川島なお美と「医療」で思うこと

川島なお美が「普通の医療」を受けずに「怪しげな民間療法」に頼って死期を早めたんじゃないかって話がある。

川島なお美さん、手術後は「民間療法」に専念していた 「邪気を取る」「バランスのいい食事」巡りネットで激論

ちょっと前はジョブズが同じように「怪しげな民間療法」をやっていた。

多分たいていの「常識ある人達」にしてみれば、「なんで素直に普通の医療を受けなかったんだ」という話になるだろう。「小賢しいネット民」の思いそうなことである。

まぁ「小賢しいネット民」の一員である私も同じことを思う。

とは言え、先日ちょっとした大事で大部屋で入院していた身から見れば、「それはしょうがないね」とも思う。それは

治療は我慢

だからだ。

病気や怪我に治るアテがある場合。「普通の治療」で完治して再び以前の状態に戻れるなら、たいていのことは我慢出来る。つまり、治療を拒否する必要はない。しかし、完治あるいは寛解の見込みがない場合、治療を受けるかどうかは、

損得の計算

になる。

治療を受けた結果どの程度まで回復するか、それが「我慢」に値するかどうか。それを考えてしまう。

「死んだら意味がないじゃないか」「命あっての」と言うのは簡単であるが、文字通りの意味で

仕事に命を賭けている

という人にとっては、仕事が出来なければ死んだも同然なのだ。川島なお美にしてもジョブズにしても、こういった類の人であったことは、周辺のいろんな話を見聞きすればわかる。

そうなると、次に考えることは、

余生の価値の最大化

である。

余命宣告を受けてしまったら、治療を受ける(=我慢をする)よりは苦しまずにいたいし、平時となるべく同じ活動をしたい。それで多少死期が早まったとしても、「死んだも同然」になるよりはずっと良いと考えるのだ。

そのように考える人達であれば、回復の見込みもないのに「普通の治療」を受けるという選択は、もはやない。「怪しげな民間療法(=余命宣告しない)」に頼りつつ、治療(=我慢)はあまり受けないという選択をする方が、合理的だと言える。私の入院中の同じ病室にいたおっさんも、

「もういい加減いいから好きにさせてくれよ」

とか騒いでいた。そのおっさんはかなり重めの糖尿病だったので、いい加減治療(=我慢)にうんざりしていたんだろうなと思う。幸か不幸か、そのおっさんは生活保護を受けていたので、「怪しげな民間療法」に逃げることは事実上不可能だったんだが。

こういったことをは別に、川島なお美の場合は

医者に対する不信

というのがあったようだ。

患者、特にヤバいレベルの病気であることが自分でもわかっている患者は、ある意味

医師に命を託す

ようなものである。全身麻酔で意識を失なうような治療を受けるような場合はもちろんのこと、私のように局部麻酔で医師と会話しながら手術するような者であっても、手術中は身動きも抵抗も出来ないのだから、

白紙委任

しているようなものだ。

「白紙委任」だと考えたら、「医師に対する信頼」がどれ程重要なことかわかると思う。

ところが非常に残念なことに、世の中の医師の多くは、

非コミュ

と言っても良いくらいだ。

満足に日本語も使えない、「人」に対する敬意も礼儀も感じられない、自分のやりたいことをやり、言いたいことを言う。「信頼」には程遠いような、そんな人があまりにも多い。そういった

人間としての基本

がなってない人に「白紙委任」が出来るかと言えば、不可能と言ってもいいだろう。

もちろん、比較的最近はEBM(エビデンスベースの治療)とかインフォームドコンセントとか煩く言われるようになったので、昔よりはずっと良い。でも、重篤な病気の場合は当の医師もどうしたら良いかわからない、説明はうまく出来ないけど経験的に良い結果が出たとか、そういった

説明困難

な治療をしなきゃいけないことも多々ある(ようだ)。そういった時に、いかに信頼を構築出来るような説明が出来るかということは、非常に大切なことで、

「技術じゃない。心だ!」

という部分は少なからずある。仮に本当に「大丈夫だ」ということを伝える場合でも、「この人が大丈夫だと言うからには大丈夫なんだろう」と安心出来させてくれる人もいれば、「面倒臭いから大丈夫と言ってんじゃねーの?」と疑わしい人もいる。どっちが

良い医療を期待させてくれるか

を考えれば、言うまでもなく前者だろう。そう思うと、私は非常に恵まれていた。最初に行った日立病院(旧称)も含めて、実に良い医師に診てもらえたと思う。

とか考えると、一方的に「川島なお美の不見識」と責めるのもどうかと思うのだ。

PS.

「普通の医療でもターミナルケアはある」的なブコメがあったのだけど、「怪しげな民間療法」をしている人は、全く回復の見込みがないと思っているわけじゃない。余命宣告を受けることと、回復の見込みがないということは、少なくとも本人にとってはイコールではない。諦め切れずに(諦める段階ではないと思って)、それでもなお何らかの治療を受けて回復したいと思っているのだ。かと言って、「余生の価値」を下げたいわけでもない。そういった

迷い

のある姿なのだ。人は仮に死期を悟ったところで、そうそう迷いがなくなるわけじゃない。

他の見方をすると、「普通の医療」には「延命」と「ターミナルケア」しかないということとも言える。無理な延命をして無意味にQoLを下げたいわけじゃない。そうなると、「普通の医療」だとターミナルケアになってしまう。「生存確率はある程度下がるけど諦めるわけでなく、QoLを下げるわけでもない」ということが求められているのだろう。

「そこは宗教が」という声もあったのだが、「宗教者」の一人としては、ちょっと段階が違うんじゃないかと思う。むしろ、そこは「ホワイト詐欺師」と言うか、

みのもんた

みたいなのが担うことなのではないかと思う。まぁあの辺の人達は「怪しげな民間療法」を勧めないと、飯のタネにならんのだろうけど。

PS2.

このエントリで話題の発散を避けるために私が書かないでいたことを書かかれた記事を見つけた。

川島なお美と北斗晶、こんなに違った医師の説明

担当医の「コミュ力」の違いなんだろう。

川島なお美さんの逝去から学ぶべきこと

なるほどなぁ。本人わかってたのかも知れない。