信じるということ

実在するものは信じちゃいけない。

信じなきゃいけないものは事実じゃない

でも、実在しないものは信じなきゃいけない。

事実じゃないから信じなきゃいけない

のだ。

当たり前のことだと思うんだけど、この辺を間違えるから、わけのわからないことになる。

信じようが信じまいが、事実はまさにそこにあるもの。信じなきゃいけないようなものは事実じゃない。だから、事実として扱っちゃいけない。「擬似科学」の諸々は「信じなきゃ事実として受け入れられない」から、事実を扱う学問である「科学」とは同一じゃない。

事実じゃないもの、これから事実になって欲しいものは信じなきゃいけない。だから、「主観的正義」とか「夢」とかってのは、事実じゃないから信じなきゃいけない。信じなきゃ価値がない。諸々の「宗教」も信じるから意味がある。信じない人にとっては、単なるおとぎ話だし、そこに「科学」を持って来るのはナンセンス。「信念の妥当性」と称して「科学」を持って来るのも同じくらいナンセンス。

「計算不能な未来」は「事実」じゃない。「夢」もそうだけど、たとえば「部下の将来」とか「今年度の売上見通し」なんてのも同じ。これは事実じゃないから、科学は無意味。「今年度の売上見通し」なんて、いかにも科学で何とかなりそうな気がするけど、

商売なんて明日何が起きるかわからない

ものだから、なりそうでならない。だから「事実」じゃないし、科学は実はあまり意味を持たない。助けになることはあるけど、主役じゃない。そこにいろんな「数字」やら「理論」やら持って来るのは、自信のなさを表現していると言ってもいい。だから、「明日」は信じるものだ。「こうなるはずだ」と信じて取り組めばいい。

諸々の「仮説」は残念ながらまだ「事実」じゃない。だから、信じなきゃいけない。でも、仮説を説えた人達はそれが「これから事実になって欲しいもの」だから信じている。証明されれば、めでたく事実に昇格する。

「信じる」ということは「事実」に対していない。だから科学は無関係。逆に「事実」は「信じる」必要はない。信じなきゃいけないことは事実じゃない。

混ぜるな危険

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