●良く晴れた冬の日に●
都内のホテルのティーラウンジで、4〜50代の中年男女が5人、まるで放心したように 座っていた。 目の前のコーヒーに手をつける者はほとんどいない。 女たちは冬の喪服で、皆、真っ赤に泣き腫らした目をしていた。 男たちは官位に相応しいモール付きの礼服を着て、虚ろな目で押し黙っていた。 彼らは今、都内の寺で行われた昔なじみの男の葬式へ参列した帰りだった。 お互い会うのは久しぶりのこと、別れがたく連れ立ってここへ落ち着いたのは細君たち であり夫たちはそれに付き従った形ながら、想いは皆同じ男へと向けられていた。 「なんかまだ私、信じられない気持ちなんです…。つい先週も所轄署で会ったばかり だったのに…」 警察の女子用礼服のスカートを無意識に握りしめながら柏木雪乃がポツリとつぶやいた。 皆がうなづく。
所轄署に行けば、今でもタバコをくわえたあの男が居て、こちらへ向かって気軽に白い歯 を見せ大きくにかっと笑い掛けてくるような気がする。 笑い皺の増えた分、落ち着きも思慮も加わった立派なベテラン刑事になったあの顔で。
雪乃は40を越えた今も独身を通しており、長い歳月の間にそれなりの階級まで登って 管理職として活躍していた。髪にほんの少し白いものが混じり始め目許と口許がシャープ になって、老嬢の性格の強さが全面に押し出てきている。 だが今日ばかりは儚げだった頃の昔の面影を表情に滲ませていた。 赤くした鼻をチンとかみながら、泣いた後の詰まった声で夏美が言った。 旧姓篠原夏美。今は結婚して新城夏美になっている。 「おだやかないいお顔してましたよね…まるで眠っているみたいで…」 そういってまた鼻水をすすり上げぐしょ濡れのハンカチで目許をぬぐった。
昔なじみ数人が無理を言って特別に会わせてもらった棺の中の仏の顔は穏やかだった。 その身体にどんなに惨たらしい傷があるにせよ、首から下に巻かれた包帯と上から掛け られた礼服によって全て隠されていた。 花に囲まれた仏の顔はまるで眠っているかのように穏やかで微かに微笑んでさえ見えた。
結婚退職している夏美は礼服ではなく普通の喪服を着ていた。 彼女は皆に祝福されて花嫁となり、今では幸福な2児の母となっていた。上は高校生、 下は小学生のまだまだやんちゃ盛りの息子達を育てちょっぴり太めな主婦になりながら 当時の明るく愛らしい若妻の面影をまだ残している。 傍らに座る夫はそんな妻を労るようなまなざしで優しく見つめた。 礼服姿の彼は秀でた額が若い頃よりさらに広くなっている。 新城は妻を心の底から深く愛していた。 仕事中は相変わらず苦虫を噛み潰したような顔でにこりともしないが、プライベートでは よく笑うようになっていた。明るい妻の影響である。 新城は幸福を手に入れたのだ。 おそらく死が2人を分かつまで、つがいの鳥のように自分達は寄り添い、幸福に暮らすで あろう。 …死が2人を分かつまで。 棺の中の男と、残された伴侶の孤独に思いを馳せる。 「……とうとう二階級特進とはな……最期までバカな男だ……」 新城は痛ましさに顔を歪ませ聞き取れないほどの小さな声でつぶやいた。 それを受けるように、喪服姿のすみれがきつい眼で吐き捨てるように言った。 「……あんなくだらない死に方して……ホントに馬鹿もいいところッ!! 和久さんから 逮捕の時は気を付けろってあれほど言われ続けていたのに……大馬鹿よ……」 その和久は一昨年の夏、娘一家に看取られ天寿を全うしていた。 生きていればさぞかし嘆いたことだろう。 今日の葬儀の間中、声を上げて一番泣いていたのはこのすみれだった。今も眼が赤い。
その死は、ほとんどニュースにもならなかった。 その日は海外で大きな航空機事故があり、新聞もテレビもその話題で持ちきりだった。 ありふれた刃傷沙汰を止めようとし巻き込まれて死んだ国内の警察官のニュースなど 片隅に追いやられ小さく扱われほとんど人々の記憶に残らなかった。 刺し所が悪く頸動脈を傷付けられた熟年の警察官は病院に運ばれたものの出血多量で まもなく亡くなった。運び込まれた時にはすでに意識不明の重体で医師も手の施しようが 無かったのだ。 刺したのは髪を染めた19歳の無職の少年で取り調べ室で警察官の死亡を伝えられても けろりとしていた。 「俺たちの喧嘩にマッポのおっさんが出しゃばって来るからさァ、カッとなって思わず 刺しちまったんだよ。出しゃばって来たあいつが悪いんじゃねえか」 悪いことをした自覚も無いのだ。 亡くなった警察官は所轄のベテラン刑事だった。
すみれは高校生と中学生の母となった今も変わらず美貌である。 真下は複雑な表情で年上の小柄な妻を見ていた。 真下は白髪が目立つようになった他はこれといって特に老けた所はないが、本庁に移って からはずっと官僚らしくなってどこか底の知れない曖昧な面を見せるようになっていた。 政治的駆け引きにも長け、官僚界を案外したたかに泳ぎ渡っている。 すみれは三十路の大台に乗る直前にこの真下と結婚していた。 これには皆が仰天した。成りゆきで夫となった真下本人も仰天したに違い無い。 すみれが青島と室井のどちらを好きで、ずっと独身を通していたのかはわからない。 だが三十路が目前に迫った頃、すでに本店に移っていた真下を電話で呼び出し酒に 酔わせ、逃れられない既成事実を作っておまけに一度で妊娠までしてみせ、大慌ての パニックを起こした真下家と恩田家の両親をうまく丸め込み、さっさと寿円満退職へ 持って行ってしまったのだ。いやその辣腕のしたたかなこと鮮やかなこと。 すみれは官僚夫人になるという望みをあっという間に叶えてみせた。 真下はすみれに騙されて結婚したような形だったが、お互い熱烈な恋愛感情こそなかった ものの、この夫婦は案外折り合いよくうまくやっている。 すみれのようなしっかり者の妻は真下には合っていた。その後真下が官僚として成功して いったのも、すみれの操縦が巧みだったからに他ならない。 真下は赤く腫れた小さな眼を虚空に据え誰にともなくぽつりとつぶやいた。 「先輩、ほんとに馬鹿ですよ。…室井さんを置いて先に逝っちゃうなんて」 それは全員の胸に刺さる痛い思いだった。
私用の携帯で真下からその知らせを受けた時、新城は自分を呪った。 「病院に確認を取りました。間違いありません。新城さん…室井さんに…すぐ伝えて もらえませんか? お願いします…!!」 ノイズ混じりの携帯の向こうから聞こえてくる真下の泣き声を聞いて、泣きたいのは こっちだと思った。 よりによって、何故この知らせを室井に知らせる役目が自分なのか。 いっそのこと隣の庁舎に居る一倉に代わってもらおうかとも思った。 だが新城は 「…わかった。伝える」 とだけ短く答えて通話を切った。 今この庁舎に居る者で室井にそれを伝えられる人間は自分しかいない。 一倉に連絡したところで公務中なのだから私用で駆け付けて来れる立場ではない。 自分が伝えるしかない。たとえそれが死の宣告を下す死に神の役目になろうとも。 ノックをして執務室の中へ入る。 「失礼します」 重厚な机の向こうで書類に目を通していた室井は、青ざめ怖い顔をして入って来た新城を いぶかし気に見やった。 新城は机の傍に立った。 室井はゆっくり老眼鏡を外すと、大きな黒い瞳で生真面目に新城を見上げた。 「…どうした?」 髪はだいぶ白くなり、顔や手に皺も増えたが、長い睫毛に縁取られたこの黒い大きな眼 だけは若い頃と少しも変わらない魅力に満ちている。姿勢の良いほっそりした姿も昔と 少しも変わらない。50を過ぎた制服姿の警察官僚に「佳人」という形容はおかしなもの だが、室井は未だにそう呼ぶに相応しい雰囲気を持っていた。 新城は大きくひとつ呼吸をした。なるべく淡々と、事実のみ、伝える。 「室井さん。落ち着いて聞いてください。……たった今……青島が亡くなったそうです」 室井の目は大きく見開かれた。 身体が強張り、真っ青になったが、かろうじて取り乱すことだけは堪えた。 少なくとも、表面上は。 だが新城はこの時の室井の顔を一生忘れられない。
病院へ向かう車中で新城から事件のあらましを聞いた室井はひとこと小さく 「ほんずなっすが」 と吐き捨てるようにつぶやいたきり虚空を睨み付けあとは一言も話さなかった。 室井が到着した時、遺体はすでに霊安室へ移されていた。 霊安室の前で立ち番をしていた所轄署の若い警官は室井と新城の来訪に驚愕した。 「すまないがしばらく1人きりにしてくれ…」 室井は新城にそう言い残すと1人で霊安室へ入っていった。重い扉が閉まる。 新城はびくびく怯える立ち番の警官にきつい口調で 「誰が来ても中へ入れるな。いいか、医者が来ても親族が来ても絶対に入れるなよ」 と言い付けて携帯を取り出し、ここが病院内であったことを思い出して舌打ちすると 携帯を仕舞ってロビーへ向かった。 ロビーの公衆電話から一倉へ連絡を入れる。 公務中だということはわかっていたが新城では室井を支えきれなかった。 じきに駆け付けて来た一倉に後を任せて新城は仕事に戻った。 新城は独断で室井の年休を数日間申請した。
葬儀の間中、室井は一度も泣かなかった。 赤く腫れた眼はしていても、皆の前では決して涙を見せなかった。 表情を固く強張らせ、何にも負けないようぴんと背筋を伸ばし、気丈に振る舞う姿は いっそ痛々しくて見ていられなかった。
青島俊作警部。 職務遂行中の殉職により二階級特進。 警視正となる。
享年49歳。
良く晴れた冬の日の出来事だった。
2000/11/26
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