「可能性」

私は「変な言葉」が好きだ。

「ググレカス」のような2ちゃん語も好きだし、「メアド」みたいな女子高生語も好きだし、「HP」なんてのも嫌いじゃない。

「HP」について一言言っておくなら、あれにgdgd言う奴の言うことなんて聞く価値はない。「ひゅーれっとぱっかーどが使わないでくれと言っているから」とか言う奴いるけど、だったら首都圏のJRは「E電」って呼ばなきゃいけないし、初老の人達は「実年」って呼ばなきゃいけない。言葉ってのは変化するものだし使われなきゃ意味はない。だから、「それは正しくない」とか言ってもしょうがない。「正しくはない」とは言え、「間違って」いるわけでもないんだから、その変化は許容すべき。

まぁ私が他の「好き」と言ってる語でも「下品だなぁ」とか思うもの、自分からは使う気がないものも結構ある。まぁそれは自分で思うだけだから、他人の使う分にはあまり気にしてない。そんなものに一々目くじら立ててもしょうがない。なーに、どうせ言葉は流動するものだ。「いかつい」とか「ヤバい」とかが、昔とまるで反対の意味になってたりするのも、まぁそれはそれかなぁとか思う。自分では使わないけど。

とは言え、いまだに慣れなくて許せないのが、表題に書いている「可能性」という言葉だ。

何が気に入らないかと言えば、どの辞書を調べても「可能性」という言葉には「前向きのニュアンス」があることが示唆されているのに、それを無視した用例があまりに多いということだ。多くの「可能性」という語の使われ方を見ていると、「確率が0ではない」という意味の場面が少なくない。酷い例を挙げるなら、

「全員絶望の可能性」

なんてのがあったりする始末だ。

調べたらわかるが、「可能性」は「確率が0ではない」という意味ではない。また、「心配である」というニュアンスは全くない。むしろ、「(わずかでも)光明がある」という、そういったニュアンスの語だ。

いくら「正しいとは言えないが、間違ってはいない」用例を許容出来ても、明確に「間違い」な使われ方はどうも気持ちが悪い。一々指摘してつっこむ程voidする気はないんだけど、つい使っている人の「低度」と感じてしまう。本来こういったことに敏感なはずの、NHKや朝日新聞までがやってしまうところを見ると、絶望的な気分になる。

「可能性」ってのは、「可能」という前向きの語を含んでいる。だから、「可能性がある」というのは、単に「確率が0ではない」という意味ではなくて、「前向きの結果が出る確率が0ではない」という意味なのよ。

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