若者を叩く狡さ、年寄を叩く愚かさ

今さら書くまでもなく、ごくあたり前のことなんだけど。

最近は若者がいろんなものから離れているようだ。いや、「離れ」なんてどうでもいい。こういった「近頃の若いもん」に対するdisは、紀元前から存在している。

もっともその若者も負けてない。「団塊」を叩くのは氷河期の「若者」と相場は決まっている。

でも、冷静に考えてみれば、どっちも狡く愚かしい。

若者を叩くのは狡い。なぜなら、叩いている人達は、

今後絶対に若者にならない

からだ。つまり、自分とは完全に無縁であるから、容赦する必要はない。「若者はみんな死ねよ」と言ったところで、まるっきり困らない。当事者になることは絶対にないからだ。当事者になることのないものへのdisは狡い。また、若者は叩いている人達の若者時代を知らない。だから、「俺達の若い頃は」とか言われても、それを検証するのは容易ではない。いつだって「おとーさん」は成績優秀だったってわけだ。

年寄を叩くのは愚かしい。なぜなら、叩いている人達は、

多分いつかは年寄になる

からだ。若くして死なない限り誰も絶対に年寄になる。だから、一般的な意味での年寄を叩くのは間違いなく愚かしい。また、それが「団塊」のようにラベルづけされていても、大差ない。現に幸せそうに生きている人達は、過去を知らない者にとってはずっと幸せであったようにしか見えない。「若い時やんちゃしてた老人」は「いい人」に見えるし、それは羨しいものだ。

こう書けば、誰でも当然に見えるのだけど、たいていそれは忘れていて、ついやってしまうもんだ。

でも、さらにタチが悪いのは、「叩く」でなかったらその狡さや愚かさに気がつきにくいということだ。

昔の@dankodaiのエントリ

現在の国債の原罪

に書かれているような、「若者にツケを回す」ような政策とか、「老人医療費」のこととかのように、「二度とそうならない」ことで進められるものや、「いつかそうなる」ことを忘れたものが少なくない。

「金持ち」や「有名人」もよく叩かれる。でも、これもよく考えればおかしいことで、情け容赦なく叩くということは、

自分がそうならない保証

でもないと出来ないことだからだ。だって、うっかりそうなってしまたら、今度は自分が叩かれちゃうからね。つまり、「金持ち」や「有名人」を情け容赦なく叩く人は「今後絶対に金持ちや有名人にならない」という「自信」があるということでもある。

似たようなことで、「金持ちからはもっと税金を取りましょう」みたいなのは、わりと賛成されやすい。でも、それに賛成出来る人は、絶対に金持ちにならないとゆー「自信」があるか、金持ちになったらどんどん税金を納めたいと願っている奇特な人だ。

とか考えてると、叩いても大丈夫なもの、天に唾したことにならないことってのは、案外少ないもんだ。

若者を叩く狡さ、年寄を叩く愚かさ” への1件のコメント

  1. 「子供叱るな 来た道だもの 老人笑うな 行く道だもの」という言葉がありますが、ネットで自分と異なる世代を叩いている人を見ると、来た道のことは忘れ、行く道のことには思い至らない人が多いことを実感します。みんなが少しずつ想像力を持てれば、もう少し幸せになれそうに思えるのですが……。

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