利己的なモチベーションがないものは長続きしない

ある人のblogへのコメントのために。まぁ他の人も読んでいいけどw

前にオープンソースは利己的な動機と言うのはマズいと書いてるんでその逆に見えるのだけど、よく読んでもらえば逆じゃない。

逆じゃないのは、前のエントリも「結局のところ利己的」ということを否定していないから。

人の行動の表層の動機は様々だ。でも、たいてい長く続いたものは「結局のところ利己的」と結論することが出来る。そうは見えないものもあるだろうけど、それは「何が利己となるか」という観点が違うだけだ。死刑判決が出てしまうような「利己的自己中心的な動機による殺人」の犯人であっても、崇高で自己犠牲的利他的な奉仕をして来たマザーテレサであっても、それは同じだ。

殺人犯のそれは説明するまでもないだろう。殺された人が死ぬ、あるいは消えることが、犯人にとって都合がいい、つまり利己なわけだ。

「マザーテレサ」の方はちょっと難しいと思うが、キリスト教、特にカトリック方面の人は「神に喜ばれる」ということは無上の喜びなのだ。だから、「神に喜ばれたい」という点で利己。人は金銭的なものよりも、また他の何よりも、「快感」が一番のモチベーションなのだ。もちろん「神に喜ばれる」ことが快感になる人とそうでない人がいるのだが、快感はあくまでも主観的なもの。他人が理解するところじゃない。

一時的なことはこの限りじゃない。自分にとって何の得にもならない、快感ですらないことでも、一時的には可能だ。100%利他的なものであっても、勢いがあればやってやれないことはない。でも続けられないし、それを続けようとすると心身を損う。

たとえばここで「こんな利他的な俺ってカコイイ」的な「快感」を得ることが出来て、その快感を長続きさせることが出来れば、利他的なことでも続けられる。「他人のために頑張れば天国に行けるのよ」という信仰があれば、それもモチベーションたりうる。表面的には利他的に見えることであっても、深層に利己的なものがあれば続けられる。でも、深層に何もなかったり、深層に利己的なものがなかったら、そうそうは続けられない。続けようとすると苦痛になる。人は苦痛それ自体を続けることは困難だ。苦痛が快感になればまた別だが。

だから、自分がやらなきゃいけないことで、やり続けなきゃいけないことだったら、そこに何らかの利己的なものを見つけられなかったら、それを続けちゃいけない。やり続ければ心身を損う。若くて体力があるのなら、一時的には可能かも知れない。だけど、それは確実に心身を損なっている。それが表面化しないだけだ。早くどこかでケリをつけた方がいい。

逆にどんなに大変そうなこと、利他的なこと、損に見えることでも、そこに利己的なものが見つけられるのであれば続けられる。どんなに苦しくて身体を損うことがあっても、心までは蝕まれない。もちろん限度を越えて身体を損うことだったらやっぱり中止するべきだけど、そうでなければ続けてもいい。

自己犠牲は確かに傍目には美しいし、時としてそれを続けなきゃいけないこともあったりするけど、それを続けて行くためにはどこかに「利己的」な理由がないとだめだ。利己的な理由づけが出来ないのであれば、終息に向かわせる方向に考えた方がいい。そうでないと、いつか壊れてしまう。もっと正確に言えば、失うものと得るもののバランスを考えて、失うものが多いと判断されるなら、それは続けちゃいけないのだ。

もちろん「立場的に逃げられない」ということもあるだろう。でも、そんな時は何とかして「得るもの」を大きくする工夫をしなきゃいけない。それは「俺カコイイ」でも良いかも知れない。