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■8がつ■
20010831 火曜日から電話ができない。電話中毒のわたしは本当に困っている。中毒といっても1人にだけなので、偏った楽しい中毒である(だと思う)。「今からご飯を食べるよ」「今からお風呂に入るよ」「今からクスリを飲むよ」「今……今」と10回以上はしていたのに(週末はもっと増える)、今は30分ぐらいというわけだ。「聞き耳を立ててる」とKがぶっきらぼうに答える。でもたまにはこんな日があってもいいかなと思う。いつもはKに「お母さんと一緒のお布団で寝ているんだろー」とからかわれているのだけど、今はわたしがからかって遊んでいるからだ。Kの母親が東京にやってきているのだ。
20010829 「こんなはずじゃなかった」と思うことがある。たとえば、みんな仲良くしていこうと思えば、いつも誰かが凹んでいて仲良くできない。たとえば、さあ本題に入りましょうと思えば、AちゃんやBちゃんが調子が悪くて本題に入れない。本題ってあるのかなあ、と思ったりする。 「くだらない連中の相手をするな」とKは云うのだけど、わたしはKのように強くはなれなかったから、鬱の方にも足を突っ込んでいた。自分から鬱に突っ込んでやっぱり調子が悪くなるとKに泣き言を云う。助けてもらえるから甘えていたんだろう。助ける鬱も助けられる鬱も周りに迷惑をかけているのを自覚していないというのはこういうこと。もっと身近にいる人のことを考えろという。
20010826 Kと鬱のことで10時間以上話した。鬱を見るとまだわたしは鬱に引き込まれてしまいそうになる。見ないページのリンクは外した。すっきりした。
20010822 病院に行く途中、車の中で母と喧嘩をしていた(喧嘩というほどのものでもないが)。母とわたしの喧嘩はいつもこんな感じだ。「○○さんの娘さんが来年結婚するんだって」「へえ、それで?」「それでってそれだけよ」「○○さんの娘さんが結婚するから、自分はこう思うとかないわけ?」「ないわよ、そんなこといちいち考えてないもん」「ちょっとは考えてから喋ったらどうなのよ」「じゃあ、あんたと喋るのやめる」「その『じゃあ』ってなんなのよ……」。
「だからどう」ということがなくて呆れてしまうのだ。断片的な塊があちこちに落ちている。8月15日のつぶやきでメリットのことを書いたけど、「わたしはこう思うから、わたしはこうしたい」と考えるようにしている。テレビが流す情報をだらだらと頭に入れるのが嫌なので、テレビを観ると疲れてしまう。だからあまり観ない。「酷いわねえ、○○なんか死刑にすればいいのに」と『じゃあ』の母は声を大にして云う。どこに訴えているんだろう。声に出せば出すほど「わたしじゃなくてよかったよかった」と聞こえる。こういうのも無意識のメリットというものなんだろうか。
差別するとかしないとか、馬鹿や病人を見下すとか、言い訳するのもいいのだけど、「だからなに?だからどうするの?」と云いたくなる。どうせ考えるならメリットのあることを考えればいいのになあ、と思うのだ。鬱グループから抜け出せないのは、暴走族から抜け出すのが怖いと思うのと同じようなものだとわかればカッコ悪い。本当に怖いのはカッコ悪いことじゃないのかな。
まあしかし、日記というものは日常に起こったことを書き記しているだけでもいいのだろう。ということで、書いてみる。
デジタルカメラを買いに行く。わたしは無職なので収入がない。父と母を言いくるめるしかないのだ。近々父がパソコンを買うというので、「絶対に欲しくなるものだ」と云って説得する。こういうときこその「絶対」だ。日本橋まで行く予定だったのだが、値段的に変わらないということなので、実家近くのジョーシンで購入。母には値引き交渉のときだけ喋ってもらう。フロッピーディスクアダプターも購入。TAのときもそうだったが、買っただけで安心して平気で1年はほったらかしにする。でも今回はすぐに説明書を読む。パソコンに画像を取り込むことができた。
電子音ではなくベル音の目覚まし時計を買いに行く。意外とない。3件目でミッフィーの目覚まし時計を見つける。ドナルドダックとミッフィーをベッドサイドに並べる。なかなか可愛い。Kのモーニングコールのためと、本格的に規則正しい生活をするために8時に合わせる。が、ベッドサイドに置くのはよくない。音を消して寝てしまうのだ。ドナルドとミッフィーは離ればなれになる。
20010817 PTSDとかADHDってよくわからない。簡単につかっちゃいかんだろうなというのはわかる。でもカッコよさげだから簡単につかっちゃうんだろうな。母は最近音に敏感になってきたと云う。犬の鳴き声、他人のくしゃみを聞いても心臓がドキっとするらしい。「神経過敏になってるのかなあ……、PDなんとかってのあるでしょう?」と母までがつかいだした。「繋がれた犬が襲ってくるわけじゃあるまいし、この犬は襲ってこないものだと思えばなんともないよ」と自分のことじゃないと一言で片付けてしまうからおかしい。
そんな母と夜、池の周りを散歩にでかけた。キャーキャーと女子高生みたいにうるさい。茶髪の男がゆっくりと運転をしているだけで、「典子!もどろ!変な奴がつけてきてる!」と騒ぐ。「なんともないよ、茶髪なだけやん」とわたしがなだめる。気を取り直して歩いていると前で四角い物体がうずくまっていた。「典子!なんやあれ!もどろもどろ!」とまた母が騒ぐ。「精神病院で怖い人みてるのに今更怖がることないやんか」と笑ってなだめる。ぬうっと物体が大きくなる。よくみると周りにはザリガニの群。小太りの男が池からでてきたザリガニと遊んでいたのだ。「キャー!怖い怖い!」と母が走り去っていった。男かザリガニかどちらに驚いているのかわからなかったが、母は「怖い怖い!」を連発していた。後から聞くとどっちも怖かったのだと云う。
「この間お墓参りにいったでしょ、なんのためにいってんのよ。人はみな死んでいつか必ずあんなところに入るの。そんなことを考えたら怖いものなんてそうないと思うよ」とわたしが云う。それでも母は「いま、ここ」で起きていることがとてつもなく怖ろしいのだそうだ。同じ向きでハサミを上げているザリガニの大群は不気味だったけれど、それだけのことなのになあ。わたしはザリガニを少し蹴っ飛ばしてから歩いた。
20010815 断言するがいや断言しなくてもいいのだがとにかくわたしはメリットのあることしかしない。余裕がないとか腹黒いとかセコイということになるのかもしれないが、メリットのないことはできないのだ。ボランティア活動などは「いいことしました」的なメリットがあるだろうけど、わたしには合わない。カタチのあるものとか、気持ちのいいものとか、絶対的なものがいい。カスにもいいところがあるよなんてお人好しではないけど、極端なことを云えばカスでもメリットがあれば動く。わたしが理解できないのは、なんのメリットもないのにヘイコラと頭を下げる人たちだ。そういう人たちは○○センセみたいなものならなんでもいいらしい。やっぱりわたしには理解できない……。
20010814 土曜の深夜は喧嘩になる。『真剣10代しゃべり場』を観た後喧嘩をしているのだ。「ねえ、熱血先生って必要だと思う?」とかKに質問をして、Kが話し終わるまで待てなくて「でもさあ」と口を挟むから喧嘩になるのだ。「最後まで聞いて!聞くの聞かないの?最後まで聞くんだったら話すけど!」と。でもこれでもぐんと減ったのだ。100分の1ぐらいに減ったかな。Kの云うことは、正しくて間違っていなくて「なるほどな」で本当で嘘をついていない。こういう人って少ないと思う。だからKの云うことはまず素直に聞くようにしている。「でもさあ」と云いたくても我慢をする。後で歩きながら考えればいいのだから。わたしは直角人間らしいから、方向を変えるのに2年かかった。Kも大変だったことだろう。
ところで話は変わるが、わたしは20代半ば、Kは30代半ばである。
20010810 鬱はうつるという。元気な人でも鬱な人と一緒にいれば鬱になるってもんだ。言い訳がましいし、嫌なもの、不満なもの、アンチなもので9割以上を占めているんだもの。そんなものがカッコいいと勘違いしているから余計に見苦しい。もしかして本人は気づいてないのだろうか……。何十時間寝ようが何十時間寝ないでパソコンの前に座っていようが無表情の顔だろうが「それがどうした」なんです。体調が悪くなれば必要以上に騒いでわざわざ告知をする。体調が悪ければ悪いほどお祭り騒ぎになるから、そういうことにエネルギーを遣うことで生き延びているのかもしれない。
わたしは最近無理をしていない。無理をすれば翌日休む。鬱な人とはほとんど付き合ってない。全く付き合ってないかな。鬱同士で共感しながら生きていくというのもありかもしれないが、たぶんそれだと鬱からは抜け出せないと思う。うつるからね。わたしは元気になりたいから鬱じゃない人と話がしたい。なんだかわたしは鬱というものに厳しい。
20010808 某タレントの暴露本を読んだ。家出をして援助交際をして整形をしてアダルトビデオにでて芸能界に入ったという、堕ちるところまで堕ちて這い上がりましたという内容のものだった。ベストセラーになっている。
「なんでわざわざ過去の不幸を暴露するのかなあ、○○って今落ち目なのかなあ」「わたしも○○になれるんじゃないかと真似をする馬鹿がいるだろうなあ」と読む前から文句を用意していたんだった。
わたしがこういう話をするとKは嫌がる。嫌がるというか怒る。嫌がるだろうなと思っていたけど、正しいか正しくないかわからないままでいるのが苦痛だから「あのさあ」と口が喋ってしまう。大体、考えすぎたことは正しくないみたい。でも考えることは好きなわけで、ぐるぐるとまわって素直に原点に戻らなければならない。
嫉妬するんじゃない、卑しい考えをするんじゃないとKが云う。「嫉妬なんかしていない、卑しくなんかない」と反論するのだけど、本当のところは誰かに嫉妬しているし、嫌いな奴の失敗を笑ったりもする。
「嫉妬してはいけないの?本当のことを云ってはいけないの?」とKに聞く。「嫉妬してもいいけど人を陥れるようなことは云うんじゃない、言い方、書き方ってもんがあるでしょう」と。わたしはKのこういうところが大好きなんだろうなあと思う。
20010806 泣いたり笑ったり忙しいから頑張れる。「ねえ、みてみて褒めて」と一日に何回も云う。「ちょっとまって、まってよ!」とKが慌て怒った口調で応える。会社から帰ってきて息をつく暇もないそうだ。「この写真どう?上手く撮れてる?」「ふんふん……、うーん」「ねえ、ちゃんとみてるの?」「うんうん……、あ、末広まきこが公約違反で問題になっているらしいねえ、キレてるんだってさ、テレビとかで」「もお!なんで末広まきこの話をするのよ!写真どうって聞いてるのに!」「ああああ……、ニュースで流れているからだよ!」。「写真どうかって聞いているのに末広まきこの話をする……意地悪だ、褒めてくれない」とヒステリックにわたしが泣く。「どうしてこんなに上手く撮れているんだ!」とKが無理矢理にやけくそに怒鳴る。
泣かされたとわたしが云う。俺のせいにするなとKが云う。そんなことはどっちでもいいのだけど、人は一人っきりで頑張れるものなんだろうか。誰かに褒められて一緒に泣いたり笑ったりしていないと頑張れないと、わたしは思う。
20010803 8月1日はPLの花火。実家から富田林まで自転車で片道40分ぐらいを走った。ガソリンスタンドの女の子が高い塀に登って花火を見ていた。歩道も交差点も歩道橋も人でいっぱい。坂道でしんどいはずなのに、全然平気だった。顔も首も背中も腕もお尻も汗でぐっしょり。「どんどどどど」と地響きするような花火の音。立ち止まって見上げる。もっともっと近くに行きたい、真上で花火が見えるように。
なんの為に必死になって汗かいて走っているんだ、わたし。首にカメラ下げてさ。変だよ滑稽だよおかしいよでもなんだか元気だよ。「お姉ちゃん、ここやと建物で隠れているやろ、右の田んぼのところに行ってみ、丸見えやから」とおばちゃんが教えてくれた。「ありがとう!」とまた自転車で走り出す。どこを走っているかなんてわからない、とにかく花火に近づく為に。「どんどどどど」という花火の音と共に駆け巡る。「なんの為に誰の為に自分の為にあなたの為にわたしの為に」。おかしくておかしくて嬉しくなって笑った。
もどる
20010801 わたしは結構悪口を云う方だと思う。思っているだけじゃなくて口に出す。「○○がさあ、右だ左だと云っているんだけど、カッコ悪いよねえ、馬鹿じゃないのかと思うよ」と声を張り上げて云う。相手がもっと馬鹿にするのがわかっているから云うのだ。「自分が右だ左だと決めつけてしまうのは乱暴だよ、馬鹿だからそんな考えしかできないんだろ、右寄りか左寄りかなんてものによって変わってくるからね、先に自分の考えがあって右寄り左寄りというものがあるんでしょう」と。
なんかもう地に足が着いていない浮かれた言葉には辟易するのだ。「!!!」を多用した文章はこっちまで息苦しくなってくる。全部じゃないけど。自分の言葉で冷静に書けばいいのにって。わたしはできないことは云いたくない。片足だけじゃなくて両足を地につけたい。根拠はないけど毎日ちゃんと歩くとか食べるとか寝るとかがいい。刺激のあることや、めちゃめちゃ面白いことはちょこっとでいい。
日曜日は選挙に行った。「わたしは女性にしか投票しない」とKに云った。「女でいいと思う人がいない」とKが云う。そうかもしれないが、それでなにもしないでいるといいと思う人がでない。だからわたしは女性に投票し続けようと思う。
下手な運転をする車に「どっちみち女だろうな」と母が云う。母がそういうことを云うとわたしはムキになって、「いいや、あれは頭が禿げ上がったおっさんだよ」と声を張り上げて云う。わたしもまだ乱暴なところがあるのかもしれない。