信頼されそうなエントリを書く方法(1) — なぜ我々は新聞を信用したか

(1)って書いたけど、例によって(2)を書くかどうかは知らない。

人の目って面白いもので、自分でやっていることは見えないけれど、他人のやっていることはよく見える。表題の方法なんて、自分であれこれ努力してもよくわからないけど、他人の書いたものを読んでいると、どんなエントリだと信用出来てどんなエントリだとそうではないかというのは、なんとなく感じる。だから、そうやって他人の書き物の感想から整理し考えて行くとわかる。

新聞に書かれたことは、つい信用してしまう。それは別に新聞の「権威」がなくても、新聞記事の内容は説得力がある。最近は新聞が信用を落としているけれど、それでもつい信頼してしまったり有用な情報源だと思うのは、それだけ新聞記事には説得力があるからだろう。

新聞そのものじゃないけど、GIGAZINEなんかもなんとなく信用してしまう。記事によっては「なんだこりゃ?」と思うものもあるけれど、たいていある程度の説得力を持って迫って来る。内容が正しいかどうかは、メディアを通してしか知ることが出来ないことが多いから本当のところはよくわからないけれど、なんとなく正しいような気がしてしまう。

新聞でも、コラム(天声人語とか)や社説はどうもあまり信用出来ない気がする。特にメディア絡みのことについてはあまり信用出来ない感じを受ける。GIGAZINEもネットのことについた文章は途端に説得力が落ちる。「テレビや新聞で詳しく報道されない「毎日新聞英文サイト変態記事事件」、一体何が問題なのか?」なんて秀逸で良いまとめだし、書いてあることは正しいと思うのだけど、ちょっと説得力に欠ける。

そういったことを「なぜだ」とよく考えてみたら、こういった説得力に欠ける記事というものに、1つの共通点があることに気がついた。それは、

感情的な表現が含まれる

ということだ。怒りとか笑いとかといったものが、文章の中に直接的に表現されていると、その部分で白けてしまい、説得力を失なってしまうのだ。

今の人達はどうだか知らないけれど、私が子供の頃の国語の単元に「記事を書く」というのがあった。つまり、新聞記事のような文章を書いてみましょうという授業だ。この時にも「なるべく事実を淡々と書き、感情的な表現を避ける」というようなことを言われたような気がする(このエントリのために思い出してみた)。他の時でも「感情的な表現を避ける」ということは言われたので、きっとこれは普遍的なことなんだろう。

そのことがよくわかるのは、日経ITProの本体の記事と「記者の××」というコラムとのギャップだ。「ハレとケ」と言うか、「公と私」と言うか、そういった違いがわかると共に、文章を通して見えるものの違いがよく見える。

新聞記事やGIGAZINEのようなものをなんとなく信用してしまうのは、こういった「感情的な表現を避ける」というあたりが大きい。淡々と書かれた文章に、なんとなく客観性とか普遍性を感じてしまい、あたかもフィルターを通さずに事実を見たかのような錯覚を受けるわけだ。

人は自分の目で見たものを信じる傾向にある。その次に信用するのは、客観的に見えるもの、たとえば数字のようなデータだとか、淡々と書かれた報告の類。人はそれが有益であるとか面白いとかということは自分で判断したいものなのだ。逆に感情的なもの、怒りとか笑いとかの類は、誰がそれを伝えたかによって共有するかどうかを決める。あまり好きでない人とは感情を共有したくないものだし、好きな人とは環境を共有したいもの。でも、あまり好きでない人が伝えたものであっても、客観的なものは受け入れる。そんなものだ。

だから、多くの人に信頼されそうなエントリを書きたかったら、

感情表現を極力避けて、客観的に

書くことだ。もちろん個人的に書く文章だから、「書く」という衝動を起こさせるものは感情的なものであるはずだけど、それを書く時には淡々と書いて行く。そうすれば、多くの人が受け入れてくれるはずだ。つまり、直接的な「笑い」「怒り」の類の表現を避ける。また、わかりやすい皮肉も避けた方がいい。腹が立ったネタなぞ、つい罵倒したくなるのだけど、そこはぐっと我慢をする。文章は淡々と、感情は読者の自然な感情に期待をする。

それじゃあ感情が伝わらないではないかという人もいるだろうけど、別に感情的な表現を使わなくても、いくらでも感情は表現出来るものだ。実際、新聞記事なんて淡々と書かれているようで、人々の意識や感情を「どこか」に持って行こうとしていることは、ちょっと冷静に見れば明らかだ。笑いを伝えるために笑っている必要はないし、怒りを伝えるのに怒っている必要はない。これも読者に「自発的に感情を持った」と感じさせた方が、自然なものになる。

まぁ逆に見れば、感情表現を避けて淡々と客観的に書かれた文章に含まれている感情の方が恐いものではあるけどね。

PS.

微妙な誤解もあるようだけど、ここでは「感情を殺して書け」と言っているわけではない。「直接的な感情の表現を避けろと」いうこと。人の書く文章に感情は当然あるものだし、それがなければ面白くない。でも、それをあからさまに表現をしてしまうと説得力がなくなるということ。「殺せ」ではなく「隠せ」と。

信頼されそうなエントリを書く方法(1) — なぜ我々は新聞を信用したか” への2件のコメント

  1. 感情的なことを一切交えず書くのは私にとっては難しいです。
    感情的なことをなしに書くと読み手にとって面白くなることがあるし、感情的な表現を入れると読み手にとって面白くなるかも知れませんが、いわゆる「怪文書」になると思います。

    webでの個人が書く文章ってその中間ぐらいがいいのかなと思います。
    作者の感情が見えないと不気味だし、感情的すぎると気持ち悪いし、

    どのくらいのバランスで書くのが言いのかは書きたい内容にもよると思いますが、

  2. 連投すみません。

    > 感情的なことをなしに書くと読み手にとって面白くなることがあるし、

    typoです。

    感情的なことをなしに書くと読み手にとって面白くなくなることがあるし、

    です。すみません。

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