[2008年1月19日(土)] 三ヶ根山(さんがねやま)

≪前半≫

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コ−ス=≪前半≫
07:18(名鉄)新安城 発−(岡崎公園で中岡崎 発、環状鉄道に乗換)−
-岡崎−(JR豊橋行き乗換)−08:04三ヶ根 駅 着−同出発−09:40頂上 着−
-頂上慰霊塔等 見学−10:55頂上 発−11:10無線搭下−殉国七士廟 見学
コ−ス=≪後半≫
11:45殉国七士廟 発−12:20七段の滝(昼食)−13:00同 発−
-13:45幡豆/吉良/幸田/交差点 着−14:25(名鉄)西幡豆駅 着−
-14:30同 発−(西尾経由)−15:30新安城 着

《時刻で発着表示のないものは到着時刻です》

参考資料=コ−ス略図

≪前半概要≫
今回は西三河の南端、三河湾に近い“三ヶ根山”(さんがねやま)321mに登る。“三ヶ根”の意味は蒲郡(がもごおり)、幡豆(はず)、幸田(こうだ)、の三つの地域の境目に位置するからそんな名前が付いたらしい? 自宅の“新安城”から名鉄を経て今回初めて“愛知環状鉄道”と云う第三セクタ−の電車に乗り、更にJRに乗換えて三ヶ根駅まで行った。最近は夕暮れが早いので出来るだけ朝早く、07:18に新安城を出発し、三ヶ根駅に着いたのは08:04。朝の冷気で冷え込む中、駅前から直接歩き出し、県道に出てから直ぐ左側に有った“三ヶ根山”ハイキングコ−スの目新しい標識に沿って進む。山間の畑の中の一本道には要所要所に同じ新しい標識があって迷うことは無い。やがて林の中の本格的な山道となって40分ほど急な坂道を登ったら“三ヶ根山スカイライン”の舗装路に合流。つまりここが頂上だった。

スカイラインの傍には朱塗りの立派な“三ヶ根観音”が有ったが、実はここは世界平和、交通安全祈願、四国八十八ヶ所、西国三十三観音、それだけでなく境内には比島戦、つまり太平洋戦争のフィリピン戦没者の霊を祭る“比島観音”でもあった。広い境内の中に無数の戦没者の霊を祭る立派な慰霊碑が立並び、その管理も良く行き届いていた。また西側には広い公園や展望台もあり、幸い好天に恵まれて綺麗な三河湾や渥美半島の眺めが楽しめた! スカイラインの東側やこの慰霊碑などをユックリ見て周った後、今度は下山コ−ス途中の“殉国七士廟”に立ち寄る。

初め“殉国七士廟”とは、フィリピン戦のとある七兵士の墓か? と思っていたがとんでもなかった。先ず入り口の巨大な石柱からして立派過ぎる。そして七名とは実はあのA級戦犯七名の墓だったのだ! かの極東軍事裁判(東京裁判)で絞首刑となった東条英機・土肥原賢二・松井石根・武藤章・板垣征四郎・広田弘毅・木村兵太郎の七人の遺骨は当初、伊豆山中の墓に埋葬された事は何かの本で読んで知ってたが、昭和三十三年に日本の中心地である、ここ愛知県幡豆郡幡豆町の“三ヶ根山”山頂に移されることになったとか! ウ−ン! 今日は思いがけず改めてあの戦争を思い起こす鎮魂の山登りとなった。

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↓08:04、JR三ヶ根駅【写真No.01】、改札を出て西口(右手)の階段を下ったら右前方に歩道橋【02】、これを渡って緩やかな坂道を行く【03】、、、途中右手の保育園【04】、、、今度は緩やかな下り坂になって前方の石切り場【05】を見ながら進むと、やがて08:25県道に出た【06】。そのまま県道を右手に進むと、、、間もなく08:32こんな三叉路【07】、角に何やら標識が?

↓近づいてみたら【08】、と目新しい標識に丁寧な案内! 素直に矢印左手に入る、、、と41号線の下【09】を通り抜け、、、右手の畑【10】を眺めながらの歩き、、、おッ、又もや三叉路と二つ目の標識【11】、頂上まであと1.6kmとか【12】。ここも素直に右手に進む、、、こんな橋【13】を渡って、、、左にカ−ブ、、、冷気の中の眩しい朝の陽光【14】。

↓右手の土手に立つ林道改修記念碑【15】を素通りして、、、歩いていくと次の三叉路と標識が見えてきた【16】。三つ目の標識【17】、どうやら小学生の遠足用標識か? ここは左に進み、、、やがて林が近づく頃08:45、四つ目の標識【18】、こんな事が書いてあるよ!【19】 説明どおり林の中の山道【20】、、、途中、何故かタバコの吸殻入れ【21】が有ったのには思わず笑っちゃった! そう云えば先週の“猿投山”でも頂上に大きな吸殻入れが有ってビックリした事を思い出した。やっぱりタバコのポイ捨てをするハイカ−が居るのかな〜? 同じ愛煙家として嘆かわしい!

↓昼なお暗き森の中の歩き、、、この辺りはまだ緩やか登り坂、、、今度はケルンとこんな標識が【22】、「日本の名山、三ヶ根山」とはえらく大袈裟な! わずか320m余りの山で何が名山か?(と、内心笑っていたがあとでその意味が分かったのだ!)、、、今度は五つ目の標識【23】、今からがきついんだって! 沢に掛かる小橋【24】を渡ったらこんな標識【25】、この時がちょうど09:00。、、、ここからが本当の急坂になる【26】。階段でないのでまだ楽かな? 石ころの上に落ち葉が乗って滑り易い急坂を登る【27】、、、沢を横切り【28】

↓15分ほどの急登坂、さすがにチョット疲れたと一休み!【29】、、、そしてまだまだ続く登り坂【30、31】、、、倒れた木を避けながら登って行く【32】、間もなく正面上に何となく稜線が? そして09:30登り着いた所、六つ目の標識【33】「がんばれ!」と励まされて矢印どおり左手へ進む【34】、、、右手の林に下にもう一本道が見えるぞ、、、その道と繋がる三叉路に出た【35】

↓三叉路の角に立つこんな標識【36】、振り返って見ると右側が今歩いて来た道で左側が“大沢”に出るらしい? そのまま直進して【37】、、、階段を数段上がった所【38】が“三ヶ根山スカイライン”、つまり“三ヶ根山”頂上321mだった! この時09:40。道路の正面の様子【39】と右側はこんな感じ【40】、そして左側はこんな感じ【41】で広場には寂れたレストラン風な建物も。そのまま左側の車道を行って見ると、、、【42】の看板と、

↓その看板の先の小広場から北側の展望が開けていた。あそこは岡崎東部【43】と北部方面【44】かな? まだ地理が良く分からない? スカイラインを元の場所【45】まで戻り、“三ヶ根観音”参道口から入ってみる【46】。階段を下りた左側のお地蔵さん【47】、右手が“三ヶ根観音”【48】。お賽銭をあげ何やらお祈り! そして改めて周囲を見るとこんな標示【49】。そうだったのか! ここは太平洋戦争のフィリピン戦没者の霊を祭る“比島観音”でもあったのだ!

↓慰霊碑を見る前に、、、この小広場にはこんな観音様も【50】有った。“ぼけ封じ白寿観音”【51】。左手にはご丁寧にボケ易い人のタイプ説明も!【52】。読むと自分はボケ易いタイプでもあり、またそうでないタイプの両面を持ってるが、どうやらボケ易いタイプに近いようだ! どうか当たってない事を祈るのみ! しかしボケたら本人はその意識は無く、迷惑するのは周囲のみ。そう考えると早くボケた方が勝ちかもね!(^_^) ってな事を考えながら右手の階段を上がってみたら、そこはジャリが引かれて良く整備された綺麗な広場、その一番奥には“比島観音”【53】、それを両側から挟むように立ち並ぶ無数の慰霊碑【54】。そしてこんな珍しくまた貴重な物も【55、56】、彼の日本が誇った戦闘機、ゼロ戦のプロペラとエンジンだった、もちろん本物! 余談だけど、当時米軍の最新鋭戦闘機グラマンと対等、いやそれ以上の能力を誇った日本航空機技術の粋だった。だからこそ戦後何年間もアメリカは日本が航空機を独自開発する事を許さなかった。

↓各慰霊碑を良く見るとフィリピン戦線での各部隊別に建ってるようだ! 広場の慰霊碑を離れて西の方へ進むとこんな資料も【58】。またこんな無数のお地蔵さん【59】、、、フィリピン戦線だけでなく【60】、、、また戦没者ではないがスモン病で有名になった薬害根絶之碑【61】等など、、、“祖国よ永遠に!”の碑にはちょうど暖かい日差しが【62】、、、皇居正門を模ったこんな碑も!【63】、、、いやぁ〜参ったッ、参ったッ! 過去本で読んだりして太平洋戦争の事は概ね知ってたが、各慰霊碑を見学、説明文を読む内に、こんなに多くの犠牲者のお陰で今日の日本の平和が有るのか、としみじみと考え思わず目が潤んできた!

↓慰霊碑の場所を離れて更に西の方へ進むと途中こんな下山路の標識【64】、、、そして広々とした広場へ【65】、道の右手には小高い丘に立つ東屋と展望台、手前には立派なトイレ【66】。東屋展望台に上がってみる【67】、北東方面には最初にスタ−トした幸田町の石切り場付近【68】、北側の町並みは多分?岡崎方面【69】、そして南東側には三河湾と渥美半島【70】。

↓三河湾の全景【71、72】、手前は幡豆,吉良辺りの町並みと沖に浮かぶ島は梶島か? 右手に目を移すと逆光に映える知多半島【73】。さらに右手前の町並みは?【74】、、、、観音像や慰霊碑を見学し、景観を堪能。1時間以上もこの頂上で過ごした後、10:55この頂上広場を後にして更に西に進むと直ぐに“三ヶ根山スカイライン”に合流【75】、この蒲郡から幡豆町を抜けるスカイラインは全長15kmで6月頃には道の両側があじさいでいっぱいになる「あじさいロード」とか! 車道を進んで行くと前方にこんな白亜の殿堂?【76】、近づいて見たらただのレストラン、しかも荒れ果てた廃家だった、、、さらに進んで下り坂、今度は前方に無線中継所【77】

↓11:10無線中継所の下まで着たら【78】、“殉国七士の墓”とは、日露戦争の肉弾三勇士的な七兵士の墓か? と思いながらここから右へ進む【79】、、、すると巨大な石柱【80】、偉く仰々しいな〜? と思いつつ中へ入って行く、閑静な庭を歩くようだ【81】、、、直ぐに左側に標識【82】、地図を確認して今日の下山路はここからだ! と思いながら先ずはそのまま前進、、、ここもかなりの広場と何やら大きなオブジェも?【83】 よく分からないが“萬世太平”のオブジェ!【84】

↓傍の説明書き【85】の最後、「国内外の英霊の、平和に寄する想ひこそ、、、」、つまりこの巨大オブジェは平和祈願のものだった! 周囲には先のフィリピン戦没者慰霊碑と同じく慰霊碑も【86】。そしてこの廟の主題はここに説明されていた!【87】。何とッ! 七士とは例の東京裁判で処刑されたA級戦犯七名の墓【88】だったのだ! これにはビックリ! 伊豆に墓がある、とは昔何かの本で読んだ事があったが、、、簡単で解り易い説明も傍に【89】。この広場の左下にはまたもや多数の慰霊碑が【90、91】

↓南方戦線、シナ戦線、など各地で散った英霊の碑が立ち並ぶ【92、93】、ある連隊の多数の戦死者の名簿も【94】、、、そして傍のサザンカの木は玉砕した英霊の未亡人が植樹した記念樹【96】。また、これは珍しい兵士ではないある女性の慰霊碑も【97】。その横にあった飛行機のエンジンの様なものは?【98】

↓当時の米軍の戦略爆撃機、あの悪名高いB29のエンジンだった【99】、これももちろん本物! B29と云えば、その名前だけでも子供の頃から憶えている。それは両親から幾度と無く聞かされたからだろう! 太平洋戦争末期、日本の主要都市を焼夷弾で無差別爆撃し、廃墟の町としたあの飛行機だからだッ!

≪後半へ続く≫

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