その朝、室井は久しぶりにゆったりした気分で焙じ茶を飲んでいた。 舌の上に広がる微かな甘味と香ばしい香り。 五十を過ぎた頃からコーヒーよりもお茶が良くなってきた。コーヒー党の青島も最近は 焙じ茶に付き合ってくれるようになった。 渋い色合いの大振りの湯飲みをどこからか揃いで2つ買って来たのも青島だった。 老眼鏡を掛け、リビングの炬燵でゆっくり新聞をめくる。 自分は非番で、青島は昼からの出勤だった。 朝といっても時刻はもう昼に近く、カーテンを開け放った窓からはガラス越しに明るい 冬の日ざしが差し込んでいた。 良く晴れた穏やかな日。 今朝は布団の中で自堕落に朝寝を楽しんだあと、青島の作った朝食兼昼食を一緒に食べ 後片付けも仲良く一緒に済ませていた。 青島は出勤の身支度を整えている。
ゆうべは久しぶりに愛し合った。 若い頃のように情熱的に相手を求め合う時期は過ぎていたが、それでも穏やかなサイクル で今でも身体を確かめ合う。 付き合い始めて20年。 不思議と飽きることはなかった。 相手の皺のひとつひとつ、白髪の髪の1本1本までもがたまらなく愛おしい。 こんなにも愛おしい相手と共に暮らせる幸せ。
付き合い始めて4年目に、室井はこのマンションの部屋を買った。 桜田門からも、青島の所轄署からもほどほどに近い、セキュリティのしっかりしたプライ バシ−を守れる造りの日当たりの良い3LDK。 青島はすぐにアパートを引き払い住所をここへ移した。 室井は住所を移さず平日は官舎で寝泊まりし、金曜の夜ここへ帰って月曜の朝ここから 出勤していた。 マンションの月賦は室井が支払い、ガス水道光熱費などは青島が受け持ち、食費もおお むね青島が持った。時間の出来た方が買い物に行って冷蔵庫の中身を補充しておく。 もちろん、非番の日が重なれば仲良く一緒に買い出しに出掛けた。 「なんか俺たちって、単身赴任中の夫婦みたいっスね」 青島はそういって週末毎に帰ってくる室井を抱きしめて笑った。 やがて室井は平日もマンションへ寝泊まりする日の方が多くなった。 表向きは今でも一応官舎住まいを装っていたが、ここ数年は本庁のSP付きの送迎車が 毎晩室井をここまで送り、翌朝ここまで迎えに来るので、室井がここへ住んでいることは 半ば公然の秘密となっていた。SPの引き継ぎ業務の時も水面下の申し送り事項として 伝達されている。官舎へ届く郵便物その他は全て秘書官が回収して執務室へ届けてくれる し、側近たちも心得て、何かあったら官舎ではなくまずこちらへ連絡を寄越した。 マンションは室井の所有物だが、表札は「青島」としか出していない。 事実上一緒に暮らしている今でも、表向きここへ住んでいるのは青島だけということに なっていた。
青島はスーツに着替えて鏡の前で髪を整えた。 リビングに戻ると室井が新聞を置き老眼鏡を外し、年相応のゆっくりした動作で立ち上 がった。 身支度の済んだ青島の服装をチェックし、繊細な手付きでネクタイの結び目を直し襟元を きちんと整えてやる。 青島は嬉しそうにされるがままになっていた。 触れる手も、相手を見つめる眼差しも、深い愛情に満ち溢れとても優しい。 青島の、昔いくぶん長めだった髪は、白髪が出るようになってからだいぶ大人っぽい すっきりした髪型にされていた。元々上背のある、目鼻立ちのはっきりしたハンサムな 男なので、髪をすっきりまとめるとますます男振りが上がり、年を経ても若い婦警たち からよくもてている。 実際の年令よりも相変わらず5歳は若く見えた。 それでも最近部分的に髪が薄くなってきたことを気にするようになって 「どうしよう。俺、新城さんや一倉さんのこと笑えなくなってきた」 とぼやいては室井の失笑を買っていた。
「室井さん、今日はやっぱり仕事に行くんですか?」 最後にきゅっとネクタイを締めてくれた室井に青島が尋ねた。 実際は休みなのだが室井は時々自主的に休日出勤をすることがある。 仕事熱心だからこそ出世も早かったのだが。 「ああ。午後からちょっと行って書類を片付けて来ようかと思っている。…お前も居ない 事だしな」 青島は今夜当直なのだ。 青島は室井の細い腰にするりと両腕をまわすと軽く引き寄せて悪戯っぽく笑いかけた。 「…俺が居ない間に若いネズミに引かれたりしないでくださいよ?」 この男は年を取っても平気でこのようなスキンシップをしかけてくる。 笑い皺は増えてもそれだけは昔と変わらない色の薄い榛色の両の瞳が、真摯な愛情を 込めて優しく黒い瞳を覗き込む。 室井は苦笑したが抱き寄せられた腕は拒まなかった。 「ほんずなっすが。白髪頭の爺さァ引いでぐ物好きなネズミなどいねがっぺ」 わざと御国訛りでつぶやき照れを隠す。 青島は腕から愛情が伝わるように優しく優しく室井の身体を抱き締めた。 「俺がネズミなら喜んで攫っていきますよ…」 そのまま耳元へくちづけ愛情を込めてささやく。 「…愛しています、室井さん」 唇を寄せた耳元が熱くなるのがわかる。おそらく赤くなっているのだろう。 若い頃は恥ずかしがってベッド以外の場所ではこのような睦言に応えなかった室井だった が、今日は素直に答えてくれた。 「…ああ。俺もだ」 室井の腕も青島の背にゆっくりと回される。 青島は嬉しくて腕の中の暖かな身体をしっかりと抱き締めた。 冬の日溜まりでぬくもるように穏やかで。 お互いの腕の中にある確かな幸せ。
「じゃ、行ってきます」 くすんだ色のトレンチコートを着て黒い仕事用ショルダーバッグを肩にかけ、屈んで靴を 履いた青島は立ち上がっていつもの笑顔で振り向いた。 「…青島」 出勤を見送りに玄関先まで付いて来ていた室井は何故か引き止めるように青島の肩に手を 触れた。 もとより何か言いたいことや用事があるわけではない。 ただ、なんとなく甘やかな切ない気持ちがして別れがたかったのだ。 青島を行かせたくなかった。 「室井さん…?」 室井は一段低い玄関の三和土に立つ愛しい男の顔を両手で引き寄せると、その口許に 啄むだけの軽い口付けをそっと与えた。 自分からはめったにしない行ってらっしゃいのキス。 身体を離した室井は少し照れて、それでも愛情のこもったとてもとても優しい顔で青島を 見つめた。ほんの少しだけ、寂しさを滲ませて。 青島は心の底からこの伴侶を愛しいと思った。 ずっと言い出せなかった言葉が素直に口からこぼれる。 「室井さん…俺ね…今度生まれ変わったとしても、またあんたと結婚したいです」 何を言われているのかと小首を傾げる室井に青島は言った。 「俺、あんたとは、結婚したと思ってますから」 室井の目が見開かれた。 「だから、来世でも、その次も、その次も、絶対にまた俺と結婚してくださいね」
そう言って青島は子供のように笑って。
「行ってきます」
………それが室井の見た最後の笑顔で。
青島は。
2000/11/29
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