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■9がつ■
20010930 今日は空を見ない日にしよう
影を踏んで歩くのだ
石なんかを蹴っ飛ばして
柔らかい芝生を通って
えいえいとアスファルトを叩いて
深呼吸するときに満月を睨んで
後ろは振り返らない
どれくらい歩いたのかわからない
誰が歩いているのかわからない
誰が通り過ぎたのかわからない
やればできるはずだ
歩いて、歩いて、歩いて
足を前に出すだけだ
両手を意識的に振ってみる
立派なウォーキングになる
額から汗がにじんでくる
前頭葉がじんじんとしてくる
下を見ていても進むものなのだ
上を向くのも下を向くのも
立場じゃないというのはない
誰にでもできるということだ
青いな、青いなあ
空は青いからいいな
20010928 「公園のようなところに行った」ということをなんとなく思い出せるだけで、どんな建物で、どんな道を歩いて、どんな花が咲いて、ということは覚えていなかった。大阪城も万博公園も何度か行ってるはずなんだ。中学2年の頃の写真を見ていたら自分の後ろに太陽の塔があって、「あれ、ここは万博だったんだ……」ということがわかったのだ。記憶を辿ってみたのだけど、万博公園ということは知らないで行っていたと思う。いや、あんなに目立った太陽の塔を見てないはずがない。が、やっぱり記憶にない。○○さんと騒いだというのは思い出せるのに。
Kにそのことを話すと、「記憶にないということは牛や豚と同じだったということだ」と云われた。なんだかショックだった。記憶がないということは牛や豚と同じで……記憶がないということは自分が消えるということで……記憶がないということは何もなかったということで……と考えていると背筋が寒くなる。睡眠薬とお酒を飲んで「記憶がない」とかいうのは最悪に怖い。
アルバムを見ていると切なくなってきた。本当はもっとどこかアルバムにないところにも行ったりしたのだろうかって。ここのところ出かけることばかり考えていたのだけど、次から次へと新しいことをするのだけが目的じゃなくて、大切なものをつかみたくて進んでいるんだ。
大阪城には、観光客や、外人や、カップルや、ジョギングをしている人や、犬を散歩させている人、それからホームレスの人なんかが混ぜ混ぜにいて面白かった。テントがいっぱい立っているところでいちゃいちゃしているカップルはどうかと思ったが、まあここではいいのだろう。ホームレスもいないような場所はホームレスに見捨てられてしまった場所なんだから。わたしは大阪城の真ん前でブルちゃんとかけっこをして遊んだ。
月曜日は祝日で病院は休みだった。毎週確認作業をしているというか、浄化させるというか、とにかくそういうことをしていたわけで、抜けてしまうのは少し不安だった。でも疲れたら休めばいいわけで、今の疲れは以前のしんどさに比べたらなんてことなくて、そう思えば大抵のことは我慢できるわけで。だから平気。
ほとんど毎日病院近くの池の周りを散歩している。3qぐらい。夜に歩いているから暗くて人の顔はよく見えないのだけど、シルエットだけで一度見かけた人はわかるようになってきた。わたしって犬みたいだ。ちゃんと覚えている、草の匂いも。
20010923 小学4年の僕は遊園地が好きだ。ゆっくり回る観覧車も好きだけど僕は男なので、ジェットコースターに乗らなくてはカッコがつかない。
エキスポランドにはダイダラザウルスという全長が2340メートルもある日本で一番長いジェットコースターがあった。ママに500円の券を買ってもらっていると、「乗ろうか、やめようか」と迷っているお姉ちゃんがいた。すごく迷っているようだった。乗ったら楽しいのになあ、と思っていた。
僕が駆け足で階段を上っていると、後ろからお姉ちゃんもついてきた。僕は先頭や一番というものが好きだ。2番や3番はやっぱり嫌だ。だから一番前に座った。お姉ちゃんはどうしているのかなあと思って振り返ると、「横に座ってもいい?」と聞いてきた。「うん」と僕はうなずいた。
ジェットコースターが動き出した。僕は下で見ているママと妹に手を振ったり両手を上げたりして余裕だったのだけど、お姉ちゃんは「わあわあ、落ちる落ちる、キャーキャー」と涙を流して叫んでいた。大人にしては騒ぎすぎのような気がしたけど、迷っていたお姉ちゃんの顔よりも、今の顔の方がいいなと思った。「わあわあ、曲がります曲がります、刺激的刺激的」と僕も叫んだ。
僕には遊びや勉強や宿題や習い事や友だちのことや学校のことがいっぱいあって、大人になったら何を覚えているかなんてわからない。ほとんどのことを忘れてしまうかもしれない。でも今日のお姉ちゃんのことは忘れないでいようと思う。楽しかったからだ。
20010918 子供の頃は地震も雷も火事も全部が怖くて、父のことも怖かったのだけど、旅行にはよく連れて行ってくれて週末はいつもどこかに出かけていた。白浜(和歌山県)は小学3年生ぐらいの頃に行った。わたしが高校を卒業して家を出てからは、父の顔をまともに見ることはなくなって、もう照れ臭くて話をすることもないだろう。父とはこれからの関係ではなくて、思い出すという関係でいいんじゃないかと思っている。
千畳敷と三段壁と白良浜に行く。でもいざ出かけてみるとしんどくなって、車の中で「引き返したい」と後悔していた。わたしが黙って不機嫌でいると母が妙な歌を口ずさんで、海が見えると大声になった。
白浜に着くと、母とわたしは逆転してわたしが舞い上がって興奮していた。千畳敷の強い風としぶきと陽射しを浴びて一人はしゃぐ。女の子が怖がってためらうような場所が好きだ。断崖絶壁があるとぎりぎりまで前に行ったりして。
三段壁に向かう途中に自殺者の供養塔があった。「あんたは興奮すると何をするかわからない」と母は何度も注意をしていた。三段壁には柵など全くなくて一直線にダッシュするとマジで死んじゃう。「ここからは立入禁止」と「いのちの電話」の立て札があった。茶髪の男2人が立て札を越えてじゃれていた。わたしも足を踏み締めて崖に近づく。「ここで背中を押されたら、落ちて、落ちて、落ちて死んじゃうんだな!」と思った。「やめなさい、戻ってきなさい」と母は怒っていた。本当に死んじゃうんだろうか、海なら死なないんじゃないか?崖の下を覗き込むと岩になっていた。ああ、これで死んじゃうんだ。手を思いっ切り伸ばして写真を撮った。こうやっていると手だけは死んでいるみたいだ……なあんてね、と思った。悪趣味と思うけど、わたしはこうやって生きている実感が欲しい、たまに。
白良浜の砂は白くて塩みたいだった。舐めてみたら口の中がじゃりじゃりとした。海水に足をつけていると、大きい波がきてパンツまでびしょびしょに濡れてしまった。
ところで、アメリカのテロ事件はどうなっているんだろう。わたしは新聞もテレビもテロのところは見なくなった。姉からの電話とメイルで全くの他人事でもないような気がするけど、気がするだけでやっぱり他人事なんだなあ。こんなことを云うこともないんだけどね。もしかして、わたしがものすごく幸せだったら他人事とは思わなくて心配したりするのだろうか。幸せな人教えてください。
−姉からのメイル(16日)−
その後なんとか落ち着いてきています。週末はいろいろな人から電話、メールがあって応対で大変でした。約1週間家にいなかったので、皆心配していたみたいです。来週は何処で働くことになるのかまだはっきり分かりません。元の会社の人とも話しましたが、以前家に電話してきた**さん覚えてますか?あの人が軽い火傷で入院しているそうです。エレベーターを待っていたら開いた瞬間熱風が吹いてきたらしいです。瞬間はすごく揺れて、早い人は40分ぐらいで避難できたそうです。その時は火事だと思っていたのでまだ冷静に避難できたと言っていました。後れた人はもう少し時間がかかったのですが、倒壊の前に脱出できたそうです。すすにまみれたらしいです。広場で黒焦げの死体を見て、ものすごくショックだったみたいです。私も写真など会社に置いてきていて、取りに行こうかと思っていたのですが、灰となってしまいました。まだまだどうなるか分かりませんが、アメリカの冷静な対処を望みたいと思います。念の為、会社の番号***-***-****です。これは代表ですので、私を呼び出してください。*子
20010913 不謹慎だと思う。せめて騒がないで黙ってられないのかと思うのだけど、身内の安否がわからないとこうも違う。わたしの姉はニューヨークのブルックリンに住んでいて、つい最近まで世界貿易センタービルにある銀行に勤めていた。
11日23時頃、知り合いのBから「世界貿易センタービルに旅客機が激突」と携帯にメイルが入った。テレビをつけて母にそのことを告げる。母は顔色を変えて慌てる。新しい職場はどこなのか詳しく聞いていなくて、残務整理があってもしかしたら……と。「慌てたってしかたがないやん、今はどうすることもできないんだから」とお菓子を食べていると、「こんなときにお菓子が食べられるな」と睨まれた。
姉に電話をかけるが繋がらない。母は興奮している。わたしはKに電話をかけて事情を説明する。「慌ててもしかたがないのにね」とKらしい返事。Kは心配してないんじゃなくて、動くときに動けなくならないように慌てないだけなのだ。
朝、姉から電話が入る。職場は既に変わっていてセンタービルではなかったのだが近くで激突を見たそうだ。滅多に泣かない姉が号泣したと云っていた。母は親戚中に電話をかける。姉が無事だとわかった瞬間に「他人事」になる。ついでに従兄弟の結婚話までしていた。母はテレビに釘付けになりイスラム原理主義指導者ビンラーディンとかをノートに書いていた。いろいろ勉強しているのだそうだ。「教えてよ」とわたしが云うと「言葉では説明できない」と云う。
夜、母と散歩にでかけた。星か飛行機か上を向いて動いている光を探す。他の人たちも上を向いて歩いていた。今日はどの世界の人も上を向いて歩いたりしているんだろうか思った。「これで新宿歌舞伎町の事故も忘れられてしまうんだろうな」と云うと、母は「新宿歌舞伎町って?」と云った。
20010910 1週間が早かったような遅かったようなを確認する月曜日。本を読んで、犬と散歩に出かけて、といつも通りの生活なんだけど、「頭ではわかってるのだけど……」という頭と心と行動が離れることが減ってきたと思う。「今日は金魚の水槽を洗った」とか「今日はプリンを作った」とかを好きな人に報告するのがいいみたい。褒めてもらえなくて喧嘩をしても仲直りができるのがわかっているからなんでも楽しい。「ポジティブ、ポジティブ」と一昔前に流行った空想的なものじゃなくて、「金魚の糞って本当に付き従って離れないんだなあ」という現実的なもの。解らない人は解らなくてもいいんだけど。
病院が楽しいというのも変だけど、やっぱり精神病院には変な人がいて面白い。「そそそそそそそそ……そそそそそ……それで」と、ほとんどの声が吃ってる人がいた。「ここここここここ、こんな癖が2週間前からついてしまった」と云うのだ。待合室にいる知り合いにそのことを報告し回っている。わたしは下を向いて笑っていたが、他の人たちは「へえ、そうなんや」と普通に話をしていた。わたしだったらそんな癖がついたら鬱ぎ込んでしまいそうなんだけど、ここに来る人は明るい人が多いからいい。
「あそこはどうなっているんだろう」という場所を訪ねた。アルバムの写真が色あせてきたところ。幼稚園の頃に行った箕面(大阪)とわたしが通った小学校。6年生の頃に彫ったトーテムポールは想像していたものよりも低くて朽ちていたけど、まだそこに立っていた。本当に立っていた。
箕面の猿は賢くて人間が食べ物をもっていないか見ていて、手を袋に入れたりすると覗き込んでくる。お昼に買ったパンを千切ってあげる。勝尾寺でダルマおみくじを引く。小吉だった。「雪がとけて春がくるのをゆっくりと待ちましょう」と書いてあった。おみくじで思い出したけど、何回やっても散々な結果だったエゴグラムががらっと変わった。合理主義者です、と。どうしてこうも極端なんだろう、中間というものがないのかなあと思ったが、何年もかかって変えようとしてきたのだから、今表面にでてきたということだ。まあでも、「情けは人の為ならず」というのは「情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る(広辞苑)」ということであるから、そういうのはこれから考えればいいと思ってる。
箕面滝でしぶきを浴びて涼む。帰り道の坂で3歳ぐらいの子供でも軽々と歩いているのに、ぜいぜいしながら汗かいて歩く。もう山登りも平気と思っていたのになあ。車の中で下の方からなんだか臭ってくる。猿の糞を踏んだのだ。「うんをふんだみたいでいいじゃないー」と母が云うからそうなんだろう。そうなんだ。
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20010905 治るってこういうことなのかな。必要だと思っていたものが「あ、なんか違う」と感じる。病院や先生にもしがみつかなくなる。「あ、なんか違う」がいっぱいで空っぽになっても平気。なりたくないことは口に出さず、なりたいことを心の中で口ずさむ。嘘とか無理とかそういうんじゃなくて、「元気だよ」と云う方がいい。そんな日はある日突然やってきて、勝ち負けとか足を引っ張るとかどうでもよくなって、苦しいものがじわじわっと消えていく。過食しなくなって普通、必死にならなくて普通、「普通はさあ……」とつぶやいて、片耳のちぎれた野良猫を見て「喧嘩しちゃって元気だねえ」と笑ってる。