三里塚反対同盟熱田派からの絶縁宣言(89年)


 今回ご紹介する資料は、三里塚空港に反対する闘いの中で、89年、日向一派=当時の“戦旗・共産同”が反対同盟から絶縁宣言を叩きつけられたときのものです。

 言うまでもなく、日向一派は、日本反体制運動史上に輝く、国策事業を実力闘争により粉砕したあの78・3・26を主力で担った3派のうちの1派であり、三里塚闘争には主体的に関わっていました。
 その後三里塚闘争は、当該団体である反対同盟が83年に2分裂する否定的な事態を迎えてしまいましたが、この前後から、日向一派の三里塚現地における政治態度は、大変ぎくしゃくしたものになってきます。とりわけ、分裂直後における中核派への“詫び状”−土下座外交は、今に到るも多くのアクティビストから批判・失笑の対象とされていますが、それ以降も、同盟との原則的関係を築き上げることができず、反対同盟の会議を盗聴しようとするなどの、当時表向き掲げていた「全人民的政治」の立場とはおよそ正反対の、裏政治・謀略政治に汲々とする企てを繰り返してきました。(このあたりについては、我が成共同(笑)内にも本家(笑)が一派を批判した論文が収録されています(現在成共同(笑)解散・移行処置中につきリンク切れ中(01/08/12記)

 今回入手した資料は、最終的に絶縁された時点で出された、反対同盟の広報紙からの取り込み画像です。

「三里塚から」  事態を報じる反対同盟熱田派の広報紙、「三里塚から」。絶縁状の横は楽しそうな子供たちの画像入り「木の根プールびらき」。このノリこそ、三里塚闘争の「地についた」闘いぶりをよく現しています。(^^)
確約書  86年、当時の菅沢事務局長による「話し合い基調」を批判して共闘関係を凍結された際、共闘関係復帰の際に交わされた確約書。
通告書  89年7月の反対同盟総会で決定された絶縁宣言をしたためた通告書。
 ちなみに、この絶縁に関して、前述した反対同盟への一派による盗聴が原因、とする噂が流れていますが、そうではなく、反対同盟の芝山町長選への取り組みを批判した論文を、上記の確約書に反して機関紙上に発表したことが直接の原因です。

 なお、この件に関して、あの(笑)五月夢国さんが書かれた投稿が、旧あかいしBBSにコピペされていましたので、リンクしておきます


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