音符を音楽に変える


とつぜんですが,いちじきずっと「ケイゾク」というドラマをツタヤで借りてみていました。 中谷美紀と渡部篤郎をCM以外で見たのははじめてでした。

ちなみに柴田純は,美人なことと,頭がいいことを除くと私とそっくりです。服のセンスが悪い,カバンがでかく,しかも中にごちゃごちゃものが入ってる, 夜にうたたねしてしまって風呂に入り損ねる,何かに夢中になると周りのことが目に入らない,etc・・・

閑話休題,ドラマもかなり最後になって,渡部扮する人が「おまえ,ほんとにバカな女だな」というんですね。 (一字一句同じではないかもしれないけど)そのシーンがなぜか印象に残ってます。

別にそのシーンがもっともすばらしかったとかそんなんじゃなくて, それまでドラマにはいりこんで見ていたのが,ふと,ドラマの役ではなく, 俳優としての彼が頭に浮かんだからです。

彼が受け取った台本には,「おまえ,ほんとにバカな女だな」と書いてある。 その「ただの文字」を,彼はああいう表情で,ああいう口調でしゃべり,その場面・雰囲気をつくりあげたんだ,と すっごく感心してしまったのです(見てない人ごめん)。

なぜこんなことを言うかというと,これってL先生がよく言う「音符を音楽に変える」そのものだよね, って思ったからです。

台本どおりにセリフを棒読みすれば,別に演劇に詳しくない人でも「下手やな」と思いますね。 でも楽譜どおりに音楽を棒弾き(?)しても,すっごく速い曲や難しい曲だったら あまりそうは思われなかったりします。だからこそ,そこに落とし穴があるのかも・・・。

何人かの方には話したことがありますが,Y先生がご帰国なさるというとき, 「私の欠点は何ですか?」と思い切って尋ねてみました。答えは, 「もっと中国各地の風格をもつ音楽について勉強すること」 「書生っぽく弾かないこと」の2点でした。

前者はまあ分かります。北方の上下に激しくスライドする曲とか, 南方の優雅な装飾音とか,そういうのの「味道」(味わい,と訳すべきでしょうか)が, なんかとってつけたようになってしまってたのを自分でも自覚していたからです。 でも,二つ目の意味がよく分からず,ずーと考えていました。 その意味をやっとつかみかけたのはL先生に習ってからでした。

なにより,「ためにする」モノが多すぎました。例えばビブラート。まずはビブラートそのものができるよう練習せねばなりません(私は人差し指・小指がまだダメです)。 でもそれをクリアしても,まだまだ見えないハードルがあります。

それはビブラートができるようになると,つい曲から離れて自分の「音」に酔っちゃうビブラート, きれいな「音」を誇示するだけのビブラートになってしまいがちなこと。 L先生のおっしゃるように,あくまでもこれを「曲のなかで」しなければいけないんですよね。 (これはP先生もよくおっしゃいます。あくまでも自然にビブラートをいれなければ,って)

トリルもそう。記号が付いていれば,ついできるだけ速く,できるだけたくさんトリルを入れようと, 気合いが入ります。しかしそうやっていつのまにか「指が速く動かすこと」に向かって努力してしまい, かえって「音楽」から離れていってしまっていたのです。

このことは,「良宵」を弾いているときにL先生に指摘されました。 トリルを速くたくさん入れようとガンバルあまり,トリルのついた音だけ突出してしまって, 音楽の流れをそこでぶちこわしにしていたんです。

強弱・音程・音形,すべて「音符」のとおり,何も考えんと弾いてた。 だからこそ「音楽」を壊すようなビブラートやトリルを平気でやってたんでしょう。 Y先生はこのことを私に言いたかったんだ,とやっと気づきました。

台本の「文字」が俳優を通じて生きた「言葉」になるように, 譜面上の「音符」を二胡を通じて「音楽」にすることが重要であり, これこそが「音符を音楽に変える」ということなんですね。 そうでないと,ただ音符を楽器によって「音」に変換しているだけの作業になってしまう・・・。

うーん,今回はすっごく「自戒」の念がこもっているぞ。

私自身,必死で「音符」ばかり追いかけていた時期があったからです。 今となっては,これもこっぱずかしい思い出ですが,あのままいけば, 「難波に行きたかったのに梅田行きの地下鉄に乗」って行ってたかもしれません。

え,何それ? と思ったヒト。また来週をお楽しみに!(っていつやねん・・・)


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