孫たちに贈る森の科学 森林インストラクタ− 大森 孟
[99/10/26 西会津の森も水も清らかな渓谷を撮す。]
===================================================================== 孫たちに贈る森の科学 V 筆者:大森 孟 ===================================================================== 昔の肥料(こやし)
目次
(1)はじめに (2) 肥料はいつから (3)かわらぬ肥料 (4)その他の肥料 (5)おわりに(1)はじめに
今日のお話は、ちょっと森の話からそれてしまいますが、私たちの先祖の知 恵を知るという点からは面白いのではないでしょうか。 もう、3年か4年経つと思いますが、あるところで行われた雑木林について の集まりに参加したときのことです。そのとき、町から招かれてやってこられ た、ある大学の先生から、「堆肥は江戸時代から使われ始めた、といわれてい ますがどう思いますか。」と質問されました。 そのときの質問に答えるために、「肥料」について調べてみました。その結 果、肥料の歴史はとてつもなく古いこと、その古い肥料が、つい最近まで変わ ることなく受け継がれて、お百姓さんのお仕事(「農業」といいます)に活か されていたことを知り、びっくりしました。 それが、今日お話する「昔の肥料」です。今では、「化学肥料」や「配合肥 料」が普通になってしまい、「昔の肥料」の影は薄くなってしまいましたが、 私が中学生であったころは、この「昔の肥料」が、健在でした。(2) 肥料はいつから
今日のように「化学肥料」が広く使われ、大量に出まわるようになる前の農 業では、肥料として草木灰(そうもくばい)、石灰(いしばい)(*1)、刈り 敷き、緑肥(りょくひ)、堆肥(厩肥)(*2)、人糞が大切でした。少々豊かな 農家では、このほかに油糟(あぶらかす)や干魚(ほしか:魚類を天日で干し たもの)も利用しておりました。
(*1)近頃の人は「せっかい」といいますが、辞書をひくと、説明に「いし ばいに同じ。」とでてきます。「いしばい」とひくと細かい説明が出て きます。つまり、「いしばい」が普通のいいまわしです。草木灰(そう もくばい)に対することばです。 (*2)力のある農家では、家畜(関東では主として馬)を飼い、厩舎(きゅ うしゃ)へ「落ち葉」を寝藁(ねわら)がわりに入れ、糞尿と混じった ものをかき出し、肥(こい)置き場に積み置いて醗酵させ堆肥を作りま した。堆肥が完熟するまでの間、何回も切り返えしては積み上げておき ます。 堆肥を積み上げるときには型枠(かたわく)を使って、角柱のように 積んでおきました。それを田に入れたり、畑に入れて肥料としていまし た。
これらの肥料は、どれもお隣りの中国では、「漢(かん)」の時代にはもう 使われていたということです。漢の王朝は紀元前202年から紀元8年まで続 きましたから、日本では、縄文時代の終わりから弥生時代にわたるころです。 これは日本人が農業を始めた時期と同じです。弥生時代の人々は、もう肥料を 使うことを知っていたのかもしれません。 この漢の時代に書かれた書物には、上に上げた肥料がのせられているのだそ うです。この書物は、平安時代には日本にも伝わってきていたことが分かって いますが、1世紀以降は中国との交流も盛んになっていますから、これらの肥 料についての知識も、私たちの先祖、つまりお百姓をする人々には知られてい たものと考えてよいでしょう。 少し、時代がさがるのですが、行基(ぎょうき、749没、82歳)や空海(く うかい、835没、62歳)などというお坊さんがいます。今のお寺の住職(じゅ うしょく)さんとはちがい、中国伝来の新しい技術を身につけた最先端の技術 者であったようです。この人たちが肥料ばかりではなく、ため池や水路を作っ たり、井戸を掘るなど農業や土木の技術の進歩に大きな働きをしていたようで す。(3)かわらぬ肥料
2000年にわたって続いてきた、日本の国の農業は今風に言いますと、そ れは「有機農法」(ゆうきのうほう)でした。肥料の中心が、刈り敷き、緑肥 (りょくひ)、堆肥(厩肥、きゅうひ)、人糞(じんぷん)にあり、いづれも 生き物とつながりがあります。この生き物の体を作っているものが「有機質」 です。それを肥料として使い、農作物をつくるのが「有機農法」だということ になります。 700年も前に書かれた中国の農書(*3)には、上にあげた肥料の中で、堆 肥や人糞は十分に醗酵させてから使わないと作物をいためることになることが 書かれています。今でもお百姓さんの間でいわれていることです。私の子供の ころは、東京都でも板橋、練馬、世田谷などの畑のすみには「肥溜め」(こい だめ)というものがありました。これが人糞を醗酵させて使うための施設だっ たのです。
(*3)農書はお百姓さんのお仕事について書かれている書物です。最も古い 農書は、中国の漢の時代に出ています。日本では室町時代にはじめて現 れました。
びっくりさせられるのは、石灰の使用です。これが使われたということは、 酸性の土、あるいは酸性になってしまった土は、石灰を使って中和すれば、ま た、作物ができることを知っていたことになります。石灰の「土壌改良」の効 果を当時のお百姓さんが知っていたのです。 日本では、昭和30年代まで昔どおりの肥料を使って田畑の耕作が行われ ておりました。それに油かす、干しかが追加され、化学肥料の硫安(りゅうあ ん)、石灰窒素(せっかいちっそ)、過燐酸石灰(かりんさんせっかい)が加 わってきていました。 油かすや干しかがいつ頃から使われるようになったのかははっきりしません が、江戸時代には使われだしていたことが、そのころの「農書」(のうしょ) に書かれているのでわかります。 干しかは海辺で作られ、内陸の農村へと運ばれてきました。この運搬の路筋 (みちすじ)は塩を運搬する道と同じ道だったと考えてよいでしょう。今から 400年以上も前のことになりますが、武田信玄と上杉謙信の塩をめぐる故事 (*4)があります。このことからも分かるとおり、あの時代にはすでに塩を運 ぶ「塩の道」が各地に開かれていました。おそらく、「干しかの起源」は記録 された時期よりもっと古いのだろうと思います。
(*4)武田信玄の領地は甲斐(かい:今の山梨県)で、内陸にあり、塩を今 川義元の支配下の駿河(するが:今の静岡県)から買っていました。と ころが、武田と今川の間に争いが起り、塩が止められてしまいました。 領民は塩がなく困り果ててしまい、その様子が越後(えちご:今の新 潟県)の上杉謙信に知られることになりました。謙信は「戦いは信玄と 謙信の間のこと、領民には何の係わりもないことだ。塩を越後から供給 しよう。」と越後から甲斐へ塩を送ったということです。 そのころ、信州を舞台に信玄と謙信は激しい戦いをくりひろげていま した。【参考】醗酵の技術
醗酵の技術は東南アジアの照葉樹林帯(*5)に住む人々の知恵だといわれ ており、これはまことに古い歴史を持っております。日本人の起源を東南ア ジアに求める根拠の一つとして、この醗酵の知恵をあげることができるでし ょう。みなさんのよく知っている納豆、酢、醤油、酒、味噌、などなどいづ れも醗酵食品です。そうしてその極めつけが「堆肥」なのではないでしょう か。 日本で、最も古い書物である「古事記」や「日本書紀」の書かれた奈良時 代には、もう醗酵の技術は山間僻地にまで一般化していたことは、当時の伝 承から考えても明らかです。 皆さんがよくご存知の、「八又のおろち」伝説では、八つの樽に酒を満た し、それを飲んで泥酔した大蛇(おろち)を「すさのおの命」が切り殺して いるのです。 この当時、酒はご飯を噛んでは吐きだし、その吐き出したご飯をたくさん 集めて醗酵させて造っています。この大蛇退治の時の酒は「醴」といわれる 一晩で造ったものだったのではないかと思います。(4)その他の肥料
古い時代から使われてきた、草木灰(そうもくばい)、石灰(いしばい)、 刈り敷き、緑肥(りょくひ)、堆肥(厩肥)、人糞のなかで、堆肥は説明して きましたので、そのほかの肥料について、簡単に触れておきたいと思います。 まず、草木灰ですが、これは草木を焼いてできる灰のことで、カリウムを含 んでいます。肥料は窒素、燐、カリウムをバランスよく含んでいることが大切 です。 石灰は石灰岩を粉砕して作るものですが、皆さんが学校で校庭にラインを引 くときに使っている白い粉が石灰です。白壁の材料もやはり石灰で、江戸時代 には、青梅の成木が有名な生産地でした。 刈り敷きは田植えの代掻きの前に、森の草木を刈り取り、そのまま田の中へ 踏み込むものですが、所によっては「かっちき」といっています。 緑肥は刈り敷きに似たような使い方ですが、通例はマメ科のレンゲソウを利 用し、あらかじめ田へ種を蒔いておき、田植えのころ花の咲いているものをそ のまま鋤き込んでしまいます。マメ科の植物は空中から窒素をとるので、窒素 肥料として使われるのです。もちろん昔の人たちが窒素の働きを理解していた のではありません。経験でこうすると収穫が多いことに気がついていたまでで す。 人糞はいうまでもありませんが、人の出す大・小便のことです。江戸時代に は庶民のものより、贅沢をしている町人たちの物のほうが値打ちがあった、と いうことです。大・小便にも序列があったというのですから、おかしくなるで しょう。(5)おわりに
今日のお話はすこし難しかったかもしれません。知っておいてほしいのは、 人間の知恵は意外に古い歴史を持ち、学者が考えている以上に古くから使われ てきたということです。 堆肥などもそのよい例で、学者のいうとおり、江戸時代まで、堆肥の使用が 考えられていなかったとしたら、田畑は荒れ放題になってしまったろうと思い ます。早い時期から堆肥が使われ、食べ物が十分に生産されていたから、日本 の文化が花を開いたのだと思います。 古い時代から中国の文化を盛んに取り入れて、発展してきた私たちの国が、 学者の言うように、農業技術だけは取り入れなかったのだ、などとは考えられ ません。 (2000/08/04)[前のタイトル] [次ぎのタイトル] [ホ−ムペ−ジへ戻る]
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