すごい音楽家がいた! 春秋篇その1
〜楽師列伝@〜

えええと,まず春秋というのはふるい中国の時代を指す言葉です。
何年から何年までを指すのか,いろいろな意見があるようですが, とりあえずわたしが最近まで使用していた(ウソ)高校世界史の教科書(山川出版社)によりますと, 「紀元前770〜403年」を春秋時代とするそうです。

つまり次の戦国時代のはじまりが紀元前403年だということで,これを「戦国時代の予鈴さ(403)」だと 覚えるとよいのです。

受験生のみんな,バッチリ暗記しましょうね!!

●春秋時代のプロ楽師〜師氏●

さて話を元に戻しましょう。「音楽を演奏する人」って果たしてどんな人らなのか,考えたことがありますか? いまならとりあえず「プロとアマチュア」と分けますよね。

 この区別ってそれはそれでまたいろいろ難しいものもあって,実際わたしも悩んでいるのですが, そのへんはとりあえずおいといて・・・。

では昔の中国ではどうでしょうか? いわゆる「プロ」としては,偉い人の娯楽やいろいろな公的の儀式のために 合奏やソロを演奏するお抱え楽士と,各地を流浪して演奏する民間芸人がおりました。

また,「アマチュア」としては,自分の教養を高めるために楽器をたしなむ人々がおりましたが, たいていは身分の高い,あるいはお金持ちの人々でした。

さて時は秦の始皇帝が中国を統一するずっとずっと前,中国の中にはいろんな国があって,そこでおかかえの楽士たちが活躍しておりました。 彼らは,「楽師」という役職につき,「師なになに」と呼ばれてました。 それがなんか「姓+名」みたいに扱われるようになり,後世,中国にあまたある姓の一つになりました。

いまでも「師」姓の人をたま〜にみかけますが,もとをたどれば当時楽師であった人々の末裔なんですね。

 司馬遼太郎…はペンネームだから違うとして,司馬遷とかいう人がいましたが, 実はこの「司馬」も昔の役職名がのちに姓になったものです。

師なにがしと呼ばれていた人々は,目の見えない人か,あるいはそういう人が多かったようです。 たとえば「師冕」という人は「ここが階段ですよ」「ここがお席ですよ」と いちいち言ってもらっていたみたいだし,また別の人について目が見えずに手をひかれてあるいた, という記録も残っています。
彼らは盲人特有のするどい音感を有した一流奏者でありました。

 また彼らが統括する楽人のなかにも「瞽矇」と呼ばれる人たちがいました。 「瞽」は目が見えない,という意味です。目が見えないとそれだけ聴覚が鋭敏になるのか, はたまた職業選択先が限られていたということもあったかもしれませんが, 中国でも目が見えない人が音楽の仕事にたずさわっていたみたいですね。 日本の「検行」と呼ばれるお琴の先生や,瞽女さんなどもそうですけど…

●師襄子と師文●

あの有名な孔子サマも実は琴(キン。日本のお琴とちょっと違います)を習っておりました。 うまかったかどうかは不明ですが,古い音楽を聴いて味覚がなくなるくらい感動したというので, きっと耳は肥えてたんだと思います。

でも彼は別に音楽家になりたいと思って琴をならったのではなく, あくまでも自分の素養を高めるためにやっていたようです。 誤解を招くのを承知でいえば,今,おかあさんが子どもの情操教育にピアノを習わせるのと同じような感覚なんでしょう。

 日本のお琴(こと)と琴(キン)の違いについては こちら をみてね。

で,孔子の琴の先生が,「師襄子」という魯の国(いまの山東省あたり)の楽師なんです。 この人,孔子の先生になるくらいだから,その当時では結構な有名人だったらしく, 遠くからいろんな生徒が琴を習いにやってきました。

たとえば鄭(今の河南省あたり)からはるばるレッスンにきた師文という人もその一人。

この人も「師」がつくから,いちおう仕事として音楽をやってる,しかもかなりハイレベルのプロです。 そのまま国にいたらよかったのに,ある琴の名人が演奏すると,その音楽に感動した魚が飛び跳ね 鳥が舞い,というすごいことになってる……という話を聞きつけ,「けものの心までも打つとは。 自分もこのままじゃ終われへん!」と一大決心をして,地位も家もすてて師襄子のもとで勉強しようとやってきたのです。
しかし……

それからなんと3年ものあいだ,師文は曲が弾けなかったのです。師襄子はついにキレました。 「おい,指も押さえられへん,調弦もでけへん,どういうこっちゃ! もう見込み薄や。帰れ帰れ!」

そこで師文は答えました。

「いや,調弦とか曲とか何かそういうレベルじゃなくって,そもそも“音楽”ってもんが まだわかんないんですよ。なんつーか,心から“これや!”って浮かぶ決定的なモンがないから, けっきょく表現でけへんのですわ。なんもないのにただ手エだけ動かして音を出したって, そりゃ“音楽”とは言えへんでしょう?」

師襄子は納得してもうすこし待つことにしました。

ある日,やっと師文がやってきたのですが,なんと師文のレベルはもうものすごい境地に達していたのです。

たとえば夏に冬の曲をひくとまたたくまに雪が降り川が凍りつき,逆に真冬に夏の曲を弾くととたんに太陽が ぎらぎらと照りつけて分厚い氷を溶かすほど。最後に基本である調の五音の和音をかきならしたら, あたたかな風に瑞雲がたなびき,甘露が降って甘酒が泉のようにわき出すしまつ。

さすがの師襄子もたまげて言いました。「こりゃえらいこっちゃ,古今東西の名演奏家もあんたにゃかなわんで! 晋の師曠(シコウ)とか斉の鄒衍(スウエン)とかの巨匠らも,“教えて下さい〜”なんて言うて来るんちゃうか」とべたぼめでした。

まあ実を言えば師襄子自身,もともと磬(ケイ)という打楽器専攻の人なんで, ばりばり琴の専門家ではないんですね。

確かに本人は「琴も弾けるで」と言ってますが, この楽器は当時のステイタス,必須教養のようなものだったので, 人に教えるくらいはイケてたはずだし,実際,師文のように異国から習いにくるひとも いたのですから,けっこうなレベルの人だったのではないかと思われます。

でもこの演奏を聴いた時点で,少なくとも琴に関しては,完全に弟子の師文に抜かれたことを悟ったんじゃないでしょうか。

●生徒は選べない〜かわいそうな師曹●

このような,ハイレベルで芸術たるものをぎりぎりまで追求する師弟もいれば, 「生徒」を押しつけらたうえに,ひどいめにあった「師」さんもいました。

衛(河南省の北の方)の師曹は,献公(とにかく衛の王様みたいな人)の おきにいりの女性に琴を教えることになりました。
でもその女性は覚えが悪く,ついぴしっとムチでたたいてしかったら, それをチクられたのかどうか知らないけど,献公がすごく怒って, あわれ,師曹は300回もムチでぶたれてしまったのでした。

頼まれたから一生懸命おしえたのに……。でもあとでバッチリしかえしはするんですけどね。

実はこの話だけは珍しく正確な年代が分かっています。時は衛の献公十三年,紀元前564年のことでした。 いまからだいたい2570年くらいまえなんですね。はあ。

 師なにがしと呼ばれた人らには,彼らのほか,いろんな“名人”が目白押しです。 師襄子が挙げた不世出の巨匠,「晋の師曠」とかね。 彼らの話ばっかだったらつまらないと思うので,ほかのを書いて,またしばらくしたら続きを書きますね。


●参考文献●
「論語・衛霊公」(なんかの原文のコピー(すんません)141頁)
「列子・湯問第五」(小林勝人訳注「列子(下)」岩波書店1987年,43頁)
「史記」巻47「孔子世家第」中華書局標点本,1925頁
「史記」巻14「十二諸侯年表第二」中華書局標点本,633頁


おもしろ民楽故事のページへ戻る

おまけのページへ戻る

トップページへ戻る