タケルンバの日記
に、
本文とは関係無くて、なんでこういう2~3行で済むような話を延々長く水増しできるのか不思議だ。ある種の才能のような気がする。
とかあった。まぁ言ってる人の気持ちはわかるんだけど、これはしょうがない。
まぁこれは前にも書いてるんだけど。
短いことを誤解されないように書くのは、なかなか大変なことなのだ。だから、別に「水増し」したくなくても、誤解を避けようと思うと長文になってしまう。
context(空気)が共有されている場合、それに合わせて語れば、長文は避けられる。
「あれをこれしたらこうだよね」
「お前馬鹿じゃね?」
でも会話が通じてしまうのは、contextが共有されているからだ。別にこれは人間の会話に限らない。X Window Systemのように「伝えるべき情報が多い」ものではcontextは活用される。
ところが、web上の文書の場合、contextを無視して読まれがちだ。あるいは、書いた時とは違うcontextで読まれることも普通にある。ブログの記事は「今」読まれるという保証もない。contextが共有されていることを期待するのは無理。だから、意図通りに読ませようと思ったら、そのエントリ内で
contextを作る
くらいのことをしなきゃいけない。無用な誤解や炎上を避けようと思ったら、そうするしかない。だから、延々と背景を書いたり、補足説明を入れたりしなきゃいけなくなる。このことを忘れてネットで文章を公開すると、厄介に巻き込まれてしまう。逆に言えば、ネットで厄介な目に合わないためには、「context」の部分をちゃんと書いておかなきゃいけないのだ。
だから、著者の意図通りに読んでもらいたかったら、「こういう2~3行で済むような話」を2~3行で済ませてはいけない。今までそれで問題がなかったとしたら、
contextが共有されたクラスタ
の中でしか読まれていなかったということでもある。別に水増しでもなんでもなく、長々と書くってことはcontextを共有してない人達に対して文章を読んでもらう時の、ある種の宿命みたいなものだ。
だから、ある程度以上の読者がいる場合、「2~3行で済む話」であっても、起承転結を意識しなきゃいけないし、そうしとかないと誤読される。自分の文章をネットに晒す時には、そういったことも意識しなきゃいけない。「ある種の才能」ってのは、実はそういった「才能」なわけだ。