孫たちに贈る森の科学

森林インストラクタ− 大森 孟            
[2001/03/10 奥多摩町三木戸で撮す。]

孫たちに贈る森の科学 13 ---------------------------------------------------------------------- 山村の子ども  森林インストラクタ− 大森 孟 ----------------------------------------------------------------------

山村の子ども


(1)はじめに
(2)ワラビとゼンマイ        
(3)山芋掘り    
(4)アケビ採り
(5)クルミの季節
(6)おわりに     

(1)はじめに


  森や林で子供たちが遊ぶことは、山村であってもそんなに機会があったよう
には思いません。山というものは大事にされていましたから、子供ごころにも
遊び場とは考えていなかったのではないでしょうか。
  私は、茨城県の山奥で育ちましたが、裏山で遊んだ記憶はありません。ただ、
雪の降った日の午後、手製のそりで、作業道を滑べり下りたことが何回かあり
ました。  
  稲刈りの終った田圃、溜池の土手、分教場の校庭、鎮守の境内、川及び川原、
用水路などが主な遊び場だったようにおもいます。中学生の頃、山あいの田圃
に沢の水を引き、凍らせてスケート(下駄に金具をつけただけのもの)を楽し
んでいたところ、家人に見つかり、叱られました。
  父親の仕事の関係で、茨城県へ戻る前は、東京市板橋区志村というところに
小学校(当時は国民学校といっていました)の3年まで住んでいましたが、こ
こでも、子供たちの遊び場は、耕作されていない、雑草の生えた原っぱ、寺院
の境内、水路の土手、田畑の畦などでした。いずれも遊び場は十分にありまし
た。
  山を遊び場にしていたようなことを言う人が居りますが、そのようなことは
なかったはずです。山で遊ぶときには、《桜山》など遊山の場と定められた所
ぐらいだったようです。
  では、山へ全く入らなかったか、と言うとそうではありません。山へは毎日
入りました。薪(たきぎ)拾いに出かけましたし、ノウサギをとらえる罠(わ
な)をかけたり、野鳥をとらえる仕掛を作りに出かけたからです。食料特にた
んぱく質の不足しがちな山村では、これは大事な仕事だったのです。
  このようなことを前置きにして、今日は少し昔の山村での子供ながらの山の
利用についてお話したいと思います。

(2) ワラビとゼンマイ


  春の来るのが遅い山村でも、5月ともなれば、もう春もたけなわです。土曜
日の学校からの帰りにはもっと山奥から来る友だちとワラビとりやゼンマイと
りに一緒に行く約束をして帰ってきました。
  日曜日の朝、早く起きて、背中にビュク(細い縄で編んだリュックのような
形のもの入れ)のなかに握り飯を入れて背負い、手に鎌(草刈り鎌)を持って
山ぞうり(草履)を履(は)いて出かけました。人の多く住んでいるのはやは
り平地の多い所ですから、山奥へ行った方が収穫が多かったのです。
  家の裏山から我が家の杉山の中を越える道が近道なのですが、この道は暗く
て陰気なので、臆病な私は回り道をして、2キロ南に下り、そこから左へは回
り込む道を2キロか3キロ歩いて、裏山から通じる道の登り口まで登っていき
ました。その間に集落が4つ、滝が一つあります。この道は結構利用する人が
多いので、そう淋しくはありませんでした。
  この道も今では国道になっていますが、その当時は人ひとり通るだけの山道
でしたが、昔からの塩の道だったようです。平安時代の武将である八幡太郎義
家も通ったという伝えがありました。
  さらに4キロほど登ったところに、江戸時代の初めに作られ、天明年間の大
水で崩壊したという溜池の跡があります。今でも、その後は修復されることの
なかった当時の堰堤(えんてい)の跡が残っています。この溜池は干害の際に、
30km下流の田圃の水不足を補うために作られたというのですから、驚きます。
おそらく、わが国最古のダム遺跡といって良いでしょう。
  この溜池跡にある集落の友だちと約束をしていたのです。


(注)暦の上では5月は《初夏》ですが、気持ちの上ではまだ《春》です。
  2、3、4月が春、5、6、7月が夏、8、9、10月が秋、11、12、
  1月が冬と言うことになります。  

  
  何人かで、連れだって、暖かい日がうららかに照らす、江戸時代から牧場で
あった、なだらかな起伏の雑木林の中を歩きながら、一日中ワラビとゼンマイ、
それにタラノキの芽を探して歩きました。
  食料事情が悪く、十分に食事の採れなかった当時、どの家からも山菜とりに
山へ出かけていましたから、子供の私たちに見つかる前に、たいていは大人た
ちが採り尽くしていました。それでも、あちらこちらと歩き回ったものです。
  ワラビは乾いた日当りのよい斜面にたくさんあり、ゼンマイは沢筋の湿り気
の多いところにありました。ちょうど、マムシも沢筋に出ているので、ゼンマ
イ床に手を出す前にはマムシがいないかどうか確かめることが大切でした。
  足元のマムシに気をつけることは山育ちの子供たちは誰でも知っていました。
私は今でも、どこを歩く場合でもその注意は変わりません。昨年の秋も三浦半
島の大楠山の登山道でマムシに出会いました。私とすれちがった親子連れの登
山者は気づかなかったようです。気づかない、と言うことはかまれる可能性が
あると言うことです。  
  子供たちは、親はもとより近隣の大人たちから、ゼンマイとりの注意として
  (1)「○○のばっぱー(おばあさん)は、ゼンマイ床にトグロまいてだクジハ
     ビ(マムシ)にかまれで、死んだんだがんな。気いつけんだど。」
  (2)「おどこ(男)ゼンマイは食えねえがんな。」
  (3)「ぜーんぶとらねえで、1本が2本はのごしでくんだぞ。」
といった具合に教えられていました。同じ事を何度聞かされたか分かりません
が、この頃の子供たちのように「うるさい」などと言い返したことはなかった
ようです。       
  一日中歩き回って2束か、3束の収穫でしたが、満足して、意気揚々と家を
目指すのでした。これが山の子供たちの遊びでもあったのです。  

(3)山芋掘り

 
  秋も深まってきますと、まだ、緑の葉の多い中に、ひときわ黄色の目立つ、
つる性の植物があります。これがヤマノイモです。似たような姿をしているの
はオニトコロですが、こちらはヤマノイモのようには葉は黄色くなりません。
  葉の少なくなった山の斜面のあちらこちらに、木にからまってのびあがり、
際だって黄色く見えるので、遠くからでもヤマノイモのあることが分かります。
このように、山に自然に生えてそだったヤマノイモが《じねんじょう》で、漢
字では《自然生》と書きます。ヤマノイモと《じねんじょう》が別な種類だと
かん違いをしている人が多いようです。
  私の家の庭にはヤマノイモが、何か所かにありますが、もとは、茨城県で採
取したムカゴ(「たねいも」にあたる)を蒔いたもので、それを家を代えるた
びに持ち歩いて、所沢まで、持ってきたものです。ムカゴを蒔いてから、3年
か、4年すると根茎(いも)が大きくなり、食べられるようになります。
  ところで、このヤマノイモの葉が、黄色く染まる頃になると日曜日には、子
供たちは、やはり何人かで誘い合い、この《山芋掘り》に出かけます。ビュク
に弁当を入れて背負い、肩にはトウグワ(唐鍬)とテンツキ(天突き)という
道具を担いで山へ入って行きます。
  見つけるとつるの太さを確かめ、これなら大丈夫というつるの場合には、根
本をたどり、芋のありかを確かめます。切れていることもあり、その場合には、
もとを探すのに、苦労しました。
  見つけると、先ず周囲をある程度の深さまでトウグワで掘り、さらにテンツ
キを使って掘り下げていきます。そろそろ良いかな、という深さになると、芋
の回りをていねいに掘り崩していきます。
  石や固い土のために、まがりくねり、くびれたり、太くなったりしている芋
の姿を見ると、胸がどきどきするほど嬉しさがこみ上げてきます。ヤマノイモ
を1本掘るのに、1時間も2時間もかかるのですから、掘りとったときの感動
は並なみではありません。石だらけの斜面などでは、掘り出すのが特に大変な
ので、そこで、太い芋に出会えば、飛び上がるほど嬉しくなりました。
  こうして、あちらこちらの斜面をつたい歩いて、1日がかりで、ようやく3、
4本の芋を手に入れ山を下りるのですが、これも、山育ちの子供たちの遊びの
一つなのです。
  このヤマノイモが、その晩の夕食の膳を賑わすことになるのは言うまでもあ
りません。

(4)アケビ採り


  私たちは、毎日6キロメートルほど先の中学校まで歩いて通いました。いつ
もは、県道を通るのですが、長い道中ですから、必ずしもまっすぐ行き帰りす
るわけではありません。季節季節で通学の道を代えて自然の恵みを楽しんでい
たのです。
  もちろん、通り道の畑の産物も、ときどきはだまっていただいて帰りました。
これには《キマリ》があり、1ヶ所でひとつとり、みんなで分けて食べること
になっていました。このキマリに従っていれば、畑の持主も大目に見てくれた
のです。キウリ、トマト、ニンジンなど、季節の野菜を生で食べたものです。
  学校への途中に、県道の上にせり出して生えているイロハモミジがありまし
た。今は、道路が国道になり、幅がひろがり、崖(がけ)も崩(くず)され、
イロハモミジもなくなってしまいました。その木にアケビの太いつるが巻き付
き、毎年たくさん実がなっていたのです。登校の途中、ここで足を止め、皮が
紫を帯び、口を開けるのを今か、今かと待ちわびていたものです。
  このアケビにねらいを定めていたのは、私たちだけではありません。他の集
落から来る子供たちもねらっていたのです。
「口あいてる。」
という事に気づいた日は、みんな授業など頭にありません。朝から、早く学校
が終るのを待っているのです。先生の言うことや注意などみんな上の空です。
  終了の鐘がなるとかばんや風呂敷づつみをかかえて、われ先にと校門を駆け
出していくのでした。みんな、イロハモミジへ一番乗りをねらっていたからで
す。
  悲劇なのは、その日掃除当番に当っているものたちです。掃除をほうって帰
るわけにはいきませんから、あきらめるしか仕方がありません。
  目的地へ行ってみると、たいてい先客がいるもので、早くもカエデの木にと
りついています。遅れをとった者たちは、くやしまぎれに、県道から石を投
げ上げるのですが、カエデの木までは届きません。ひとしきり、石を投げると
あきらめて、みんな一緒に家を目指して、ぞろぞろと県道を歩きはじめたもの
です。
  私は、家までの道筋の笹やぶの中に、秘密のアケビを見つけてありました。
川の方から見ると高い崖の上に張り出した所なのですが、県道から見ると、畑
の隅の薮の中なのです。ここに毎年実をつける丈のひくいアケビづるがありま
した。村境だったせいか、或は《曲り松》という地名のためか、子供たちが寄
ってこない所でした。
  このアケビが私の「タカラモノ」だったのです。アケビ採りもクリ拾いとな
らび、山村の子供たちの遊びの一つでした。

(5)クルミの季節


  クルミの実が落ちるのは夏休みにはいってからです。母の実家の畑の隅には
大きなクルミの木がありました。川の中から見るとその木が崖の上に川の方へ
せり出して伸び上がっているのが分かります。
  当り前のことですが、この木の実は川の中へ落ちることになります。このク
ルミも子供たちのオヤツがわりでした。貧しかった日本の農家ではオヤツなど
なかったし、3時の休憩にはお茶と漬物が普通でしたから、変わったものが出
て来ることなどめったにありませんでした。
  ですから、子供たちは遊びながら自分の手で、食べられるものを探し、遊び
疲れると見つけたものを口にしていたのです。真夏の盛りのご馳走(ちそう)
はクルミの実だったのです。
  クルミの実はたくさん落ちているので、アケビの様な競争にはなりません。
泳ぎに行った帰りやカジカをとりに行った帰りに、道具を岸において川の中を
歩いていき、落ちている青い実を拾い集めました。
  かっこうな石を見つけて、その実を叩いて割り、中の部分を食べるのです。
あの、独特の脂のある実はどの子も喜んで食べたものでした。実の大きい割り
には中身が少ないのと、面倒な作業をしないと口に出来ないことが元気の良い
子供の性格に合わなかったのか、これを毎日食べたり、拾って家まで持ち帰っ
た記憶はありません。
  このクルミの実を割ると手が黄色くなってしまうので、その日なにをしてき
たか、一辺で家のものたちにも、友達にも分かってしまうので、ごまかしがき
かない、のが難点でした。        

(6)おわりに

     
  このような、遊びを通じて、昔の山村の子供たちは知恵をつけ、自然を知り、
資源を持続して利用するためのルールを身につけてきました。決して、昆虫採
集をしたり、標本作りをしながら自然に親しんできたのではありません。そう
いうことが出来たのは、恵まれた家に育った者ぐらいでしょう。
  生活の一部として自然を利用してきたので、自然のからくりや循環を体でも
って理解することができたのだと思います。《生活実感》があるから、私たち
の心にそのときのことが焼き付いているのだと私は信じております。       

(2000/12/14)

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