自分で望んで生まれたんじゃなかったから、「生まれて来て良かった」んじゃん

小飼さんのblogより。

勝手に説教 – ガキとオヤとジブン

最初に言っとくと、このエントリは末香臭い。まるっきり宗教ネタだからだ。

こういった話を読むと、人間ベースの話ってのは面倒臭いねぇと思う。宗教を持っていると人生における「文法」の部分は決まっているので、生きる死ぬという「文法」の部分にひっかかるということがない。Cで「なんでswitch – caseは多分枝を意味するんだ?」とつっこむ奴がいないように、「生きる」とか「死ぬ」とか「生きている」みたいなことが何であるかにつっこむ宗教者はいない。もっとも、Cのswitch – case文の使い方が他の言語では直接意味をなさないのと同じように、他の宗教の死生観が他の宗教の信者に直接意味はなさないが。

つーことで、不敬虔なクリスチャンである私が、「生まれてきたこと」「生きている意味」について「説教」してみる。

キリスト教では全ては「神の必要」によって起きるということになっている。朝になって日が昇るのも、昨日は雪だったのも。諸々の因果律に神がいて、それは神が必要だと考えて決めたこと。だから、「自分」が自分にとって必要かどうかなんて関係なく、神が必要だから「自分」は存在するのだ。

私がプログラムを生み出す時、その「プログラム」は自分が存在したくて存在させられるわけじゃない。それは「プログラムに自我がない」から「存在したいから存在する」と認識するとかどーとかではなくて、そのプログラムは「私」が必要だと思うから生み出させるわけだ。「プログラム」が生み出されたり存在したりするのは、「プログラム」自身の都合じゃないのだ。プログラムに自我があって、「俺は作られたくなかった」「なんで俺はこんなにバグだらけなんだ」とか文句を言ったところで、「お前は俺が必要だと思ったから作ったんだ」と言われればそれでおしまいだ。「被造物」であるとはそーゆーものだ。「被造物」は「創造主」の意思のままだ。

キリスト教的な「自殺はいけない」もこれでわかるだろう。「あなた」が存在するのは「あなた」の都合じゃないから、「あなた」の都合で消えてはいけない。

「じゃー俺の存在は創造主の都合だけかよ」と言われれば、

そうだ

と言うしかない。その代わり人間には「自由意思」がプログラミングされている。「存在」は神の都合だが、どうするまうかは「あなた」の自由だ。もっとも、あらゆる出来事は神の都合なんだが。

「自分の都合」で作ったプログラムも「オープンにする」ということで「自由意思」を持たせられる。「存在」は「創造主」の都合だが、「どこに行って」「何をするか」は「自由意思」になってしまう。「私が使うLinux」も「クラッカーが使うLinux」も同じLinuxなのに… ってのと同じだ。「創造主」であるLinus達は多分「いいこと」に使われることを望んでいると思うのだが、「オープン」という「自由意思」を持たせてしまっているから、いろんなことを勝手にしちゃうわけだな。

そんなわけで、「自分」が価値を認めていない、あるいは見い出せていない「自分」であっても、「自分」の「創造主」は必要がある — つまり存在する価値があると思っているから存在しているのだ。「あなた」がどんなくだらない人生を送っていようと、どれだけ「悪いこと」をしていようと、「あなた」が生きているということは、「創造主」が必要だと思っているということだ。

だから、「生まれて来てすいません病」なんてのは、「勝手に思っている」だけのこと。いや、「創造主」に対して疑問を持つなぞ、

おご^Hこがましい

とさえ言える。まだ生きているからには、「生きている価値がある」と「創造主」が考えているからだ。「昔作った出来の悪いプログラム」であっても、「必要」だったら消したりしない。まぁそんなこと。

「創造主」というメタな存在を肯定すると、こういった問題は簡単に片付いてしまう。まぁそういった「メタな存在」を肯定出来るかどうかが、宗教を持つかどうかの分かれ目になるんだろうが。

「創造主」なんてもんがいるかって? 別にいてもいなくても構わんだろう。「いる」ということにすれば、こういったレベルの悩みはなくなる。こんなことで悩むほど、人生は長くも暇でもない。死んで「無」になるなら、くだらん悩みに関わらないで済んだのだから良いし、「無」にならないなら「創造主」に感謝するだけのこと。どっちにしても損はない。

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