舎の大先輩四元義隆氏のお話(平成6年新年会)

 私は今年でかぞえの86歳になる。 これまでの86年は今日以後のための準備である。 つまりこれからということだ。

 「いろは歌」の一番大事なことは「い」と「ろ」にある。
 「いにしえの 道を聞きても 唱へても わがおこないに せずばかひなし」

 実行することが非常に難しい。 どんなに難しくても人間はやらなならんように生まれついている。どんないい話を聞きすぎるくらい聞いていても 実行が一つもできない。聞いても唱えても、それはどんなに小さくても、自分の行いにせないかん。 これは間違いなく一番大事なことで、実践が無かったら、全部空理空論にすぎない。

 今の日本は、いや世界中がそうだといってもよい、空理空論、なにか観念論に浮かれて、一つも足が地に着かない。 だから、世界はおかしくなっている。 日本の政治、経済全てが乱れたことも、いいことは全部知っている人達、エセ学者の言うことを聞くばかりで、一つも実践せん。
 世の中は腐って行くばかりだ。 これは「いろは歌」の一番を本当に学ばないからだと思う。 今日までの薩摩の教育 の良いところは、すぐやる、言われたことはすぐやる、それは男であろうが女であろうが、小さい頃からやかましく言われ、またどんな小さなことでもすぐやるとほめられる。 すぐというのが薩摩の精神だ。すぐ実行する。理屈はあとで。

 二番目の「楼の上も はにふの小屋も 住むひとの 心にこそは たかきいやしき」
 僕は歳をとるにつれてこの二番がこたえる。 これはどういうことかというと、いま社会福祉だとか いろんなことをいうが、たとえ日本中が金殿玉楼のような立派な家に住み、食い物も十分にある、それで良いかというと、そんなものはなんにもならない。
たとえこじきであっても、その日その日を明るく正しく、皆のためになろうと一生懸命生きている人が大事である。 いいかえると、人間は物質生活、生活環境そんなものをどんなに整えても何にもならない。 どんな立派な住宅に住んでいても、その住む人の心が卑しかったらいかん。 どんな貧乏な社会であろうとも、そこに住む者が本当のさむらいの心を持って、自分のことは第二第三にして、他人のために社会のために尽くす。 そういう心ある人だったら、それは大事な人だ、模範とすべき人だということだ。
 「こころにこそはたかきいやしき」ということは、心だけしかない。 外から見て、どんな立派な社会であろうと、どんな個人であろうと、その心が卑しかったら、それは尊敬するに値しない。この心が失われてきたことが全て、いまの日本の社会、世界全体の本当の病だと私は思う。
 すべてに本当の心から というものが失われている。 頭を下げても、心から下げる頭でないと何にもならん。 下げる以上は本当に心がこもっていなければいかん。 一挙手一投足全てそうだ。 我々の先輩達もそう言って教えてきた。 それが人間の正しい生き方だから、それをやかましく言われたものと思う。 心が一番全てのもとである。 理屈ではない。心がこもるか、こもらんか、本当に心がこもってくれば、全てのことは良くなる。
 四方学舎がわずかこれだけのかたまりであっても、やがてはどんなやつが出てくるかそれは分からない。 歳を取っておろうが、若かろうが、そういうことは 関係ない。 
本当に心がこもっているか、それに打ち込めるか、それだけが問題だと思う。 いろは歌を読むごとに、世の中一番大事なものが失われていると・・・、それは心でしかない。 
 心が失われていることが全ての病のもとである。 私自身、皆さんと共に自分から反省し、心を引き締めたいと思い一言申しました。


 その後、幼年舎生達が「いろは歌」の暗唱を発表したら、四元先輩が「一生 忘るっなよ」
と、言われました。


 余談ながら、その時の幼年舎生が私(ホームページ制作者)です。 話された言葉は消え去るもの、当然この文章の責任は編集者にあります。


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