私も生粋の左利きです。近親者には左利きの人間は一人もいません。昭和16年生まれの母に言わせると、「矯正しようとしたら (どもり) をはじめた」そうなので そのまま現在にいたっています。 彼女にとっては (ぎっちょ) より (どもり) のほうが 社会において不便だという判断でもあったのでしょうか。 それに、こういう話題になるとふた言目には 「ごめんねえ」 という言葉が出てくるのもなにか不快です。 別に左利きに生まれたくなかったなどと思ったことは一度もありません。 私は遺伝でもまた病でもなく生まれるこの左利きという特徴を望ましいものと思っています。
私は左利きが遺伝性のものであるという説を信じていません。 むしろ環境によるものが大きいと思っています。 ( 左利きの親のしていることを真似するとか、 また親がそれを見ても矯正しないとか )
かつてのハンセン氏病だとかエイズだとか、その他の、かつての原因不明(とされていた)の病が、研究の食い物にされ、安易な説のもとに当事者が社会から排除されるという現象は歴史の中にいくらでもあります。 かたよったサンプルの中で推理され、学会の利権争いの中で奇をてらって出された説など、いまここに集まっている数多くのサンプルたち (私を含めて) によって、 いずれ払拭されるべきでしょう。 私の友人には色覚があまり強くない人がいますが、やはり、「色覚なんて見えて当たり前」 という論理によって社会から傷つけられているように感じます。私とその友人との間に共通してあるのは、どちらも、 「かってに、社会の常識の論理で、ただの差異を優劣にするな」 という考えです。
いまこれを読んでいる右利きの人も、 たとえば私などが色弱の人に対してなかなか理解することができないでいるように、左利きの人間を、たとえ自発的にではなくても常識や数の暴力で無意識に虐げてしまっているかも知れない、と気づいて欲しいし、左利きの人にも、たとえ箸と筆の文化圏の中で、ところどころ肉体的にも精神的にも矯正されてしまっているにしても、もっと自分たちが当たり前のように受けている不快感に自覚的になるべきだと思います。
そしてその上で、どちらの腕で生きる人にも共通の課題として、 「 自分に子供が生まれたら矯正をするのか、しないのか。」 という命題を悩んでいってほしいのです。おそらくこの命題は、「自分の信念」 と、 「子供に抱く願望」 の間で、どんなかたちであれ完全な解決をすることはないと思います。
「出生前診断」 が 障害者を、胎児の段階で絶滅させようとするかのような理念の点で凶悪なのと同じように、 世の若き親たちが、 「出生後」 にする、 「自己判断」 もまた、左利きを、追いつめて虐げる、間接的に凶悪な出来事のように思えてなりません。