雨が止むまで  雨がばかみたいに降っている。
 ぽつりぽつりとアスファルトにしみを作っていたのが、いつの間にか、空でもひっくり返したかのような大雨だ。正吾は窓を閉めようとして、部屋の隅にあるダンボールが目に入る。口を小さく開けたダンボールに、かぶりを振る。わいてくるのはどうしようもなく持て余す感情。嫌悪感とそして、あまく。
 ぴしりと思いきり窓を閉めて、鍵まで閉める。瞬時、ガラスを雨が叩いた。ごろごろごろと遠くで雷の音が聞こえた。フラッシュが焚かれたような白が部屋を一瞬照らし、正吾は無言で蛍光灯のスイッチを入れた。
「近くに落ちたのかな」
 なにか言わないと、やることもなく佇んでいる自分がおろかしく思えて。なにか得体のしれない罪悪感でいっぱいになるのを恐れた。
 どんどん。
 ぶしつけでにぶい音は玄関からの、来訪者のあかし。チャイムなんてしゃれたものがついていない2LKの、唯一にしてすべての合図。
「はいはい」
 カーテンをひいて、玄関に向かった。ドアスコープから来訪者を覗くこともなく、ためらいなく開ける。
 なにかが。ひくひくとせわしなく動くものが正吾の鼻先に突きつけられた。動物的な本能で身をひく。動くものは、鼻だった。泥だらけでぐちゃぐちゃの物体の鼻だった。
「拾ってきちゃった」
 華香はぐちょぐちょとコンバースのオールスターを鳴らしながら上がり込んだ。三和土がみるみる色を濃くする。それは、外の雨のひどさを思わせるより、なにか遠いところで、彼女と「それ」だけが嵐を抜けてきたかのような気持ちにさせた。
「こんな格好で上がったら嫌がるよね、タオル取ってきてくれる」
「え、……ああ」
 わけも分からず大きめのタオルを一つ、足ふき用にぞうきんを一つ、取って玄関に引き返した。
 華香は「それ」の鼻先にほほを寄せながら、なにかつぶやいていた。小さな声で、うれしそうにつぶやいていた。正吾はどうしてか、それを中断したかった。
「はい」
 ああ、ありがとう。華香が、真っ白なタオルを受け取りながら、初めて正吾を見た。
「雨の中でも動いていたのよ、これ。うさぎ」
 もらったぬいぐるみを自慢する気安さで、それをずいと正吾の前につきだして見せつけた。だらんと伸びたうさぎの足先から水滴が落ちそうになっているのに気がついて、華香はタオルで自分の体をくるみ、その端でうさぎをわしわしと拭く。顔を出したうさぎは、いやいやするように前足で顔をかく。
「……あがりなよ」
 いろいろ言いたいことはあったのだが、全部のみこんで玄関口にぞうきんを置いた。
「うん」
 華香は小さくうなずいて、ぞうきんに乗せた足を片足ずつたんたん、とやった。なにか大切な儀式のようにじっと足下を見つめ、なんども足を拭きながら華香がぽつぽつと、言う。おつかいで、ものを間違えて買ってきてしまった子供のような口調で。
「植え込みのところにいたのよ、それでもぞもぞ動いてたの。連れて来ちゃった」
「かわいそうだから?」
「かわいいからよ」
 華香は間髪入れずに正吾をふりかえった。意志を持った強い目が、正吾としばし合わさってから、ね、とうさぎに戻っていく。
「おまえ、どこのこなの? 野良うさぎ?」
「103の中川さんとこがうさぎ飼ってたろう、あれじゃないのか」
「あのこは真っ白だったものね、おまえはきたない茶色じゃない。やっぱり野良ちゃんなのかしらね」
 のらのら、のらうさぎー、とでたらめな歌を歌いはじめてうさぎをあやしていた華香が、思いついたように顔を上げた。
「このこをここで飼おうよ」
 華香が言う。あのころのきらきらした目で。一緒に買い物に行こうよ、と同じ調子で一緒に住もうよ、と言った、なにもかもがうまくいくと信じている、あのころと同じ目で。
たじろいで、そいつも洗えばきれいな白になるのだ、ということを言えずに。
「……とりあえず、風呂入れば。それで部屋入られたらたまんない」
 興味深げに見あげて、鼻をひくつかせたそれを奪うように受け取った。

 なんでもないように振る舞っても、ダンボールに気付いた時も、それを開けて着替えを探す時も、少し、肩が震えている正直さを、正吾はなつかしく思った。その感情、過去になりきれていない思いに、少し愕然としたのも事実だ。思えばダンボールはふたすらしていなかった。
 正直、戻ってくるのかもしれない、という思いが、心のどこかにあったのだろう。
 雨の中にやわらかくひびく、雨とは違う水音を聞く。
 汚れたタオルと一緒にいまだ腕の中にいるうさぎは、ここはどこかと探るように正吾の肩に前足をかけ、ひくひくとせわしなく鼻を動かした。顔のにおいをかぐそれの、やたらに大きな黒目しかない瞳とぶつかる。ねじが切れるみたいにだんだんと鼻のひくひくが止まって、それは正吾の目を見つめることだけに集中する。
 なにも考えていない黒いガラス玉の目に品定めされているような気分になって、それでも視線を外すことが出来ないまま、そのやたらと体温の高い物体をフローリングの床に下ろした。それは興味を失ったようにためらいなく視線を外すと、自分のまわりをせわしなくかぎはじめる。
 動物は視線を先に外した方が負けじゃなかったのか。それとも都心から20分でも野生からはほど遠い、西武新宿線沿線の住動物はそんなこともう関係ないのか。
 ダンボールのふたに興味を示しているのを横目で見ながら、正吾は冷蔵庫に向かう。中身はあつらえたみたいに牛乳パックが一本だけ。それさえ振ってみたら軽い音が返ってきた。
 肉の入っていた白い発泡トレイをもう一度軽く洗って、パックの中身をかたむけようとして正吾は逡巡した。このままやってしまうのは少し、まずいだろうか。温めた方がいいかもしれない。なにせうさぎなんて飼ったことがない。
 本人に尋ねるつもりなど毛頭ないが、うさぎの方をふりかえると、視界の中にあのかたまりが入ってこなくて、最初はなんだか分かかったが、ちらりと嫌な予感がした。リビングに戻る。さりさりさりさり、という耳慣れない軽い音が聞こえる先に目を向けると、ダンボールがもぞもぞと動いていた。
「あ、こら」
 びく、と一瞬動きをとめて、それも本当に一瞬のことで、次にはまたさりさりやり始めたので、正吾はそれが咬んでいない方のダンボールのふたを開けて、やわらかな華香の服の上にのっている全貌を見た。
 表面積が最小限になるように丸まったからだが、ほぼいっぱいまで荷物が入っているダンボールの中に鎮座ましましている。それは、華香の服に自身の重みでうずもれながら、首だけすくめるように出してダンボールの一方のふたのはしをさりさりと咬んでいた。細かいダンボールのくずがまだ湿っているうさぎの口元に、泡みたいにくっついて増えていく。
 正吾はとりあえずダンボールから出そうとして、どうやって抱けばいいかすら分かかったが、両手をその小動物のはらの下にそっと差し入れて、持ち上げた。うさぎは硬直して、次の瞬間にもうれつな勢いで暴れ出し、瞬間的に爆発したみたいに前足も後ろ足もめっちゃくちゃに動かして、そして次の瞬間には正吾の手を逃れていた。持ち上げた時に、人の腰程度の高さだったからうさぎの体は瞬時、宙を舞い、フローリングの床に落ちた。びた、と軽くにぶい音がして落ちたそれは、やはり動物の敏捷さですぐに体勢を立て直したけれど、落ちた時は受け身の取れていない丸い背中からで、猫のように足から着地する、などという器用なことが出来ていないのや、びたびたと一目散に正吾から離れるどんくさい足音が、大げさに拒絶されたにもかかわらず逆に愛らしい感じをさせた。
「ごめん、大丈夫か、おまえ」
 オーディオセットの横でうずくまっているかたまりに話しかけながら近づくと、気配を感じたのか、うさぎはびくっと体と震わせて正吾の横を駆け抜ける。どうやら敵として認識されてしまったようだ。動物は嫌いではないのだが、いかんせん全般的に扱いかたが分からない。これは正吾の母がひどいアレルギー持ちで動物と一切関われなかったせいもある。きらいではないらしく、近所の猫がすり寄ってくるのなどうれしそうにしては、ごほごほとやっていたのだ。
 ローテーブルの下に行ったうさぎに手を伸ばしたが毛皮に触れさせてすらもらえなかった。かわりに正吾は右足の人差し指をしたたかに打ちつける。タンスに小指、には敵わないかもしれないが、高級感を出すためにふんぱつして買ったローテーブルは、その荘厳な重量と摩擦でぶつかった衝撃を吸収緩和してくれず、もろに正吾の足が犠牲となる結果になった。買ったことを後悔させるほどに、痛い。
 すり抜けて、今度は電話のそばでこちらを窺っている生き物を、正吾は全然意識していないふうを装って、実際あまりうさぎばかり意識していられないくらい足が痛かったので、うさぎを視界の端にとらえながら、背を向け座り込んで指の具合を見る。ツメの先がほんの少しだがはがれかけており、指自体はもう少し時間がたったら手ひどく変色するだろう様相を呈していた。正吾はばんそうこうのありかに思いを巡らせながら、背後のうさぎに細心の注意を払う。
 うさぎはびくびくしていたが、正吾が動く様子がないのを見てとると、すぐにそのびくびくの原因がなんだったかを忘れたように前足で顔をかいた。ゆっくりと少しだけタンスの奥に足を出して、後ろ足をけり出し、やはりゆっくりとすきまに体を寄せるさまはぴょこんと効果音をつけたいくらい、大層うさぎらしい。
 何とかスキを窺っていた正吾は、不意に、ついさっき耳にした聞き慣れない音をひろった。
 さりさりさりさり。
 上体を起こすようにうさぎをのぞき込み、
「おい、こら、それはだめっ……」
 引きはがそうと反射的に手を伸ばす。それは驚いたのか、くわえていた電話のコードを離すと狭いすきまから器用に抜け出てまたも正吾の手を逃れた。
「……なにやってるの」
 風呂から出てきた華香の玄関近くにうずくまるうさぎを何の造作もなくひょい、と抱える。もうひとつ、リビングでうずくまって肩を震わせる、手の中のそれをは比べようもないくらい大きい物体を見つけて、華香はつぶやいた。
 さすがに顔は上げられなかったが、丸くなったままなんでもない、というように頭の上でぱたぱたと手を振る。踏み込んだ足は右足で、人差し指は自身の重み耐えられなくなって正吾を苦しめていた。

「うわ、くいこんでるじゃない」
 なんでもないように見えないリビングの物体を無視することも出来ず、華香はかたわらにしゃがみこむ。痛がっているのはどうやら足のようなので、押さえている手を外して、傷口らしき箇所を見るとツメの一部が割れて指にくいこんでいる。指自体がふくれて熱を持ってきており、結構ひどく打ったことが窺えた。
 ホラーも絶叫系も平気な華香だったが、唯一と言っていい苦手はグロテスクで、はがれたツメ、なんて聞いただけでもアウトなのだから、見てしまったからには大仰に眉をひそめて、早々に目をそらした。腕の中で一緒にのぞき込んでいた遠因のかたまりは、華香が顔をそらしても、興味深そうに身を乗り出してふんふんと熱心ににおいをかいでいるものだから、華香は慌ててそのこぼれかけた体を引き寄せた。
「ばんそうこうとか、ないの」
 立ち上がってそれらしき場所を探しながら、華香は尋ねる。主に右の手で支えているうさぎを少しじゃまそうに眺め、下ろそうにも、という表情で少し逡巡したあとリズムを取り、両手で抱えなおした。ツメ切りはなぜかキッチンにあったことを思い出し、シンクに置かれた牛乳を見つける。
 なんで牛乳、と誰に言うともなく口の中でつぶやき、とりあえず絆創膏は保留にして、風呂上がりの一杯を求めて適当なグラスを一つ、みつくろった。華香のよく使っていたとなりのトトロが描かれたガラスのマグカップはきっとダンボールにあるのだろう。
 うさぎを支える手で牛乳を取ると、思った以上に軽い。華香は片手で器用に牛乳パックの口を開けると中身を確認した。底の方にたまるように白い液体がゆれる。眉をひそめてそのまま冷蔵庫をのぞくがお目当てどころか中身自体がない。もう一度期待を込めてシンクのパックを振ってみたが、ぱしゃと軽い音がした。
「ねえ」
 華香はリビングをふりかえって、食生活がしのばれるこの部屋の主に声をかける。牛乳ないの、と訊こうとして、自分がどうしてキッチンにきたのか本来の目的を思い出し、それはあまりにもばつの悪い質問であると気付いて、華香は口をつぐんだ。
「なに」
 絆創膏を片手に、正吾は黙ったキッチンに声をかけた。華香がひょこと顔を出して、あ、という顔をしてからまくしたてる。
「消毒した? あと、ツメはがれてたでしょう、ちょっと待ってて、ツメ切り。ツメ切ってからの方がいいよ。くいこんでた」
 華香がツメ切りを持って駆け寄る。華香の手を離れたうさぎが、じっと華香を見たあと、興味をなくしたようにゆっくり移動してダンボールの横に丸くなった。ぺたんと正吾の横に座り込み、割れたツメを見て悲しそうなくらい顔をゆがめたあと、ツメ切りをそうっとその腫れた指に寄せた。まだ黒く濡れている髪から、今にも落ちそうなしずくが一粒、ほおを伝ったのが涙のようだった。
「ちょ、っと待てハナ」
 正吾は慌てて足を引っ込める。思った以上の声だったのかうさぎがちら、と閉じていた目をうすく開けた。久々に名前を呼ばれるその低音に、平穏を装っても華香の肩が少し反応した。眉を寄せて顔を上げたのは、痛々しい傷のせいではない。
「なに」
「痛いから」
 あごでツメ切りをしゃくる。
「それは無理」
「でも。ツメ割れてたし、くいこんでたし、痛いよ、放っといた方がきっと。化膿するよ」
「大丈夫だから。そんなにひどくないしただぶつけただけだし、てか無理。それ入れてツメ切る方が大惨事だから俺的に」
 まじ、とあらためてツメ切りとふくれた人差し指を順に見て、そのツメを切るところを想像したのだろうか、それはたしかに、と華香は力無くツメ切りをおいた。そんな様子をくすぐったいようなほほえましさを感じながら、正吾は絆創膏をきつく貼る。正吾の手つきを何事も見もらすまいと言う熱心さで華香は見守ってから、あ、と口を開いた。
「消毒」
「ないし。あってもやだ。はがしたら確実にツメもはがれて流血大惨事だ」
 せりふの途中で華香は顔をそむけて耳をふさいだ。そして一通りもだえたあと、やたらと情けない声でばかー、はがれるとか言わないでー、とうさぎのように鳴いた。本物のうさぎはそんなやりとりを少しも気にしないように目を閉じて、耳もぺたりと体につけてまるい体をいっそうまるめている。時折その耳だけ、なにを感知するのだろう、振りはらうように片方ずつぶるぶるっと別の生き物のように、震える。他はさっきまでのじたばたの余韻をみじんも残さずやわらかな置物と化していた。
 正吾がちらりとその毛玉に目をやって、思い出したように華香と目を合わせた。
「あ、ねえ、やっぱりうさぎにやるんだったら牛乳って温めてやるべき?」
「ぎゅうにゅうー?」
 すっとんきょうな声を上げながら、華香はいまさらながらにシンクに放置してあったパックのわけを悟る。
「うさぎって水飲まないイメージがある。野菜の水分だけ、みたいな気がしない?」
「でも、飼育小屋に水入れはあった気がする」
 そうだ、小学校のころ、正吾は飼育委員だった。小学生の委員会活動だし半期だけで、仕事をしたのはたった一度や二度だったが、とにかく。うさぎ小屋と鶏小屋の掃除をするのが仕事だった。あの時は、小学生の凶暴さで、チャボに突っつかれるのをちりとりでガードしながらほうきは武器にしてえさを入れ替えた。うさぎに関しては直接ふれあった記憶はない。きゃあきゃあ言う同学年の女の子がうさぎの相手をしている間に、あの湿った部屋を掃除したのだっただろうか。もはや記憶は遠い。小学校のうらの八百屋からくず野菜をもらってきて、乾燥した自身のふんか分かいようなうさぎのえさと一緒にやった覚えがある。正吾は動物は嫌いでなかった。
「そっか。飲むのかな」
 華香は考えるように視線をさまよわせると、もぞもぞと動き出したうさぎに目をとめ、うれしそうに素早く寄っていって抱きしめた。うさぎは迷惑そうにじたばたしたが、そろそろどうにもならないことが分かってきたのだろうか、一通りおざなりに抵抗したあと、おとなしく華香のにおいをかいでいる。
「でも」
「なに?」
 華香は返事をしながら、うさぎのガラス玉みたいになにも考えていない黒の右の一つに、自分のものだろうか、なかなか太い毛が一本、張り付いているのを見つけた。痛くないのだろうか、と思いながら正吾のすぐ横のローテーブルににじり寄る。お目当ては上にのっているティッシュボックスだ。
「牛乳あげた記憶もないな」
 腕の中の物体を逃がさないようにしながらこよりを作り、ちょいちょいとまんまるな黒目にあてた。いやいやするように目を閉じて頭を振ったうさぎに、細身のこよりが力無く折れる。もう、と華香は小さく悪態をつく。より短く太めのこよりを作り直してかまえると、うさぎに言い聞かせた。
「おまえのためなんだから、目にゴミ入ったままだと痛いでしょう?」
 分かったのか分かっていないのか、うさぎはうすく目を開けて怯えるように華香を見あげた。その隙をついて目頭の方に寄っていた毛をこよりがキャッチした。
「やっぱりね。うさぎも人間も野菜よ」
 こよりを光にすかして、取った毛をまじまじと眺めたあと、正吾と目を合わせて華香はおもむろに言った。
「買い物に行きましょう」

 華香はうさぎに似ている、と言われたことがある。バイト先のお客さんにだった。他にそんなことを言われたことも自分で考えたこともなかった華香は突然の発言に面食らい、その時はどこが似ているのだろうと思ってただにこりと笑って流しただけだったが、こうしてうさぎを抱いて鏡に立つと、何とはなしにこの二つの生物はひとまとまりのような雰囲気がする。華香がふわふわとした淡色のセーターを着ていることを差し引いたとしても。
 華香はまっすぐに黒い前髪を少しはらい、髪型をととのえる。まだ湿り気を帯びた髪は指にからみつき、抜けた。髪先が当たる肩甲骨のあたりまでのセーターが湿っていた。先程ダンボールから調達したコートをはおる。うさぎを抱いたままなのもだから片方ずつしか手が自由にならず不便でしょうがない。出かける準備をととのえる間、うさぎを正吾に預けようとしたが、手渡そうとした瞬間に暴れ出されるわ、そんなふうだから俺受け取れないよとまぶしいみたいに笑って断られるわ、双方から拒否を食らったため、結局うさぎは華香の両腕に収まっている。正吾がああいう顔をする時は、本当に傷ついている時だ、と華香はゆっくりと思い返した。
 玄関前でマフラーを巻いていた正吾がふりかえる。それを見て華香は、マフラーを取ってこようか迷ったが、また自分の私物しか入っていないダンボールをかき回すことに鬱になってやめた。
「結局そいつ、連れて行くの?」
「だって置いてけないでしょう?」
 正吾は華香の腕の中の生物をまじまじと見て、そうだなと同意した。おとなしそうに見えるが、そうではないのは確認済みだ。帰ってきたら電気製品がすべて使えなくなっていました、ではお笑いぐさだし、帰ってきたらコンセントをくわえたまま冷たく固くなっていました、では笑い話にもならない。
「コンビニってうさぎ連れて入っても平気かな」
「平気じゃなければ、私がぬいぐるみ連れてる危ない人になるわ、……大丈夫?」
 正吾は大丈夫、と答えて靴にゆっくりと足を差し入れる。扉を開く前に傘立てを見たが、傘は一本きりしか入っていない。華香が出ていった日も雨で、あの華やかな暖色のドットの傘は、きっと誇らしげに雨に咲いてこの家の傘立てから出ていったのだ。正吾は一本きりだが、パラソルみたいに大きな紺の傘を取ってドアノブに手をかける。華香はぐちょぐちょのスニーカーを一瞥し意を決したように足を入れたが、当たり前の不快な感覚がおそってきて、少しだけ嫌な顔をした。
 扉を開けるとばたばたばたと、およそ雨音とは無縁のひどい音がして、三和土に座り込んだままの華香は寒いと首をすくめた。
「小動物みたいだな」
 正吾が軽く笑って言い、首に巻いていたマフラーをむぞうさに華香に手渡す。正吾はうさぎみたい、とは言わなかった。華香はとっさにどうしていいのか分からず、マフラーを持って三和土に立ちつくしてしまった。閉まりかけたドアを開き、ほら行くよと顔を出した正吾が華香を導いた。
 アパートの前、ひさしがとぎれる場所で、傘を開こうとして隣の気配が少しとまどうのが分かったので、正吾はとまどった。見せつけるように大きな傘を開く。自然とそれに華香とうさぎはすっぽりと入った。
「傘、持ってるわけないよなあ」
「急に降ってきたのよ」
 一緒に傘に入ることをなんとも思っていないように華香は前を見る。黒色のコンバースが鳴る。ことさらなんでもないというようにぽつりと華香は言った。つぶやくように。聞こえていないなら正吾には聞こえなければいいと言うような調子で。
「コンビニに行ったら傘を買うわ」

 ぴろぴろぴろと音がして、レジの中でひじをついていた店員がのっそりと姿勢を正しながらいらっしゃいませーとずいぶん間延びした声で言う。この時期のコンビニ特有のこもったにおいがする。正吾は大きな雨傘を二三度震わせて傘立ての中に突き刺した。
 色素が抜け落ちてしまった髪の店員は眠そうにたれた目で華香を見たが、なにも言うことなく視線をそらした。大きな犬がゆっくりと寝そべるようだと華香は思った。
 大雨の中、店内は閑散としたものだった。窓際の雑誌売り場に、それ以外やることがないというようなけんめいさでページを繰っている中年と、若者がいるくらいだ。横目で見ながら正吾は店内奥へと回り込む。
 華香は正吾が歩を進めるのを見て、ちょっと思案したあとオレンジの買い物かごを持ってそれを追った。正吾はそれに気付いて、手を差しだす。
「うわ」
 細い金具の冷たい感触を予期していた左手に、予想外のやわらかい手応えがあって正吾は思わず手を引っ込めた。わきのあたりを両手で支えられ、後ろ足の足場がなくなったうさぎは怯えたようにばたばたしている。
「ちが、そっちじゃなくてかごだよ、分かってるだろうに」
 正吾は言いながら、ひったくるように華香からかごを奪うとすぐに売り場の方を向いた。華香は分かってると言いたげににやにやと笑いながら正吾の後ろ姿を追う。照れているのだろう、華香の方を見ようとしないその無防備なかごにそっと後ろ足から差し入れてやる。急に重くなるかごに正吾の左側が下がる。うさぎにとってみれば、あんな宙ぶらりんな体勢よりかごの中の方がいいのだろう。かごの中で心地を確かめるようにぴょこりと一足歩み、隅に体をもたせかける。かごの粗い網からその繊細な毛がもさもさと出ていて、その粗野なプラスチックがやわらかな体にくいこんでいるのが痛々しい。
「はーなー」
 正吾が心底あきれた調子で華香をいさめるようにふりかえった。
「そんなに嫌なの、この子が? うさぎが」
 華香は自分より少し高いところにある正吾の目を見あげるようにのぞき込む。正吾は面食らったように目を開いた。
「俺が? こいつを?」
 正吾はかごの中に視線を落とす。網の間に足が不自然に引っかかっていて、白い毛皮のすきまから黒くつやつやとにぶく光るツメが見えた。意外に鋭いのだな、と正吾は思った。
「……きらいじゃないよ」
 きらいじゃない、と繰り返して、正吾はそっと右手でうさぎの頭をなでた。そっと。うさぎは目を開かず、動きもせず、ただオレンジのプラスチックをくいこませてじっとしていた。その様子に正吾は少し目を細めた。華香はなんだかうれしくなって自分のほおが緩むのが恥ずかしかったから、小さく手を叩いてああ、と言った。
「やっぱり生でごろっと野菜は売ってないのね。コンビニだしね」
「まあね。でもそれっぽいものならたくさんあるじゃないか」
 それに自分の食料も買わないといけないな、と正吾はがらがらだった冷蔵庫を思い出し、考えた。
「人間の食料もいるんじゃないの?」
 ちらと正吾は華香を見た。華香は言いながらおにぎりに手を伸ばす。これすごいね、鮭ハラミだって、ぜいたく。
「おなか空いてるの?」
「冷蔵庫見たら空っぽだった。自分のこと、心配した方がいいんじゃんないの」
 人妻の心配してないでさ、という言葉はのみこんだ。
 やはり雨の日で、つい先日レポートを終えたばかりの華香はたまっていたお気に入りのアーティストの新譜を一人で聴いていた時だった。正吾が勧めてくれたこのアーティストは今や華香の方がはまってしまっていて、とにかくレポートが終わるまでは聞かない、聞くとそのことしか考えられなくなっちゃうから、というくらい好きで自粛していたのだった。だから雨でも一人でも全く苦にならなかった。幸せにボーカルの心地よい低音に浸っていた時、どんどん。チャイムなんてしゃれたものがついていない2LKの玄関が来訪者を告げた。華香はボリュームをおとすことなくはいはーいと玄関に向かった。通販でなにか買っただろうかという気軽さで。
 ドアスコープから覗くと、見たことのない男が立っていた。むろん宅配便の配達ではない。年は華香と同じくらいだろうか、なかなかの美男子で、もてるんだろうなという印象を華香は抱いたが、顔に心当たりがない。どちらさま、と華香がチェーンとつけた扉をうすく開けて問うた。男ははじめまして、と前置きしてから自分の名前を名乗り、玄関先でかまわないし、心配ならチェーンをつけたままでもいいが、正吾のことで話があるということを丁寧に言った。チェーンをつけたまま扉をいっぱいに開けて、何の話と華香は言った。男は、自分は正吾の友人の弟であると告げた。華香は年齢的にもそんな感じだろうな、と思い促す。兄は結婚しており、そして交通事故で死んだ。義姉は生き延びたのであるが、ひどく憔悴して正気を失いはじめていた。その姉のところに正吾が通いつめている。
 正吾さんは実際どう思っているのでしょうね、と男が言った。どういうこと、と華香は尋ねる。思いがけず声がかすれていたので、悟られないよう咳をしてごまかした。うちは結構な資産家なんです、義姉にもある程度以上のまとまったお金が入っているでしょうと男は続けた。正吾があなたのお義姉さんをどう思っているのか分かいけれど財産目当てで動くような馬鹿ではないと思うというようなことを華香は告げた。男は気分を悪くしましたかと言い、華香はあまりいい気分ではないわねと言った。華香が、あなたは大層お義姉さん思いなのね、好きなの、と我ながらあまり感情のこもっていない声で皮肉を言うと、僕が愛していたのは兄です、兄が愛した人だから不本意ながらもあまり不幸にはなって欲しくないと男はこれ以上ないくらいにっこり笑った。
 訊きたいことは訊きましたそれでは失礼します、と男は去辞を述べたあと、僕もこのアーティスト好きですよ、と笑顔で付け足した。不意に部屋の方をふりかえる。結構な音量で流していたCDは雨の音にかき消されず、不似合いなBGMになっていた。
 特に最近の曲は彼らの力の抜け具合がいい。華香はちらりと男に視線を戻し、私はファーストアルバムが好きだわと平坦に言った。男は苦笑して、それでは、と一礼して雨の中を帰っていく。華香はリビングに戻ると正吾のCDラックからいまだ歌い続けている彼らのファーストアルバムを抜き取り、思いついてメモに一言だけ、荷物はあとから取りに来ます、と書いてそのまま家を出た。
「他はなにかいる?」
 正吾が言う。オレンジのかごは、うさぎに配慮してわきに置かれてはいるものの結構な量の食べ物をのみこんでいる。そんなものばかりじゃ体に悪い、と言う言葉もやはりのみこんで、華香は言った。
「牛乳」

 レジにかごを持って行く前にうさぎを入れたままだとさすがにまずいだろうと、華香は後ろからかごに手を差し入れ、うさぎを抱いた。軽くなったかごに一瞬視線を走らせて、正吾はレジにかごを差しだした。髪の色の死んだ店員は、おでんの具材を補充していて、こちらのレジをちらっと見たあと、しょうしょうお待ち下さいとコンビニが提示しているマニュアル語をだんぜん眠そうな声で言い、はんぺんをつゆに浮かべてから、全くそうは思っていない口調でお待たせいたしましたーとバーコードを読み取っていく。百二十円が一点、二百八円が一点。
 華香はうさぎをあやすように揺らしながらぼうと視線を走らせた。ガラスになっている入り口の方で視線を留め、華香はうさぎを抱いたまま入り口に駆け寄る。正吾が不信そうに華香を見た。
 以上でよろしいですか、と店員が言った時、華香がこれも、お願いします、といって白いビニール傘を差しだした。正吾はなにも言わずに財布を取り出す。店員はバーコードを読み取ると、なにも訊かずに傘が包まれたビニールを取り去って、柄の部分にテープを巻いた。合計金額が読み上げられ、正吾が財布を開ける。華香もポケットから財布を出したが、正吾は黙ってそれをとめた。
「いいよ、俺のメシがほとんどだし」
 華香はちょっと思案してから正吾に千円札を押しつけた。
「いいって」
「私も食べたいもの」
 正吾は苦笑してその大文豪を押し頂く。店員は大きな荷物二つにまとまった商品とおつりを正吾の方に差しだした。むき出しのビニール傘は華香が持つ。来た時と同じようにやる気のない電子音がして扉が開く。店員の間延びしたありがとうございましたーと言う声が追いかけてくる。
 店の外はいまだに水が大量に落ちてきていて、華香も正吾も傘に手をかけたが、華香のそれを正吾は制止した。
「うさぎ持って傘させないだろう?」
 華香はちらっと考えるそぶりで首をかしげた。肩をこえる黒髪は、店の生ぬるい空気に乾いたのだろうか、かしげた方へ落ちていく。幼いようにまるい輪郭と瞳が、やはり小動物のようだ、と正吾は思う。
「大丈夫、だと思う」
 言葉を切って、手の中のものに視線を落とす。うさぎは瞳を開けていて、のぞき込んだ華香の目を射抜くように見返す。
「だったら俺の傘、持ってくれない? 両手がふさがってる」
「荷物の方、持つよ?」
「それやると結局、ハナ傘させないでしょ? 荷物はいいから傘持ってくれる?」
「分かった」
 華香はビニール傘を腕にかけて、身に余る紺の傘を開くと、正吾の方にかたむけた。
「刺さる」
 正吾は笑って少し身をかがめた。華香は慌てて傘をまっすぐ正吾の上にかかげる。身長差がそれほどあるわけではないが、斜めにかたむけた傘は正吾の頭にぶつかってしまう。
 逆にまっすぐにすれば背伸びをするわけでもなく、正吾を傘に入れられる背の高さに、正吾はあらためて驚いた。初めて見たとき、華香はバイト中で、遠目で一瞬だったせいか、華香の印象はいつもギャップを伴っていた。黒髪、黒目がちの大きな瞳、ふわふわと笑い、レースのあしらわれたエプロンをつけて、ゆっくりとオーダーを取っていた。華香はお客さんから天然だと思われてるらしいと口をとがらせていたが、正吾だってその店に営業で行かなかったら、華香のことを天然系のお馬鹿さんだと思っていただろう。お客さんにはにこにこしてたほうがみたいだし、そう思うとなんだか自然に動作が遅くなっちゃうみたいなのよね。華香はくるりでもと瞳を動かして困ったように言ったことがある。でも店のうらで見た、あのTシャツにジーンズで、不在のマネージャーのかわりにきびきび動いている「本物の」華香に出会った時初めて、正吾が心ひかれたのもまた事実だった。
「肩濡れてない?」
「大丈夫」
 左の肩が少し湿っていたが、そう答えておくことにした。

 正吾が鍵を差し込んで回すその後ろで、華香は大きな傘をばさばさとつゆをはらっている。うすくあいたドアを体全体で体当たりするようにして開ける。それが閉まる前に華香が滑り込み、紺の傘を傘立てに、少し逡巡してから使われていないビニール傘もそこにつっこんだ。フローリングの廊下にうさぎを置く。うさぎは今までおとなしくしていたお返しとばかりにとととと奥に走っていった。人間の方はそうもいかず、お互い濡れた靴に四苦八苦している。
「靴下まで濡れてる」
「替えがないわよ私」
 靴下まで脱いでフローリングに足を下ろすとひやりとした感覚が足裏から走った。華香はマフラーを取りコートを脱いで正吾に手を差しだす。
「コート」
 あ、ありがとう、と正吾はおとなしくコートを脱ぎ、置いていた荷物を抱えなおす。華香はキッチンに向かう正吾のぺたぺたという動物的な足音を聞きながら、ハンガーに自分のコートと正吾のコートをかけた。マフラーは少し迷ったが正吾のコートにかけておくことにする。
 キッチンを見るとビニールをがさがさやって取り出している正吾と興味深そうに鼻を鳴らして見あげているうさぎがいた。とりあえずこれやっててよ、と正吾は野菜スティックのパックを投げてよこす。白とオレンジと緑の野菜が棒状に切られてだけのそれは、一応人間用だからマヨネーズがついているものの、うさぎにやるにはぜいたくすぎるほどぴったりだった。
 華香はリビングに座るとオレンジのスティックを取り出して、ついてきたうさぎの鼻先に突きつける。うさぎは不審げに鼻をうごめかしたあと、おもむろに口を開けてさくさくやりだした。
「食べた」
「そりゃ食べるだろう」
 キッチンでごそごそやっている正吾が笑いを含んだ声で言う。
「ハナは?」
「んー?」
「なに食べる?」
「んー」
 熱心にうさぎが食べるさまを見て生返事の華香に苦笑しながら、正吾は大量の食料の中から適当にみつくろったものを手に取り、リビングに向かう。ハナ、と呼びかけると、体の形はそのままに顔だけぐるりとこちらを向いた。手に持っていたおにぎりを華香の口につっこんでやる。
「はひあほ」
 片手で、一口かじったおにぎりを持ち、ありがと、と華香は言い直した。もう片方の手の中のにんじんをちょうど、うさぎが食べきった。華香は正吾に野菜スティックの容器を手渡す。思わず受け取ってしまってから正吾は少し慌てた。うさぎはいまだ食べたりないらしく期待したような目で正吾を見あげている。華香が立ち上がり、かわりに正吾の肩を押して今まで華香がいたポジションに腰を下ろさせる。
「やってみなよ、私飲み物取ってくる」
「食べ物も飲み物も全部シンクに」
 了解、と言うように華香がちょっと手を振りキッチンに消えていく。ジャスミンティーもあると言おうとして、まあ見れば分かるかと声をかけるのをやめた。正吾はうさぎの方に向き直り、どれをやろうかと少し迷ってから、にんじんのスティックをゆっくりと差しだした。さく、とうさぎがかじった。我知らずほおが緩むのを正吾は感じた。
 ビニールが鳴る音を少し聞いてから、甘いにおいが漂ってきた。おや、と正吾はうさぎに差しだした手の形を崩さぬまま、首だけキッチンの方に向ける。甘いココアの香りは、幾度となくかいだものの、記憶に伴うのは華香ではないのだ。
 突然、華香がキッチンから出てくる。顔を向けていた正吾はいたずらが見つかった時のように、なぜだかぎくりとする。華香はリビングのダンボールに直行し、がさがさやり始める。やみくもに服を寄せ、底をあさるものだからもうダンボールの中は混沌と化していた。正吾はぼうぜんと華香を見た。声をかけようかと思ったが、なぜだか華香が泣いている気がしてなにも言えず、しばらくは華香のダンボールを乱暴にあさる音と、それに頓着しないうさぎが野菜をかじるさくさくという音だけがひびいた。しばらくして華香はお目当てらしきマグカップを引き抜くとキッチンに引き返す。うさぎはにんじんを食べ終え正吾の持っている大根に興味を示した。
 華香はすぐに甘い香りを伴ってリビングに戻ってきた。手には先程のトトロのマグカップ。
「ココア、残ってるけど飲む?」
「……いらない」
「そう」
 華香は立ったままカップに口をつけると、甘い、と顔をしかめた。ローテーブルにマグカップを置き、正吾の横にぺたりと座り込む。ジャスミンティーが買ってある、と言おうとして、それもやはり意味のなさない言葉なのだと気付いて正吾は口を閉ざした。落とした視線の先の華香の足に、きれいに淡いピンクに塗られたツメがあって、儚く見えるけれども自分の割れたツメよりは鋭いものを持っていると正吾は知っている。
 正吾のひざを上りかねない勢いで鼻をうごめかす動物に、正吾は自分の食べかけの大根スティックを与えた。オーディオセットに向き直り、CDのボタンを押すとディスクが入ったままで、そのまま正吾は再生ボタンを押す。何度となく聞いたギターのイントロが流れてくる。
 正吾が会社から帰った時、あの雨の日も無人の部屋でこのCDがかかっていた。そうか華香はやっとこれを聴けるんだな、と一足早く聞いていた正吾は思ったのだった。さぞかしうれしそうに聞いているのだろうなとリビングまで行くと、がらんと広く、予期した人がいないだけで部屋は、これだけ大きく空虚に見えるものかと思ったのを覚えている。ハナ、と呼びかけを小さく口にしてから、正吾はローテーブルに置かれた短いメモを見つけた。ボーカルがひときわ大きく叫んだ。初期のころに通じる、彼ららしい勢いにあふれた歌だ。
「なんで出ていったか訊かないの?」
 華香はこのアルバムを聴いたのだろうか。また全局捨て曲なしのいいアルバムだったのに、正吾のうちに置いてあるおかげでまともに聞いてはいないのではないだろうか。
「なんで出ていったの」
 華香はじっと正吾を見た。正吾も目をそらさなかった。恋人同士の甘いそれではなく、動物が二匹、お互いの縄張りを主張する時のような。華香の目はやはり動物の目に似ている。正吾はのぞき込まれたガラス玉の感覚を、つい最近体験したことがあった。そう、ほんの先刻。
 興味を失ったように華香が先に目を伏せた。
「好きな人ができたからよ」
 もはやジャスミンティーを飲まない、正吾の知らない華香が言う。
 野生動物とは違う。先に目を外した方が弱者ではないのだ。都心から20分でも野生からはほど遠い、西武新宿線沿線の住動物は先に目をそらした方が優しい勝利者なのだ。
 目をそらせずにいた正吾はうさぎにゆっくり焦点を合わす。そっと手を伸ばして背中をなぜた。うさぎはそれをさせるがままにしておくことを許す。さく、さく、と一口ずつ野菜をはむ音がひびく。やわらかい感触が、セーターのようだと正吾は思った。
「雨が止んだら、返しにいこうな」
 うさぎをなでながら正吾が言う。華香はゆっくり正吾を見たが、正吾はもう、目を合わせなかった。
「……うん」
 窓を叩く音が小さくなった。雨は止もうとしている。

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