狂気の桜

「また、か」
 関白である藤原基経は眉をひそめた。
「帝は」
「まだ寝所に」
「衛門府の役人に調べさせろ。殿には私から申し上げよう」
「かしこまって候」

 今年に入って二度目だった。今上天皇の寝所の近くで人殺しが起こった。
 近くなどというものではない。一度目は寝殿を守る警備、二度目はその穢れを祓うための僧が。まさに天皇の枕元でそのような忌忌しき事が行われたのである。
 基経が舌をうつと付き人がびくりと体を震わせた。
 忌み事である。一番に避けるべきことである。それが、関白へと就任した早々にこんな不手際だ。下手人もあがらない。だいたい天皇の寝所は一番警備が厳しいはずなのだ。それが、衛門府も陰陽府も怪しいものすら見つけられないとはおかしすぎる。
 だが、基経が気になることはそこだけではない。
 賊は何のために警備を殺したのであろうか。当然天皇の命を狙うからではないのか。しかし、まだ天皇は生きている。襲われてすらないのだ。僧を狙うというのもおかしな話だ。それとも場所は関係なかったのであろうか。殺したい相手がたまたま天皇の近くに……いや、それならもっと隙があるときはいくらでもあるはずだ。ならばやはり殿を狙っているのか。
 しかし、と基経は考える。
 少しでも知っている者ならば、あの殿を狙うことはあるまい。
 関白殿、と御付がふすまを開けた。
 見ると、御簾が隅のほうにうっちゃってある。それをやった本人は、目を輝かせて基経を見ていた。青年、といってもいいくらいの年だというのに澄んだ目。何も知らない目。
「もとつねぇ、知っておるか。ひとがあやめられた」
 けらけらと笑った。不吉だ、と思ったが、御前だから顔にもだせない。天皇の側に控えていた女房がまともに顔を歪めた。時平は目配せをして自分の付き人と女房を退室させる。
「どうしてそ、……穢れがあったことを」
「血は、紅いのだあかいのだぞぉ。あはあはははははははは」
 基経が耐えられず目をそらし、ふすまを閉めようとすると、ふと、先ほどまでとは全く違う真顔に戻って言った。
「基経、ゆきがふっておる。閉めてはいけない」
「え、」
「しろい、雪だ」
 それは桜だった。

「基経どっ……関白殿っ、源頼義衛門府督がっ」
「きたかっ」
 もはや伝えた者は声もでず、ただこくこくとうなづいた。
 時刻は子の刻。基経は寝殿にほど近い部屋に潜んでいた。

「ひっ」
 刃先が松明の火を照り返して目を射った。それが軌跡を描くたび紅く花が咲く。
 集まってくる人と松明と。その真ん中で、また切先がひらめく。夜を薙ぐ。
「……っみかどっ」
「もとつねぇ」
 にたにたと笑い、刀をからんと取り落としたそれは。
 ゆきだぁ。
 血に染まる手を花に掲げて。
 基経は、人の心が音を立てて壊れていくのを、たしかに、見た。



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