つい良い評価を受けようとしてしまう件

ふと思い立って、自分の連載の評価を見てみた。

「評価」と言ってもいわゆる投票システムになっているだけで、「参考になった」という評価をした人と評価した人の割合がわかるだけだ。前回のエントリを見ると、76%の人が「参考になった」という評価をしているようだ。

良い評価をされるのはありがたいのだが、ある意味これはちょっとマズいなとも思う。

と言うのも、たいていの文章や言論の類は「賛否両論」あるからだ。誰かがある意見を言った場合、賛成する人ばかりではなく反対する人もいるのが普通だ。そして、その意見がはっきりしていればいる程、賛成する人や反対する人がはっきりするものだ。

また、人は特に反対する必要を感じないことは、賛成する傾向にある。二択の場合、反対でない人は賛成に回る傾向が強い。つまり「どちらでもいい」という人は賛成に入るものだ。

さらに、たいていの場合、ある意見に賛成する人は6割くらいなのが普通なのだそうだ。そして、その意見が正しければ正しいほど、支持率は6割を目指して収束するものなのだと。この「6割」の真偽はよくわからない。ただ、直感的にはある意見には賛否両論あるのは当然であるから、支持率が100%になることはまずないことは想像に難くない。

ということを考えると、「好意的な評価」というのは、ある程度を越えてしまったら危険なものと言える。別に言い方をすれば、あまりに好意的な評価が多いということは、

毒にも薬にもならない

ものだったと言える。食べ物なら「毒にも薬にもならない」というのも悪いことではないが、主張の類では毒にも薬にもならないものを読むのは、時間のムダだ。

ところが、人はウケたいものだから、つい「好意的な評価」を増やしたいと思ってしまうものだ。そうなると、ついキッパリとした表現を避けて、毒にも薬にもならない文章にしてしまいがちだ。言論が本当に目指すべき姿というのは、

支持者には熱狂的に歓迎され、
反対者には火炎瓶でも投げ込まれる

ようなものでなければならない。みんなに「いい人」と思われるのは悪いことではないが、みんなに「いい意見」と思われるのは悪いことなのだ。

ということをわかっていながら、つい「好意的な評価」を受けたいと思ってしまうんだよなぁ。まぁ件の評価は「参考になった」だから、反対賛成とは違うんだという見方も出来るのだけど、自分でも「ぬるい」と思ったものが「参考になった」率が高いという事実があるわけで。