■自殺

バルビツール酸系睡眠薬ラボナを溜めていました。完全自殺マニュアルや、薬のページで致死量を調べていました。最低でも100錠は飲むつもりでいたので、3ヶ月から4ヶ月はかかるはずでした。首吊りをするか薬物自殺をするか迷いました。首吊りができなかったのは、致死度が100パーセントという恐怖心があったからです。本気で死ぬつもりではいましたが、30錠と致死量になるかならないかの量であったり、電話で「死ぬ」と云ったりして、どこかで「助けて」という気持ちがあったのでしょうか。

自殺を決行する2ヶ月くらい前から息苦しくて、毎日頭痛がしていました。誰かに助けを求めて休息したい安心したいと思いましたが、どれくらい甘えることが許されるのだろうか、我が儘なんだろうか、と考えていると余計に頭が痛くなり、他人に寄りかかることを諦めました。

「死」を想像していました。この手足が動かなくなって全然別のモノになる。わたしが死んでもわたしの代わりはいくらでもいる。死んでも何も変わらない。時は過ぎ、掲示板やチャットでは毎度毎度の挨拶があり、電話で高笑いをしている2人。わたしはそこにはいない。いないだけで変わらない。母には「しんどい、疲れた、どうしても生きていけない、自殺するかもしれない、わたしが死んだら葬式はしないで献体をして欲しい」と云っていました。以前から「死にたい、死にたい」と漏らしていたので、「そんなに死にたかったら死んでもいいよ」と云っていたのです。

自殺を図ったのはなぜ?と医師に聞かれました。空虚というか漠然としていて原因がないと応えました。きっかけはありましたが、他人のせいにしていると思われるのは嫌なので詳しいことを書くのはやめます。「死ぬ」と決意したのは10日の夕方です。薬とアルコールを机に並べました。お風呂に入って身体を綺麗にしておきたい思いましたが、面倒になってやめました。遺書は書きませんでした。薬をビールで一気に流し込んだ直後に知り合いから電話がかかってきたのです。「ラボナを飲んだ、死ぬ」と話したところまでは覚えています。

彼が救急車を呼んでいなかったら死んでいたかもしれません。助けていいのか散々迷ったそうです。入院している間は「どうして助けたんだよ(彼が救急車を呼んだということは知りませんでしたが)」という悔しい気持ちが強かったです。今は、この手、髪、声、見つめているディスプレイ、何もかも消えていたかもしれないんだ……と妙な気分になります。軽率だとか、「軽い命なんだね」と云われてしまいましたが、こうするしかなかったんだと思います。

意識不明、昏睡状態になったわけで、救急車で運ばれたことや、精神錯乱で暴れたこと、胃洗浄をしたことは全く覚えていません。意識が戻ったときには保護室で拘束されていたのです。10日の夜から16日の夕方まで精神病院(閉鎖病棟)に入院しました。点滴と尿道のカテーテルで身動きが取れない上、夜間は拘束だったので、6日間のほとんどがベッドの上でした。前半は意識がはっきりしていなくて静かに寝ていましたが、後半は意識が回復して「こんな治療は放棄します!」と夜中に叫いて看護婦を困らせてしまいました。

■保護室

ぼんやりと天井を見つめていた。視力が悪いから、ぼやけて何が何だかわからない。いつも見ている天井とは違うような気がする。必死に起き上がろうとするのだが、手が全く上がらない、痺れている。どうやらここは自室ではなく病院のような気がしてきた。薄ぼんやりと鉄格子の窓が見える。女の甲高い声が聞こえる、わたしに話しかけているようだ、何を云っているのだろう……。「○○さん、○○さん、ここが何処かわかりますか」ここはどこなんだろう……。

横にいた女が「軽々しくこんなことをしたら駄目だよ」と云っているではないか。腹が立って「軽々しくじゃありません」と云って泣いた。「そうか、軽々しくじゃないんだね、でも、もうこんなことしたら駄目だよ」と云っていた。手が上がらないのは拘束されているからだった。「喉が渇いた水をください」「水は駄目なんだよ、口を湿らすだけね」と云って、脱脂綿のようなもので口を拭った。「ガチャガチャン」と鍵を掛ける音が大きく鳴り響いた。手の拘束が痛い、外そうと試みるのだが、鍵がないと外せないようだ。声がでなくて「うああああああああ!」と言葉にならない声で叫ぶ。「はい、どうしましたか」と看護婦が入ってきたが、意識が遠のく。日にちも時間もわからない。看護婦が何人か入ってきた。「○○さん、移動しますよ、立てるかなあ」。下半身はおむつだけだった。看護婦が腰に毛布を巻いて、支えられながら階段を上がった。

■ICU

ICUというか、診察室をカーテンで区切ったところである。自分が精神病院にいるということがいまいち解らなかった。近所の救急病院と思っていた。それにしても、看護婦がドアを開閉する度に「ガチャガチャン」と鍵を掛ける音が不自然だ。手と腹の拘束(足は外されていた)をされながら朦朧としていた。体温、血圧、脈拍を測りにくる。「38度だなあ」男の医師と看護婦の会話をぼんやりと聞いていた。

病院に運ばれたのが土曜日だったので主治医はいなかった。主治医と対面したのは13日で、その頃から意識がはっきりしてきた。丸2日は朦朧としていたということだ。

主治医は若くて可愛い女性だった。摂食障害のこと、家族関係、薬の入手先、自殺を図った原因などを30分ほど話した。ラボナを処方していた病院に連絡するというので、「迷惑がかかるからやめてください」と頼んだが、連絡したようだ。母がネットのことや異性関係のことを喋ったようで、いろいろと聞かれた。

ここは普通の病院じゃないんだ、と思いはじめた。診察内容と、四六時中「うおおおお……あうあう」と叫いている患者がいたからである。ほとんどの患者が呂律の回っていない声だ。診察室の会話や看護婦の会話が聞こえて結構面白かった。「せんしぇい、夜眠れないんです」「昼間寝たら眠られへんよ」「そうなんですけど、お昼は眠くて眠くてうとうとしますねん」「それでもお昼は寝たらあかん」「わかりましたあ」。延々と喋っているおばさんがいた。「せんしぇい、手紙を書いたんです、読みますから聞いてください」「はいはい」「わたしは弁論大会で優勝したんです……以上、終わり、せんしぇい、ここにサインお願いします」「そんなことはできへんわ」「お願いしますわあ」「あかんって」「せんしぇいは心があるから好きなんです」。聞いていて噴き出すことがしばしばあった。「1号、2号、3号、、、5号、6号、7号、8号、、、10号、11号、12号(4号と9号はない)ご飯ですよー、以上、終わり」とご飯の時間にそのおばさんが掛け声をかけている(後でわかったのだが、おばさんが喋り続けているのは誰かと喋っているだけではなくて、独り言を云っていたのである)。

入院中はずっと点滴を打っていた。ご飯は食べなくてもよかったのだが、13日から流動食(イチゴ味のバリウムに似ている)と食事がでた。が、食べられたものじゃない。臭いのだ。肉にしろ、魚にしろ、ポテトサラダにしろ同じ味がして臭い。一刻も早く退院したかったので3口くらいを無理矢理詰め込んでいた。食事は本当に不味かった。刑務所のご飯って食べたことがないのだけど、それより不味いんじゃないだろうか。

胃洗浄のときに声帯を痛めたのか声をだすのが大変だった。水やアイスノンが欲しくても忙しく動いている看護婦をなかなか呼べない。昼間は拘束を外されているとはいえ、点滴とカテーテルがあるので寝返りもままならないのだ。

CTとレントゲンと血液検査をする。真っ直ぐに歩けているし、声以外は問題はなさそうに思ったが、後遺症が少し心配になってきた。「肺炎を起こして、肺に影があります、脳にも炎症があって、たんぱくが少し固まっています」と云われた。脳って一度やられたら二度と戻らないんじゃないか、と怖くなった。しかし……自ら命を絶とうとしていた人間が身体の回復のための治療をして、後遺症をびびるのも変だな、と思い混乱する。

14日あたりから辛くなってきた。意識がはっきりしてイライラしてきたのと、眠れなくなってきたからだ。周囲の雑音が耳障りになってきて、笑う余裕もなくなっている。朝昼は堪えられるのだが、夕方になると我慢ができない。近くを通りかかった意地の悪そうな看護婦に「すみません、水をください」と頼んだが、横目で睨んで「水ねえぇ」と云うだけで無視された。誰でもいい、苦しいから助けてよ……と看護婦が通るのを待つ。丸顔の看護婦に「辛いので、先生を呼んでください」と頼んだ。数分後、主治医が何人かの看護婦を従えてドカドカとやってきた。「点滴を外そうとしていたんだって?拘束します」「え!外そうとなんかしてませんよ、しんどいから先生を呼んでくださいと頼んだんです、誰がそんなことをいったんですか!」。主治医は無言で首を横に振った。「あなたがここに入った理由を考えてみてください。今から拘束します」「お願いですから信じてください!」「わたしは明日休みですから、金曜日にわたしがくるまで我慢してください、そのときに判断します」。

辛いから先生を呼んでくださいと頼んだのが、点滴を外そうとしていたとなってしまった。医師がどちらを信じるだろうか、人権もなにもあったもんじゃない。それとも本当に無意識に外そうとしていたのだろうか……。主治医が「拘束します」と指示すれば人間扱いされずに縛られてしまうのだ。こいつは鬼だ!怖ろしい!看護婦もわたしのことを陥れようとしてるに違いない。「お願いですから、拘束はやめてください」「ここで自殺を図ったらどうなるかわかっていますか、それこそ縛って出られなくなりますからね」「腰が痛いんです、片手だけでも外してください」「片手を外したら点滴を外すから駄目です」主治医は絶対に譲らなかった。

夕食で一旦拘束が外されたが、21時に再び拘束するというときに我慢ができなくなった。「弁護士を呼んでください!親と話をさせてください!こんな治療は放棄します、わたしは頼んでいないんです、法律はどうなっているんですか!」と泣きながら大声で叫んだ。医療保護入院というのは分裂病と診断された人のページで知ってはいたが、詳しい法律までは解らなかった。看護婦3人がわたしを取り囲んで力尽くで拘束した。「あなたは医療保護入院で入ったんです!親の同意がないと退院出来ないんです!わたしはあなたがここに入ってきたときから見ているけど、暴れて大変だったんですよ!」「こんな治療を受けたって治らない、いますぐ親と話をさせてください!」「治るか治らないかはわかりませんけど、主治医の指示に従っているんですから、夜中に騒いで看護婦に当たり散らさないでください!」「法律がそうなっているんですか!」「そうです、知っておいてください!」。若い看護婦が「注射打ちますか?」と注射器をわたしに見せた。こくりと頷いた。筋肉注射をお尻に打った。全身の力が抜けていく。「て、手だけでも外してください……」。

15日が一番しんどくて一日が長く感じた。生理になった。昨晩騒いだのが婦長の耳にも入ったようで、「生理前でイライラしていたんだね」と優しく声をかけてくれるのだが、そんなことよりも、明日主治医がなんと判断するのかと不安だった。じっとしているのが苦痛で、点滴を気にしながら何度も寝返りを打ったり、ベッドの横に置いてある椅子に座ったりしていた。カテーテルで尿道が痛いので1分と座っていられない。意味もなく眼鏡をかけたり外したりしていた。14日から手元にあったのだが、本はない、テレビはない、鉛筆もノートもない見るものがないのだ。

ICUには鉄格子はなかった。向こう側の建物を見ては、「ここは何階なんだろう、この窓から飛び降りてタクシーを拾って家に帰ろう、骨折するかなあ。それともベッドにタオルを括って首吊りをするか」と真面目に考えた。しかし、常時看護婦がいるし、鍵が掛けられるので、どう考えても無理なのだ。「いやいや明日になれば主治医がくるのだからそれまで我慢するのだ」と脱走と首吊り計画を何度も打ち消した。

顎が勝手に動いて歯ぎしりをする。自分で自分の手を噛んで我慢をした。「辛いんです……ガリガリ(歯の音)筋肉注射を打ってください、もう限界です」「筋肉注射は先生の指示がないと打てないんです」「親と話がしたい……ガリガリ」「明日主治医がきてから相談してください、わたしからも話しておきますから」。気を紛らすためにトイレに行く。点滴とカテーテルに繋がった尿を抱えて3回行った。トイレは鍵がなくて汚かった。「睡眠薬をください……ガリガリ、眠りたいんです」「点滴の中に安定剤と睡眠薬が入っているんです、これ以上は駄目です」「筋肉注射を打ってください……ガリガリ、顎が勝手に動くんです、神経がもたない……ガリガリ」。看護婦が瞳孔を調べてから肩に筋肉注射を打った。夜、当直の男の医師がきて一方的に喋っていた。何を云っていたのか覚えていない。「拘束は外せません、筋肉注射はもう打たないからね」と云ったのは覚えている。

■退院

16日。早くに目が醒めた。やっと主治医がくる。親が退院を認めないということはないだろう。でも信用されていないし、「ずっと入れておいてください」と云ったらどうしよう……。主治医がきた。「おはようございます、調子はどうですか」「しんどいです、退院して通院にしたいです」「あなたは長期入院をして、心身の療養をした方がいいと思うんだけどなあ」「ちゃんと通院します」「うーん、本当に通院するんだね」「はい、します」「家に電話をしてください、その後わたしに電話をするように云ってください」

点滴とカテーテルが外された。カードを購入して電話をかける。「お母さん!退院するから同意して!拘束されて気が狂うよ、お願いだから退院手続きをして!」「先生が退院してもいいといってるの?」「そう、そうだよ!ところで、ここは何という病院?」「T市の精神病院だよ」「え!そんな遠くに……」「胃洗浄をした救急病院では預かれませんといわれて、病院がなくて大変だったんだよ」「そう。とにかくここは駄目!先生に退院させますと電話をしてちょうだい!」

夕方に退院することになり、それまで一般病室にいることになった。病室や食堂の窓には鉄格子がはめられている。喫煙率は高く約8割の人が吸っていて、決まった時間に看護婦が煙草に火を付けている。薬も看護婦が口に入れて飲み込むまで監視されている。ほとんどが年配の患者で60人が入院していた。30代、40代なのかもしれないが50代、60代に見える。摂食障害のような普通にみえる若い患者も5人ほどいたが、大学病院の精神科とは明らかに違う。この病院は麻薬中毒やアルコール依存症の患者が多く、T市で有名な精神病院であると後から聞いた。病棟は細長く30メートルくらいの廊下があり、面会室、診察室、看護婦詰め所、トイレ、食堂、一般病室となっている(保護室は下の階)。運動をしているのだろうか、長い廊下をひっきりなしに患者が歩いている。お昼ご飯はカツ丼だった。相変わらず臭かったが、みんながガツガツと食べているのをみて、同じように食べた。顔を洗って歯を磨いてテレビを少しみてから、ベッドで横になっていた。おばさんたちは結構楽しそうに話をしている。若い女の子は静かだ。

16時頃、「○○さーん」と看護婦がわたしを呼んだ。跳び上がるほど嬉しかった。面会室にいた母の顔はやつれていた。3キロ痩せたそうだ。大変だったことを聞かされたが、どれもこれも覚えていなくて驚いた。



これからのことはまだ考えていない。何か変わっただろうか。身体が軽くなったような気がする。なによりも息苦しさがなくなった。週1回の通院で睡眠薬を親の管理下で処方されている。分裂病や鬱病ではなくて、人格や性格の問題であるとのことだ。



(2001/02/25)


戻る