一人の男がいました。その男は生まれつき目が見えませんでした。男はいつも部屋の隅にある椅子に腰掛けていました。窓辺に椅子があっても窓の外の景色を見ることができないからです。それに、自分をひどく惨めに思うあまりに自信をなくし、人に自分の姿を見られることを恥ずかしがったのです。

ある昼下がり、すぐ傍で鳥が歌っているのが聞こえました。高く澄んだ美しい、そして自由な歌声に男は心を奪われて聞き入っていました。
「なんて美しい声なんだ。あの鳥は何色の世界を見て歌っているんだろう。」
男がため息混じりに呟きました。すると鳥は歌うのをやめて、
「わたしは今、青い青い空を見ていたの。青しか見えていなかった。けれどふと空から目を離したら、緑だとか茶色だとかたくさんの色が目に飛び込んできたわ。」と言いました。
「僕は色がわからないし、ましてや君や空がどんな姿かすらわからない。自分自身の姿すら知らない。どんな形をしていて、どんな色をしているのかすら。僕の想像の中の僕は変な色をしていて、とても不細工な形をしているんだ。」
男はこれだけいうと大きなため息をつきました。

ある夜、男はすぐ傍で何匹かの子ねずみが楽しそうに鳴いているのが聞こえました。子どもらしい無邪気な、楽しそうな声で男の心は和み、知らずうちに顔に笑みが浮かんでいました。
「なんて楽しそうなんだろう。一体何を見てこんなにはしゃいでいるのだろう。」
男がため息混じりに呟きました。すると子ねずみたちはちょろちょろと男の足元に近づき、
「お庭で真っ赤な木の実を見つけたの。とてもおいしそうな、赤い赤い実。これをママのところへ持って帰って、砂糖漬けにしてもらうの。」
「いやいや、パイにしてもらうんだよ。」
「ジャムだよ。ジャムが一番さ。」
子ねずみたちは言い争ってましたが、声はうきうきしていて楽しそうでした。
「僕は色がわからないし、実というものがどんな形をしているのかすらわからない。だから君たちがおいしそうだというその赤い実の姿も、想像はできるけど、どうもしっくりこない。そういえば聖書でアダムとイヴが感情を手に入れるために食べたものは赤い実だった。きっと美しい姿をしているのだろうな。」
男はこれだけ言うと大きなため息をつきました。

ある夜中、男は寝ていてふと目を覚ましました。そして耳元でなにかがしくしくと泣く声を聞きました。
「どうしたんだい?君は誰だい?」男は言いました。
「私は花。」泣き声の主が言いました。
「私はもう少しで枯れてしまうの。今すぐ息が絶えてもおかしくないくらい、もうすぐ。明日の朝日を見ることができない覚悟もできているの。」
男はこのかわいそうな花にかける言葉を見つけられず、黙り込んでしまいました。
「私はもっと、お日さまの光を浴びながら、小鳥と共に歌い、風と踊っていたかった。死ぬ前にこんなに悔やむなんて思わなかったから、いい加減に生きていたの。」
花はそういうとさっきより激しく泣きました。
「僕は目が見えない。だから君の姿がわからないし、自分自身の姿すら知らない。どんな晴れた日でも日の光を感じることはないし、どんな優しい声を聞いてもその声の主を見ることすらできない。生きていても楽しいことなんてなかったから、死ぬ前に君のように悔やむことなどないだろう。一つ悔やむとしたら世界を見ることができなかったということだけさ。」
男は続けました。
「唯一夢の中で何かを見ることはできるけど、それはおそらく僕自身が創り出したものであり、実際の世界はこれ以上に美しいかもしれないし、醜いかもしれない。あぁ、死ぬ前にそれだけ確かめたい。」
男の目から涙がこぼれ落ちました。花の息は絶え、再び孤独が訪れました。