが上手く行っているからじゃない。むしろ、いじめる活力や余裕すらない集団ではないかと心配した方がいいくらいだ。人間の、いや動物の集団である限り、「いじめ」は必ずある。生存本能に近いレベルの行動なのだから。

だから、学校が「いじめ」がなかったことにするという必要はない。叩けば誰でもホコリが出るのと同じように、学校では探せば絶対に「いじめ」は出て来る。

「いじめ」のない学校なぞない。

と思っておく方が、現実的だ。実際、「いじめ」がないことになっている学校(組織)であっても、水面下ではいろいろある。人間なんてそーゆーものなのだ。

だから、学校(組織)では、「いじめ」というのは、「存在するもの」「起こるもの」という前提で考えるべきことである。いじめられてる奴はなぜいじめられているのか、そこに構造的な原因はないのか、あるいは何か他の問題が「いじめ」として表面化しているのではないか、「いじめ」でどれくらい傷ついているか。そういったことを考えなきゃいけない。つまり、

どんなケアをしたか

が問題視されるべきことなのだ。

学校(組織)には、「いじめ」は絶対に存在している。存在しない学校(組織)は、半分死んだようなものだと断言していい。それが人間の「性」だ。

でも、「性」だからと言って、放置しておいて良いわけではない。いじめられた方は少なからず傷ついている。だから、そういった人には「ケア」をしなきゃいけない。また、「いじめ」はいろんな現象が表面化した結果だ。「いじめはやめましょう」的な注意をしても、あるいはいじめた奴を罰したところで、本質的な解決はされないかも知れない。

繰り返す。「いじめ」は「あったかどうか」が問題になるものではない。絶対に「ある」ものなのだ。それよりも大事なのは、「ケアしたかどうか」「どんなケアをしたか」だ。そして、その前提となる

発見をしたかどうか

だ。だから、「いじめ」を一生懸命隠蔽したり、「ありませんでした」「認識していませんでした」とか報告したりするというのは、「いじめ」が実際に行われていたことよりも、はるかに恥ずかしいことだ。

何度でも言う。「いじめ」のない学校(組織)などありえない。あるのは、

いじめを発見出来なかった学校(組織)

なのだ。「いじめ」はなくならないしなくせない。「自然」ということであれば、なるなるべきでもない。もちろんない方がいいんだけど、本当になくしてしまったら、多分重要な何かまでなくなってしまう。けど。大事なのは、それを早く発見してケアをして、「致命傷」にならないようにすることだ。「いじめ」がないなどという報告をするのは、

泥棒を発見出来なかったので、盗難事件は存在していませんでした

と報告するようなものなのだ。

PS.

全くわかってない人が…

いじめ

いじめの本質。
それは、他人の不幸を喜ぶ“心”。
それは、他人を誹謗・中傷することで他人より自分が優位にいると喜ぶ“心”。
それは、そこにいない誰かを悪口や陰口で自分より下にする事を喜ぶ“心”。
「いじめ」とは、人間が本来持っている悪魔の心が、
素直に表現された行為に過ぎない。

この考え方を取る人がいるが、はっきり言ってこれは間違いだ。と言うか、この観点でいる限り、「いじめ」がなくなるわけがない。いや、なくならないんだけど、対策が出来るわけがない。

「いじめ」ってのは、↑にも書いたように、

生存本能

の発露だ。自分の生きる「場所」を確保するための行動であり、「資源」の奪いあいなのだ。「罪の意識」がない人が多いのがその傍証だ。「悪魔の心」じゃない。生きとし生けるものがみんな持っている「本能」だ。「悪魔の心」のない、動物だっていじめをする。それくらい自然な行動なのだ。

だから、なくなるわけがないと言っているのだ。減らすことはあるいは出来るかも知れないが、「資源」が有限である限りなくなりはしない(同じ理由で「戦争」もなくならない)。

そんな出来もしないことにエネルギーを使うよりは、「ケア」をすることだ。動物と人間の違うのは、「ケア」が出来るという点だ。

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This entry was posted on7月 26th, 2012 at 18:50:04. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. Responses are currently closed, but you can Trackback..

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