夕焼けサブウェイ  鼻をかんだら当たり前に血が出てきて、わたしはきっとどこか壊れ始めているのだろうと思った。

 息を切らせて滑り込んだ電車はがらがらで、わたしは制服を着た小学生の右、一つ席をあけて座った。紺の四角い帽子を律儀にかぶったそれは、異様な熱心さで爪をカチャカチャやっているのが耳につく。
 ふくらんだ化粧ポーチをおもむろに取り出す。わたしは、電車ががらがらだろうとなかろうと、するつもりでいた化粧を始める。マリークレールの黄色いコントロールカラーを頬にのせ、指に残ったそれをあごの下に丁寧にのばす。コンシーラーは二本で、口の周りや生え際に残るニキビ痕を消す。赤みの残る皮膚にのせた、色の境がなくなるまでたたき込む。おでこから鼻にかけてのTゾーンに、毛穴消し用の明るめのポイントファンデーションをひと塗り。これも十分なじませる。パルガントンのフェイスパウダーを全体にはたいて(残り少なくなってきている。詰め替えなければ。)ビューラーでまつげをつかむ。マスカラを目尻の方にポイントを置いて塗り、表情筋を笑顔の形に動かして一番高い位置にチークを置く。
 これから彼に会うのだから。
 はっきりさせたくなっている。彼女もいるのに、嘘でもいいからいい返事をもらいたくなっている。そしてその旨を伝えることさえかまわないと思っている。彼がそのわざとらしい嘘にだまされたふりをして、抱いてくれればいいと思っている。
 不意に地下鉄は地上に出て、赤い夕焼けの窓が、わたしをてらりと映し出す。気がつくと小学生は寝ていて、カチャカチャ鳴っているのは自分の耳飾りだとわかった。鏡に映った自分はやたら頬が赤い。暗かったのでチークを濃くしすぎたようだ。掌ではたいてのばして、どうにか見れる色にする。マスカラが乾いた頃合いを見計らって、もう一度ビューラーでまつげを押し上げる。電車が大きく揺れて、免税店で買ったランコムの限定春色のパレットがひざからずり落ちかける。パレットの真ん中、血合いみたいに赤い口紅を唇の中心あたりにのばしてから、全体には丁寧にグロスを塗る。スージーのピュアデュウリップス14、kiss。
 この電車は直通で彼の仕事先に行かない。乗り換えて、やっと、辿り着く。
 目を閉じる。ウインクがうまくできないわたしは、うまくシャドウを塗ることができない。震えるまぶたに緑のアイシャドウをのせながら、わたしはきっと、壊れているのだろうと思った。
 
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