ペンダントを探して
運が無かったね。
その死体を見つけた時、サイネリアは無感動に心の中で呟いていた。
乾ききった舗装路の上で、何かに怯えるように身を丸めて横たわる男の死体は、放棄されたコンテナの影にあった。
突然、壁の上から飛び出した凶暴な原住生物に襲われ、慌てて後退したところで足に引っかかったため、発見できた。そのかわりにサイネリアは後ろ向きに転び、後頭部にたんこぶを作る羽目になったが。
「助かりそうですか?」
サイネリアは頭の遙か上から響いた低い声に「どうだろね」と返事を返した。
「ま、死んでからどれぐらい経ってるかが問題ね。身体の細胞がどこまで死滅しているかによるから、なかなか見た目からは判断しにくいの」
言いながら、サイネリアは男の遺体を検分する。男は肩口から胸にかけてを大きく抉られており、生きていたとしても死体の一歩手前の状態だろうと思われた。ぎざぎざの切断面は、何かに喰われたのだろうと想像させる。あまり見たくないタイプの遺体であった。
「ん〜。念のためにリバーサーを試してみるわね。運がものすごく良ければ、もしかしたら生き返るかもしれないし……一日に青いラッピーに三回出会うのと同じぐらい、運が良ければ、ね」
そう言わざるを得ないほど、その死体はサイネリアには死んで見えたのだ。
「頼みます」
サイネリアは死体を挟んで自分の正面に立っている相棒に眼を向けた。
切迫してるなぁ。
浅黒い肌に、くすんだ銀髪の大男。そんな風体の相棒は、まったく余裕の無い表情を浮かべ、青い瞳でまっすぐにサイネリアを見つめていた。
「じゃ、やるわよ」
サイネリアは相棒の視線をかわすような気持ちで、リバーサーの起動にとりかかった。とりかかる、と言ってもやることは特には無い。ただ、心で念じてやれば済む。
サイネリアはニューマンのフォース、フォニュエールである。体内に保持したナノマシンを操り、フォトン・エネルギーを自らの望む形で利用するテクニックという技法を操る者である。テクニックには、炎を生み出す術もあれば、人の傷を癒す術もある。そして、生命活動を停止した人間を蘇らせる術すらも、存在していた。
サイネリアは戦闘不能者を蘇らせるテクニック、リバーサーを起動した。かざした手の先で、死体の周囲に光のサークルが生じる。サークルからは大気にとけ込むように光の粒が舞い上がり、それにつれて光のサークルそのものが消滅してゆく。
それで、終わりだった。
弱り、死にかかった細胞を再活性させ、生命活動を正常に戻す。しかし、効果はそれだけだ。本当に死滅した細胞は死んだままであり、そして細胞が死にすぎてしまった人間は生き返らない。テクニックは魔法ではないのだ。
「引き上げましょう」
リバーサーの光が消えてから数分の後、サイネリアは相棒に声をかけた。沈んだ声にならないように気を使ってもみた。だが、平時のようにはいかなかった。
死体を見下ろしたままだった相棒は、顔を上げてみせた。そこには、なんの感情も浮かんではいなかった。
「遺体は回収しますよ」
見知らぬ誰かなら、特に感傷的な気分にでもなっていなければ遺体の回収などしない。死体は、どこであれ土に返すのが一番良い、という意識が彼らにはあった。
だが、この遺体はかつて、相棒の仲間だったのだという。
「いいわ、じゃあ、転移ゲートを開くわね」
サイネリアは、手近の地面へと右手を振るい、転移ゲートを作り出すテクニック、リューカーを起動する。
虹色にきらめく転移ゲートが発生した。
ゲートの光で周囲が明るくなり、それでようやく、日が落ちようとしていることに気づいた。
知り合いだったって言ったのに、平気そうな顔してるのは、慣れてるからかな。
ハンターズの遺体を引きずる相棒の様子を見ていたサイネリアは、そう思い至った。
惑星ラグオル地表、セントラルドーム周辺に広がる、森。
ここで命を落としたハンターズの数は数え切れない。
そして、サイネリア自身もまた、命を落としたハンターズを何人も知っている。
何度となく、助け合ってきたハンターズが、ある日突然、姿を見せなくなることなど、日常茶飯事のことだ。
相棒が遺体と共に転移ゲートに入ると、その姿がかき消えた。惑星ラグオルの遙か上空で、引力と綱引きをしながら静止している我が家……移民船パイオニア2へと転送されたのだ。
サイネリアは転移ゲートに数歩近づいて、足を止めた。
周囲を見渡せば、赤い夕陽に森が燃えていた。振り返れば、そびえ立つセントラルドームが見える。人工の建造物とはいえ、全体的には尖ったところの無い緩やかなデザインのドームはサイネリアの目から見て森の中に違和感を感じさせなかった。ただ、赤い光に照らされる姿は現実と相まってもの悲しさを感じさせた。
サイネリアは視線を転じる。
地平の果てから射す赤光は、ラグオルの一日を飾るフィナーレとして相応しい。
懐かしいほどに、美しい光景だった。
移住のための長い恒星系間旅行の果てに、こんなに美しい惑星が待っていた。宇宙ばかりの旅に耐えてきた価値はあった。
だが。
サイネリアは、赤く染まった大地に横たわる、累々たる異形の生物たちを見る。
巨大な爪と発達した筋肉をもつ、二本足で歩く怪物。群で襲い来る、狼のような性質の獣たち。常識外れに巨大な蚊の化け物と、それを飼う奇怪な植物。
見た目は楽園だ。だが、あまりにも危険な楽園だった。
その時、茂みがざわめいた。
はっと、サイネリアは我に返る。
明日は我が身、か。
己を戒め、転移ゲートに飛び込んだ。
青と緑に彩られた美しい惑星、ラグオル。
ハンターズギルドの大型ディスプレイに映し出されたその姿は、ただその美しさだけを誇示して、暗い宇宙を背景に輝き、ゆったりと漂っている。
人間のハンター、ヒューマーのウェストウィンドは忌々しげに眼を眇めた。まるで、食虫植物だ。
ウエストウィンドのその思いは、母なる惑星を汚染して瀕死に追い込みながら、なおも増え続けるための行き場を探す人類にとって、ラグオルがあまりにも魅力的すぎたことに由来する。調整無くして呼吸可能な大気、豊富な水資源と肥沃な大地を持つこの惑星に第一次移民船パイオニア1が到着した時、地表には文明の後は見られず、原住生物は凶暴とはほど遠いものしかいなかった。少なくとも、母星にはそう報告が届けられていた。
だが、報告を受けて出発した第二次移民船パイオニア2は、ラグオルを目前に停船し、未だ移民を降下させることができずにいる。ラグオル地表に、パイオニア2に同乗していた軍の人員では対処しきれないほど、危険な生物が溢れかえっているためである。
ウェストウィンドとその相棒のサイネリアが回収した遺体は、地表の原住生物と戦い、力つきたハンターズのものである。通常、ラグオル地表で発見した遺体の取り扱いについては一切の規約が無いため、放置しても問題にはならない。遺体を回収しなければならないという規約を作れば、二次災害を引き起こしかねないという懸念があったためである。同じ理由で行方不明となったハンターズの捜索をハンターズギルドが行うことはなかった。
ハンターズギルドからの呼び出しがあったのは、遺体を回収し引き渡した数日後の事だった。特にすることも無く暇だったサイネリアが突如として着いてきたこと以外は、これといって珍しい出来事ではない。組織が行う作業には何事も事後確認が伴うものである。ハンターズギルドの要請となれば、嫌でも出向かなければならないという現実もある。
指定された時間にハンターズギルドの小ぎれいな受付カウンターに顔を出したウェストウィンドは、しかし何故か「しばらくお待ち下さい」と言われるままに待ち続け、暇を持て余していた。
時間指定をしておいて人を待たせるとは。
組織の予定は変更の連続で形作られている。ギルドとのつき合いが長いウェストウィンドにはそれがよく分かっていたが、だからといって腹立ちを感じないわけでもない。
そのため、機嫌を悪くしないようにいつもは見ないようにしているディスプレイの中のラグオルの映像を、忌々しく思いながらも見てしまったのだ。視線をそちらに向けたことで、自分よりもさらに暇を持て余している人間の存在に気づくことにもなった。
サイネリアはディスプレイが埋め込まれた壁を背にして立っていた。おしりを壁につけて上半身を乗り出し、ディスプレイを斜め横からのぞき込んでいる姿は、元々の小柄さと奇抜なぽんぽん付きの二股とんがり帽子のおかげで、必要以上に子供っぽく見えていた。
待ち疲れと持て余した時間の両方で、サイネリアの挙動は傍目に落ち着きがなかった。それで、ウェストウィンドは落ち込んでしまう。後で怪しげな理由を付けてでも気晴らしにつき合わされるだろうと予測できるからだ。
それにしても、異常に遅い。
時間がかかるとは告げられていた。ついでと思い、次の仕事を探して契約を済ませ、それからさらに一時間以上は待たされ、そろそろウェストウィンドの忍耐も底を尽きかけていた。
「ウェストウィンドさん?」
振り返ると、カウンターの向こうに見慣れた受付嬢の笑顔があった。いつもながら作った笑顔には見えないのが、非常に良心的だとウエストウィンドは思う。
だがよく考えれば、遺体の収容手続きで笑顔も無いか、と思い直すウェストウィンド。受付嬢は遺体の収容手続きは別として、ハンターズの死亡登録などの処理をそれこそ無数に行っているのだから、マヒしていても仕方ない。だが、気が利かない人だと思ってしまう。
自分勝手な感傷でしょうかね。
場違いにも苦笑しそうになるのを堪えた。
「こちらにライセンスを通して下さい。後は自動的にこちらで処理させていただきます」
差し出されたボックスのスリットへライセンスカードを差し込むと、軽い電子音がした。毎度の事ながら拍子抜けするような簡単な作業で用事は終わった。
「ありがとうございました」
一礼する受付嬢に軽く手を挙げて、立ち去ろうと踵を返したウェストウィンドは、
「お待ち下さい」
と、何故か呼び止められた。
「なにか?」
振り返ると、受付嬢は笑顔を無くしていた。
「収容された遺体の方ですが、以前、お仕事をお引き受けになった時にご一緒のチームで登録されたと記憶しているのですが」
「そうです。よく覚えていますね」
受付嬢はこれまで見たことの無い、沈痛な表情を浮かべた。
「心中をお察しします。道ばたで見知った人の遺体を見つけた時の貴方の気持ちを考えれば、かける言葉もありません。あなたに見つけられて、あの方も安堵されたでしょう」
「そうかもしれません。でも、一番良いのはやっぱり死なないことですから。死んでしまってはなんにもなりませんよ」
受付嬢はまた一礼した。受付嬢をハンターズを送り出すだけの人だと思っていたウェストウィンドには、それだけで十分に沈んだ気持ちを持ち上げる助けになった。明日、自分が死ねば少なくともこの受付嬢が少しは気に病んでくれるだろう。それは戦場へ出る人間にはありがたいことだ。
「ところで、あの方にお子さんがいらっしゃったことはご存じですか?」
「……あの人、子供がいたんですか。初耳です。長いつきあいでしたが、プライベートなことは一切話さない人でしたから」
だから、ラグオルを目指す途上から仲違いし、結局最近になってチームは解散した。ウェストウィンドが一方的にプライベートをチームに持ち込みすぎたことが原因だった。あの男の家族構成がどうであるかなど、知るわけがなかった。
「実は、あの方のお子さんに関して少し問題がありまして」
「問題?」
「はい。その、あなた方に是非ともお仕事をお願いしたい、と」
「仕事?」
オウムのように言葉を返してしまった自分に後悔しながら、ウェストウィンドは受付嬢が指した方へと視線を向けた。
待合い用の椅子に、小柄な姿が腰掛け、こちらを見ていた。
「問題というからには、なにか、ギルド側からは斡旋できないような内容なのですか?」
幾分か、声を潜めて訪ねる。
「そういうわけではありません。ともかくお話を聞いてあげてください」
ウェストウィンドはまじまじと受付嬢を見てしまった。
「これが今日の本題ですか」
受付嬢は表情を変えることもなく、肯定も否定も口にしなかった。
「ギルドとしては全ての判断をお任せします。引き受けることも断ることも、ハンターズの自由でしょう。よくおわかりだとは思いますが、ギルドは決して強制はしません」
「知ってますけどね……わかりました。いえ、よくわかりませんが、話だけは聞いてみましょう」
「……ありがとうございます」
そのお礼の言葉にも引っかかりを感じたが、ウェストウィンドは黙って受付カウンターを後にした。
仲間の死には諦めもつくようになっていた。ハンターズである限り、死が身近なものになるのは当然なのだから。しかし、死んだハンターズの家族が悲しむ姿には何度直面しても慣れることができない。
収容した遺体の男の娘など、特に顔をつきあわせたくは無かった。自分の知り合いともなればなおさらだ。しかし、多少だまし討ちに近い形とはいえ名指しで呼び出され、ここまで来てしまった以上、逃げるわけにもいかない。
音が響かない素材で作られた床は、重量級キャスト――アンドロイド――のハンターズが出入りすることを考慮して作られている。鋲が打たれたウェストウィンドのブーツでも、柔らかな音しか返してこない。
どこかのスピーカーから流れる業務連絡と待合いハンターズの呼び出し、そしてフロアの奥にある防音のパーティションで商談するハンターズと依頼主たちの微かな声。それらが渾然一体となって、眠気を誘うような柔らかな雑音になり、フロア全体に満ちていた。昼寝するには最適だ、というサイネリアの意見に肯いたことはないが、今はもっともな話だと思った。
背もたれの無い四角いソファに座る少女は、ウェストウィンドが近づくと静かに立ち上がった。
チリン、と鈴の音がした。
長く艶やかな黒髪は、腰の辺りで赤いリボンで纏められていた。リボンには二つの小さな鈴が結ばれており、これが立ち上がった拍子に透き通った音を立てたのだと気付く。
姿はぞろりとした黒いローブのようなもので覆われていたが、病的なまでに白い肌と、痩せすぎに見える細い身体は隠しようも無い。背はウェストウィンドの腰までしか無く、風が吹けば飛んでしまいそうに見えた。
「セシルです。あなたがウェストウィンドさんですね」
ウェストウィンドは反応が遅れた。
幼い印象からはほど遠い、やけに大人じみた物腰が戸惑いを感じさせたのだ。子供、という印象はそれで霧散した。
「お父様は大変残念なことに……」
お悔やみを述べようとすると、セシルと名乗った少女は頭を振った。鈴の音が小刻みなリズムで囁いた。
「いいえ。ハンターズなどしていれば、いつかこういう日も来るだろうと思っていましたから。ウェストウィンドさんには以前より父が大変お世話になったと聞いていました。あなたに見つけて頂いたのは、偶然だとは思っていません」
――ドライな子、ですね。
冷静な遺族には何度か出くわしたことがあったが、小さな少女がこのような態度でいる姿は見たことが無かった。
「見つけていただいたことには感謝しています。ありがとうございました」
一礼するセシル。鈴が鳴った。
「とりあえずは」
セシルは長い裾を右手で正し、
「座ってお話しする時間ぐらいは、いただいてもよろしいでしょうか」
ウェストウィンドは肯くより他無かった。
「金のペンダントです。楕円形でエメラルドの粒が埋め込まれた。決して趣味が良いとは思えませんが、父が祖父より、祖父が曾祖父より受け継いだ由緒正しいものだと聞いています」
社交辞令的な互いの簡単なプロフィールの紹介を終えた後、セシルは依頼したい仕事について話し始めた。
言葉と共に差し出された写真を見る限り、値の張りそうな物だったが、確かに趣味が良いとは思えなかった。
「その探索任務、というわけですね」
「はい」
チリリ、と鈴の音。
「その通りです」
セシルは両膝に指先を揃えて置き、背筋を伸ばし、真っ直ぐ……斜め上にあるウェストウィンドの顔を見上げて話していた。それでも、最初は隣に座ったのをウェストウィンドが気を使って離れた上での話である。どうも密談には向かない組み合わせだった。
まあ、秘密にするような話でも無いと思いますが。
妙にセシルが声を潜めるためそんな気分になってしまう。当のセシルは終始真面目であった。
セシルの依頼とは、彼女の父親のペンダントを探して欲しいというものだった。収容された遺体はペンダントを身につけていなかったのだ。
「もしもあのペンダントを失ってしまったら、きっと父は悲しむと思います。わたしもご先祖様に申し訳が立ちません。お願いします。ペンダントを探して下さい」
内容には熱がこもっていたが、口調は平坦であり、姿は微動だにしない。どこまで本気なのか、と疑問すら浮かんだ。
「本気ですね?」
思わず確認してしまった。
「本気です」
怒るでもなく、返事が返ってくる。目が真剣だった。
「そう、ですか」
気まずくて咳払いで誤魔化した。
しかし、どうしましょう。
セシルの気持ちはわかる。肉親の遺品を大切に思う気持ちは。だが。
「ですがセシルさん」
「ラグオルの森でペンダントなんてちっこいもの、探せるわけないでしょ」
聞き慣れた声と共に、横手から二つのぽんぽんがウェストウィンドの視界の下の方に滑り込んできた。
「サイネリア……」
「無理よ」
毅然と言い放つサイネリア。
セシルの目が説明を求め、自分を見下ろす二人の間を行き来する。
「彼女は私の仲間のサイネリアです。あなたのお父様を収容する際にも一緒に」
そこまで言ってから、ようやくウェストウィンドは相棒の様子がおかしいことに気がついた。普段、気に入らないことならばその理由を並べ立て同意を求めてくるサイネリアが、黙ったままセシルを見つめていた。ウェストウィンドにはサイネリアの表情は見えなかった。
「あの、とりあえず」
小さく鈴が鳴る。
「座ってお話しませんか」
セシルは乱れてもいない裾を整えるような仕草をして、改めて姿勢を正した。動作のたびに澄んだ鈴の音が小さく響く。
「悪いけど話すことは無いわ」
その声は、いつものサイネリアらしくない色を含んでいた。ウェストウィンドは見えない彼女の顔に浮かぶ表情を想像したが、うまくいかなかった。
「帰るわよ」
細い肩が回った。完全に話し合うつもりが無い、と感じられる挙動だった。
「待って下さい」
思わずウェストウィンドは立ち上がり、サイネリアの肩を捕まえていた。
「話ぐらい聞いて上げてもいいでしょう? らしくありませんよ」
サイネリアは横顔だけを見せて、ウェストウィンドと視線を合わせた。
「サイネリア……?」
その瞳に浮かんでいた感情を読みとることは出来なかった。だが、明らかに動揺して見えた。
「あたしは、話すことなんて無い。そんな依頼、誰も受けやしないわ」
吐き捨てるように言って、肩を掴んだ手を振り払い、サイネリアは肩を怒らせてギルドの出入り口へと足早に向かった。
半ば取り乱しているようにさえ見えたサイネリアの様子に、もう一度声をかけるタイミングを掴めず、ウェストウィンドはその背中を呆然と見送るしかなかった。
「あの」
声よりも共に響いた鈴の音に引かれるように振り返ると、セシルの微かに悲しみを浮かべた瞳と相対することになった。
「無理を言ってしまったようですね」
「それは」
確かに無理な話だった。
サイネリアの言ったことは当然のことで、言い方は違っても断るつもりだった点は変わらない。だからウェストウィンドは言葉を継ぐことが出来なかった。
セシルはぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。今日お話したことは忘れてくださって結構です。ありがとうございました」
鈴の音が悲しげに聞こえたのは、ウェストウィンド自身の精神状態に原因があるだろう。黒髪を揺らし、とぼとぼと歩み去る背中がやりきれない程に儚げに見えたのも、同じ理由だったろう。
ギルドの自動ドアが、通りを去りゆくセシルの背中を視界から隠しても、ウェストウィンドは苦い気持ちを抱えたまま、周囲に満ちる雑音の中でしばし立ち尽くしていた。
パイオニア2では生活物資の全てが配給制になっている。いくら通貨であるメセタを持っていても、単純に食料と交換することは出来ない。
ハンターズはラグオルの森に放置されたままのパイオニア1のコンテナや武器、メセタを回収し、行政府直轄のショップでの取引に使用しているため、自然と資産は膨らんで行く。使い道がない、というのも資産の増大が加速する理由の一つではあったが。
サイネリアは噴水の縁石に腰を下ろし、なけなしの食料配給ポイントを支払って手に入れた味気ない合成食品の数々を無言のまま口に運んでいた。再生紙で作られたパッケージと再生プラスチックの皿を並べたこれもまた再生プラスチックを膝に抱えている姿は、背後で元気に水を吹き上げてる噴水と、隣で黙々と食事を摂っているウェストウィンドを加えれば、ピクニックか何かに来ているように見えなくもない。
一般区画は食料と生活物資が配給制であることを除けば、母星の同じ面積のベッドタウンと変わらない風景、生活が保たれている。そこには、閉鎖空間で長期間の宇宙旅行を強いられる人々の精神面をフォローするために緑地公園もあれば、娯楽施設も十分に用意されていた。
二人が昼食を摂っているのも緑地公園の一つである。よく手入れの行き届いた奇麗な公園であったが、人影はまばらでどこか寒々しい。ラグオル到着の報の後、まったく情報が途切れたままであるため、移民たちの間に不安が広がっており、不安のためか誰もが外出を控えているようなところがあった。
「うん、まあ、この状況って考えようによっては、貸し切りだと思えなくも無いわね?」
サイネリアは、他に食べ物があれば絶対に食べないだろう、彼女が名付けるところの謎のペースト状物体こと、マッシュポテトの味と舌触りを模したものが口の中に広がるのを意識しないように努力しつつ、閑散とした公園に対する感想を述べた。
「あなたのその前向きさだけは評価に値すると思います」
気分転換に公園で食事をしつつ、次の仕事の打ち合わせをしようという提案をしたのはサイネリアだったが、公園の様子はこの通りで、まったく気分転換どころでは無かった。
「失敗したかなぁ」
サイネリアはウェストウィンドに聞こえるように、問いかけるように呟いてみた。
「それで、次の仕事のことですが」
……突っ込みもフォローも無し?
いつもならば気の和むフォローの一つも入れてくれるウェストウィンドなのだが。サイネリアは気を取り直し、頑張って仕事の話を聞く心の準備を取り繕った。
「調査依頼です。森の生物のデータ収集を行い、引き渡すだけです」
「それって、前もやらなかった?」
「こういう調査は一度で済むものではありません。本当は研究者自らが実地調査したいところでしょうが、行政府と軍はそんなことを許しはしませんから。これが詳細です」
言って、ウェストウィンドは依頼内容のデータをサイネリアに引き渡す。
「もう、引き受けましたからね」
「構わないけど」
携帯端末に受け取ったデータを表示し、内容を斜め読みしたサイネリアはそこに書かれている仕事を見て眉を寄せた。
「ねえ、これって、もしかしてあの人が途中まで済ませた仕事の続きをやるってこと?」
「そうです」
「そうなの……」
間が悪いなぁ、とサイネリアは思う。よりにもよって自分たちが回収した遺体の仕事を継続するなんて。
しばらく、食器のぶつかる音と背後の噴水が吹き上げる水の音だけが大きく流れた。
不自然な沈黙に、サイネリアはウェストウィンドを見る。
青い瞳と真正面から見つめ合うことになった。褐色の肌に銀色の髪、男臭い顔立ちだが、青く澄んだ瞳は繊細に見える。サイネリアは日頃から卑怯な容姿だと評している。
「気のせいかもしれませんが、なにか、あの子に対してキツくはなかったですか」
やっぱりその話か、と思う。
「キツかったかもね」
ウェストウィンドは目を反らさない。
「それは彼女がニューマンだからですか」
「そうね」
あっさりと、答えていた。
「死なれて悔やめる親がいたわけだし……この船の中じゃ特にニューマンが迫害されるってわけじゃないしね。あたしよりは幸せだ」
「その上、思い出なんて理由で危険な仕事をハンターズに任せようというのが気に入らない。というわけですね」
「うん」
「あなたのそういう正直なところは好きですよ」
ウェストウィンドは目を反らさない。
「真顔で言わないでくれる?」
それでもサイネリアが顔を逸らさないのは半ば意地である。
「人生ってどうにもならない時はどうにもならないし、自分がなんとかしたいことを他人に任せるのは嫌いよ。自分のことは自分でなんでもやろうっていう気持ちがなきゃ」
「でも、自分で出来ることと出来ないことはありますよ」
「しょうがないじゃない? だってそういうもんなんだもん……」
不意に、視線を逸らして下を見る。
その理屈が全てに適用されてしまえば、ハンターズなどこの世に必要なくなってしまう。サイネリアは自分が言っていることが矛盾をはらんでいることを知っていた。誰かが出来ないことを、出来る誰かが行うことでこの世はどうにか成り立っているのだと。
ウェストウィンドの目はサイネリアの横顔を見つめていた。
「助けてあげないんですか?」
「もう、しつこいわよウェストウィンド!」
自分でも悩んでいることを追求され、サイネリアは思わずウェストウィンドへと向き直っていた。
結果的に、偶然をもって接触した両者が保持していたトレイ同士がぶつかり、その影響はウェストウィンドが一人で被ることになった。
実際は被るのではなく、浸ったのだが。
「あ」
二人の声が重なり、不自然に大人しい水音が後を追った。
「……ごめん」
ウェストウィンドはいつも通りの真剣な顔で、しかし水の中に尻餅をついた状態でサイネリアを見上げていた。
「一つ聞きたいのことがあります」
「な、なんでしょう?」
行きがかり上、下手に出てみるサイネリア。
青い瞳が微かに揺らいで見えた。水の流れる音が聴覚を満たし、他の音は全て消え去ったかのような錯覚を覚えた。
「理由は、本当にそれだけですか?」
問いつめるような言い方ではない。朝食のメニューを尋ねるような、日常会話のような口調だった。
いつでも、そうだ。
ウェストウィンドは、ふざけているか、余程の事が無い限り言葉を荒げることも、皮肉を匂わせることも無い。聞くべき事をただ聞いてくる。それが苛立たしいことも多々あるが、大抵の場合はサイネリアにも好ましかった。
だが、今は。
「本当よ」
そう告げる自分の声に不安を感じた。
見上げる青い瞳は何も応えなかった。そこには納得も否定も何も無かった。ただ、見られていた。それが急に苛立ちを呼んだ。
「……本当ですか」
まるで疑うような言葉だった。それがサイネリアに少なからずショックを与えた。
ずぶ濡れの手が縁石に掛けられ、大男が水から上がろうと力を入れた。
「本当よっ」
明確な怒りがあったわけではない。
急に腹が立って、その結果、サイネリアは思わず行動してしまったのだ。
起きあがりかけた大男の肩をぐいっとかなりの力を入れて押し返した。
当然、予想外の行為にバランスを失ったウェストウィンドは、今度は大きな水音を立てて仰向けに水の中へと逆戻りした。
「他に理由なんてあるわけないでしょ。あ、頭冷やしてなさいっ」
どうしてこんなに苛立ちを感じるのか、その理由をサイネリアはうっすらと理解していた。それはもう、どうにもならない事の一つであり、しかしやりきれない事の一つでもあった。
だから今は、ウェストウィンドに手をさしのべることもせず、逃げるようにしてその場を離れることしか、サイネリアには考えつかなかったのだ。
参りましたね……。
水がさほど冷たくないことは、あまり救いにはならなかった。なにより手をついた水底のぬるぬるとした感触が最悪であった。
「お主」
突如、老人の声がした。
いつの間にか、噴水の縁石の上に派手な紫のローブを身につけた老人が立っていた。
「儂の見たところ、強い女難と水難の相が出ておるぞ」
ウェストウィンドは老人を見上げたまま、意識の空隙を感じた。
知らない人間ではない。それどろか懇意にしている人物だった。
ただ、不用意に接触して良いような相手でも無い。だから、ウェストウィンドは何事かと当惑したのだ。
「……そんなの、今の状況を見れば、誰にだって分かります。それで、なんの用ですか。下手な占いを聞かせるためだけに姿を見せるあなたではないでしょう」
下手な占い、と言われたのがショックだったのか、少しむっとした表情を見せた老人だったが、すぐににやにやと下卑た笑いを見せ、縁石の上でしゃがみ込んだ。
「お主、面白い仕事を引き受けたようだな」
「普通の調査依頼だと思いますが?」
サイネリアとギルドしか知るはずの無い情報を、この老人はあっさりと口にしていた。昔からそういう男だった。ギルド内部に強力な情報源を持っているのだろう。それは違法行為だったが、彼を必要とし、彼が必要とする金を支払う一部のハンターズたちは決して彼を告発することは無かった。どこの世界にも、必要悪は存在する、その典型である。
「らしくも無い。儂の耳に入るような代物、普通であるわけがなかろう。知らずに終わればそれまでだが……買うか、この話」
差し出された手のひらは上を向いていた。
どうして誰も普通にわたしをこの噴水から起こそうとはしないのでしょう?
ウェストウィンドはわざと惚けた事を考えながら、老人の変色した手を濡れた手で掴み、取引を求めた。
「そう来なくてはハンターズの名折れ」
笑みを浮かべた老人は、好き勝手なことを言う。
縁石に座り込み、ぽたぽたと滴る水滴に閉口するウェストウィンドなど意にも介さないように、老人は声を落として話し始めた。
「先ずは、不可思議な死に方をしたとあるハンターズについての話――」
数日後。
ラグオル地表で手に入れた未鑑定の武器を複数担ぎ、サイネリアは特別区の通りをせかせかと歩いていた。
パイオニア1が積んでいた軍隊が残したコンテナなどから発見された武器は、未鑑定のままでは売却することができない。それらを専門の鑑定士に確認してもらい、行政府直轄のショップで引き取って貰うのが、面倒だが、収入を得るにはもっとも容易で確実な手段であった。
ただ、現在のパイオニア2では通貨の価値も意味を成さなくなり始めているため、この作業もしばらくすれば必要がなくなるだろう、というのがウェストウィンドの見解だったが。
先日の一件の後、ウェストウィンドは一言もそのことについて触れずにいた。
四六時中共に行動しているが、あまり互いに突っ込んだ話しはしない二人である。気まずい話題は避けるのが暗黙の了解だとサイネリアは思っていたが。
どうなんだろう。
それが、今の気持ちだった。
あの時の自分の態度は明らかに変に見えただろう。しかしウェストウィンドは何も言わない。もしかしたら、分かっていて追求しないのか、とも思えた。だとすれば、それはサイネリアにとって喜ばしいことでは無い。
二人の会話も、一方的にぎこちないものになっているように感じられ、上手くいかずにいた。
それで、一人で鑑定士の元へ逃げるようにして出てくる羽目にもなるわけである。
真昼の――パイオニア2時間でだが――特別区は、形ばかりの警備に立つ軍人たちとハンターズが数人歩くばかりで閑散としていた。
「?」
鑑定士の店の前までたどり着いたところで、、サイネリアは風景の中に違和感を感じた。
「――っ!」
周囲を見回し、違和感の正体に気づく。
何故、という疑問を残したまま、サイネリアははやる気持ちを抑えつつ、周りに見とがめられないように、ゆっくりと歩くことに努める。
通りの掲示板の隣という、嫌に目立つ場所に違和感は心細そうに立っていた。
おどおどとした様子で、大きな帽子のつばの下から見ているのは、二名の軍人と三十センチの複合装甲の扉で守られた、ラグオルへと繋がる転移装置へのゲートである。
サイネリアは違和感の主の背後から近づき、いきなりその腕を取った。
「っうきゃっ」
「しーっ。静かにしなさい。あたしよ、あたしっ。いいからこっち来なさいっ」
返事もまたずにそのまま腕を引く。違和感の主は非力なサイネリアにすら抵抗できずにそのまま引きずられた。
広場の片隅、ハンターズ用の物品保管所であるチェックルームの裏までたどりついたころで、ようやくサイネリアは掴んでいた違和感の主の腕を解放した。
そして、大きなため息をついてから、改めて違和感の主の姿を確認した。
「――なに考えてるの?」
「ええと、その」
帽子に首もとまで隠れるジャケットとゆったりとしたズボンという姿のセシルは困った様子でうつむいた。
「一般人がここにいるのがバレたらどうなると思ってるの?」
「どうなるんですか」
知らなかった。
「なにか良くないことになるのよ」
勢いだけで物を言っていた。
「で、どうしてこんなところにいるの?」
「もちろん、ペンダントを探しに行こうと思いまして」
「死ぬわっ」
自分で思わず大きな声を出し、驚いた。
なんとなく左右を見回し、誰もいないことを確認する。
「どうやって入ったのか知らないけど、早く一般区へ戻ったほうがいいわ」
「いえ、わたしは森へ行きます。お父さんのペンダントを探します」
「無理よ」
「そんなことはありません。きっと見つかります」
「……なんでそんな自信があるわけ?」
「信じてますから」
つい、笑いそうになって思いとどまった。笑うようなことではない。笑っては悪い。
「あのペンダントは、持ち主が何度も無くして、その都度、手元に戻ってきたとお父さんから聞いています。そういうペンダントなんだと」
不安げだった瞳に、いつの間にか強い光が宿っていた。
「だから、きっとわたしが探しに行けば見つかるんです。次の持ち主は、わたしなんですから」
自信があるように見えたが、そうでないのは微かにふるえている様子から容易に察することができた。大人っぽく、気丈に振る舞っていても、本当は見た目通りの少女なのだろう。
サイネリアにはそれが少し愛おしい。
かつて無くしてしまったものに通じる強さであったし、なによりセシルは黒髪だった。
それが理由でセシルに対して感情的になっていることを、ウェストウィンドが気付いているのか、それが目下の不安であった。だが、サイネリアは自分でもそれを否定したがっているのか、そうでないのか判然としない。
セシルが自ら危険に臨む気持ちがあるのは分かった。だが、無謀過ぎる行為は何も意味を成さない。
そして自分自身に不安があるサイネリアは、彼女の叶いそうもない願いを安易に引き受けることは決して出来なかった。
「それでも、行かせるわけにはいかないわ。そもそも、転移装置は生体フォトンを基準に人物を特定して許可のある人間だけに働きかけるから、あなたはラグオルに降りることもできないのよ。一般区画の転移装置とは違うの」
入れないはずの特別区に入ってきているだけに、なにか方法を知っているのかもしれない。
そう思いながらもサイネリアはセシルを思いとどまらせようとした。あのラグオルの森にこんな少女一人を行かせるわけにはいかない。それは死を意味する。
「どうしても行きます。行かなきゃならないんです」
「どうしても行かせられないわ。そんな危ない真似、みすみす見逃すことはできないわ。もしどうしても行くというのなら、通報するわよ」
最後通告だった。
セシルの瞳は輝きを失った。
目の前のハンターズが本気であることを知ったからだろう。サイネリアの瞳はいつも、その真剣さを見る者に伝え、理解させる。
「わかりました」
呟き、セシルは背を向けた。
「でも、わたしは絶対にペンダントを諦めません。かならず見つけます。どんな手段を使っても、必ず」
別れも告げず、セシルは歩み去った。先日の自分も、あんな感じだったのだろうかとサイネリアは思った。
言葉に相応しい決意をみなぎらせた背中は、サイネリアを不安にさせた。
近いうちに、宣言通り、セシルはなんとかしようとするだろう。必ず。
それが、危険なものでなければいい。
サイネリアに出来ることは、目の前で危険に向かおうとするのを止めることだけだ。セシルの全ての面倒を見ることなど出来ない。他人とはそういうものだ。
そして、人の人生とはなるようにしかならないのだと、サイネリアはよく知っていた。
だが、どうしてもセシルの最後の言葉が気になってしかなかった。
どんな手段を使っても。
それが、いつまでも不安を形作り、サイネリアの中に残った。
調査装置のランプが一つ、グリーンに変わり、聞き慣れた電子音声がデータ取得成功を告げた。
ラグオルの森は変わらぬ濃厚な緑の臭いに満ちて、パイオニア2の調整された空気に慣れた軟弱な肺には刺激が強い。
ウェストウィンドとサイネリアは調査作業のため、ラグオルの森で原住生物との戦闘に明け暮れていた。
調査対象は種類別個体別の生体フォトンのデータであった。同じ種類の原住生物を何体も狩る必要があったため、二人は森の奥深く、セントラルドーム周辺にまで足を延ばしていた。
倒れた数体の原住生物『ブーマ』の全身にはフォトンブレードで切り裂かれた傷が無数にある。
大部分がウェストウィンドが振るうキャリバー――フォトンブレードを備えた大剣――が与えた傷である。
「後はラッピーを除く二種類だけですね」
「あれ。ラッピーはまだじゃなかった?」
巨大なカマ状のフォトン兵器、ソウルイーターをくるりと片手で回して脇に挟んだサイネリアは、黄色くて丸い、飛べない鳥類に似た生物のことを訊いた。
「ラッピーはいらないそうですよ。なんでも専門の学者さんがいて、データはそちらからもらえるんだそうです」
「ラッピーの専門家? まあいいわ。後の二種類って?」
「ええ、ヒルデベアですね」
サイネリアの顔は引きつって見えた。
「あれよね、でっかい人型の」
「ええ、かなり危険ですがね。あまり群を成しませんから、運が良ければ一匹ずつ相手に出来るでしょう。二人でかかればそうそう滅多なことは無いでしょうし。でなければわたしも引き受けたりしませんよ」
とはいえ、危険であることには変わりない。圧倒的なパワーと耐久力は時にベテランのハンターズでさえ危機に陥れることがあった。
「もう一種類は?」
ウェストウィンドは苦い表情を浮かべた。
「これが問題なのですが……青いヒルデベア、というのが存在するという話を聞いたことはありませんか?」
「青い、ヒルデベア? 聞いたこと無いわ」
ヒルデベアは黒い体毛に赤い皮膚の生物である。生き物として奇妙なところは取り立ててみられない。ただ大きいことと凶暴であることが問題なだけだ。
だが、青い、とはどういうことなのか。
サイネリアは青いヒルデベアを想像してみたが、上手くいかなかった。
「依頼主も半信半疑のようなのですが、森を調査しているハンターズの一部でそういう噂が流れているようです。まあ、可能ならば青いヒルデベアのサンプルも欲しい、とのことですから」
ならば、無理に探す必要も無い。言葉にしなくとも、二人とも避けられる危険は避ける主義である。
まあ、青いヒルデベアなんてのがいるのなら、一度ぐらいは見てみたいかな。
それがどのような性質を持つのか、想像もつかないサイネリアは気楽にそう考えていた。
二人は森を歩き回り、ヒルデベアの姿を求めた。
だが、今日に限って一体も見つからない。
日は傾き始めていた。あまり時間も無い。
「困りましたね。この際、セントラルドーム前まで行ってみましょうか。テクニックはまだ余裕がありますね?」
戦闘の中、サイネリアが使用したテクニックの種類と回数から判断した言葉である。訊かなくても分かっていながら、改めて確認するのがウェストウィンドの性格であった。
「え?」
見れば、サイネリアは呆けたようにウェストウィンドを見ていた。
急にぱたぱたと片手を振って、
「あ、ごめん、ええと、何……?」
困っている様子を見せる。
ウェストウィンドは黙ってサイネリアを見つめた。
このニューマンの少女とのつき合いも長いが、変な所で意固地であり、放っておくと心配なところはずっと変わっていない。
だがこの数日に限っては、いつもと違う意味で心配だった。
「何を考えているんです?」
この数日に関して、全てについて尋ねているつもりだった。
「何って、別になにも。ぼうっとしていたのは悪かったわ。気を付けないと二人とも死んじゃうもんね」
笑って言うが、ウェストウィンドは笑っていない。笑みはかき消えた。
妙な緊張感が生まれた。
「いいんですよ。気を付けてもらえれば」
「うん」
「それで、セントラルドーム前まで行きますが、かまいませんね」
「うん……セントラルドーム前ね」
「彼が倒れていた所ですね」
「……うん」
どちらともなく、歩き出した。
自然と、二人とも周囲と背後を確認しながら歩くのは慣れたハンターズの動きだったが、妙な緊張感は消えなかった。
やはり気にしているのでしょうか。
公園での一件以来、サイネリアは何も言わない。互いに気まずい話題には触れないようにするのが暗黙の了解だとウェストウィンドは思っていた。だから、自分からは何も言わないようにしていた。
死亡したハンターズとは旧知の仲であり、かつては同じチームで戦ったこともあるが、終わった関係のためにサイネリアの機嫌を損ねるのは避けたかった。今のウェストウィンドにとって、何よりも大切なのはサイネリアとの今の関係に他ならない。
だから、いつまでもサイネリアがふさぎ込んでいるのは好ましくなかった。
サイネリアがどうしたいのか、それさえ決めてくれれば、自分が反対することは決してない。
例え、彼女が忘れたがっている過去のことを気にしているのだとしても、それは彼女自身が乗り越えるべきことだとウェストウィンドは思う。セシルがニューマンで、黒髪であることがサイネリアにとっては重大なのではないか、と半ば気付いてもいたが、それも含めて、彼女が決めてくれればそれで良かったのだ。
悩みがあれば相談してもらうのが一番嬉しいのだが、それも、サイネリアは生い立ちのためか避ける傾向にある。ヒントは与えるが、無理強いも導きもしない。サイネリアの人生観の一翼を担ったのがウェストウィンドであることは疑い無い。全て自分で決めて、自分で責任を負うのがハンターズだと、彼自身も頑なに信じていた。
やがて、セントラルドーム前へと続く転移装置にたどり着いた。
周囲に潜んでいた原住生物は先ほど立ち寄った際に撃退しておいたため、聞こえるのは鳥の声と転移装置が上げる唸りのような音だけである。
やれやれ。
一応は警戒態勢を取っているように見えるサイネリアだったが、転送装置を前にして明らかに何か別の事に気を取られていた。
「さて、サイネリア……」
入る前に心の準備を、と言いかけた時。
ガサリ、と大きな音が茂みから聞こえた。
音の方向を見るよりも先に、ウェストウィンドは地面に映る黒い影を見つけていた。影はサイネリアの上へ。
思考や打算を置き去りに、身体が勝手に動いていた。
サイネリアの腕を取り、入れ替わるようにして引っ張り移動させる。サイネリアはきょとんと引かれるまま身体を泳がせ――直後、ウェストウィンドの上に影が差した。
頭部に岩のような巨大な拳が撲ち込まれ、ウェストウィンドの意識は一瞬、空白に満ちた。
目の前で、ウェストウィンドがはじき飛ばされるのを見て、初めてサイネリアは状況を把握した。
突然茂みの中から飛び出し襲いかかったのは、巨大な体躯を持つ原住生物『ヒルデベア』であった。
ウェストウィンドすら小さく見えるヒルデベアは、巨体に似合わぬ強力な跳躍力を持ち、距離があっても安心出来ない相手である。その跳躍距離は恐ろしく長く、ヒルデベアの最大跳躍距離に位置した場合、一刻も早く距離をさらに開けるか縮めるか、ハンターズは選択を迫られることになる。跳躍しての攻撃が、もっとも素早く、かつ避けがたく、強力であるからだ。
「このっ!」
目の前で起こった出来事に囚われること無く、泳いだ身体を立て直し、サイネリアはすぐさまソウルイーターを振りかざして突進した。間髪入れずに行動に移れることがハンターズとしての最低限の資質である。
いくら頑丈なウェストウィンドといえど、何度もあの巨大な拳で殴りつけられては堪らない。
自分の得物はヒルデベアの腕よりも長いのだからと自分に言い聞かせながら、ソウルイーターが届くぎりぎりの位置で立ち止まる。
ヒルデベアの目がウェストウィンドに向いてるのを見て、サイネリアはソウルイーターを振るった。
「あんたの相手はこっちよっ!」
鎌状のフォトンの刃、その先端がヒルデベアの黒い体毛を焼き切り、肉を抉った。
怒号を上げるヒルデベア。サイネリアに向きなおった目には怒りが燃えていた。
「来なさいっ!」
言って、数歩後退する。
ヒルデベアが追いかける。
ソウルイーターが振るわれ、無数の体毛と数グラムの肉が抉られる。
だが、止まらない。
再び振るわれる刃。
だが、止まらない。
ヒルデベアの腕が上がった。
「このっ!」
三度振るわれる刃。
だがそれがヒルデベアに届く前に、サイネリアの上半身と同じぐらいの大きさの赤黒い拳が、視界一杯に迫った。
意識が途絶えた。
だが、サイネリアはすぐに痛みで目が覚めた。
風景が横になっていた。
ほっぺたに当たる感触が冷たい。地面だと認識したところで、サイネリアは慌てて転がった。近くの地面になにか重い物がぶつかったような振動が感じられた。
転がる勢いのまま立ち上がる。
日頃の訓練の通り、頭のてっぺんから足の先までを意識して、どこにもとりあえず異常はなさそうだと確認する。
右手にしっかりとソウルイーターを握りしめているのを見て、サイネリアは自分で関心してしまった。
目前のヒルデベアは地面に拳を叩きつけた姿勢でこちらを睨んでいた。
だが。
「無茶しないでください、よ」
ヒルデベアの背後で、ウェストウィンドがイエローのフォトンブレードを輝かせたキャリバーを振り上げた。
キャリバーの、斬撃。
背中を斜めに切り裂かれ、ヒルデベアが悲鳴を上げる。
「前に出ないでくださいっ」
返す刀がヒルデベアを襲う。
「なら、倒れないでよ前衛さん」
テクニックの起動準備に入りつつ、サイネリアは反論した。
「わたしをたたき起こせばっ」
続けて三撃目を力一杯に頭上から振り下ろし、深々とヒルデベアの背中を断ち切った。
「間に合わないと思ったんだもの」
のけぞるヒルデベアに、肩さえすくめてサイネリアは人差し指を突きつけた。
「燃えなさい」
ヒルデベアを中心に大気中のフォトンが結集し、臨界を迎えた瞬間、膨大な熱量が発生した。盛大な火炎を上げて、ヒルデベアが爆発する。体毛が燃え上がり、肉の焼ける音と悲鳴が重なった。
火炎の姿をとる攻撃テクニックの最高位、ラフォイエの威力であった。
もし敵性存在がヒルデベアの周囲にいれば爆発に巻き込まれ、高熱と衝撃によるダメージを負っていたことだろう。
至近距離にいたウェストウィンドは、キャリバーを振り下ろした姿勢から、まったくの無傷で身を起こした。
テクニックでコントロールされたエネルギーは、全てが敵味方を区別して影響を及ぼす。でなければ、集団戦が基本のハンターズに範囲攻撃型のテクニックは不要だろう。全てはフォトン工学の恩恵である。
ヒルデベアは焼け焦げたまま立ち尽くしていたが、崩れるようにして大地に伏した。
地響きが、この化け物の質量を感じさせ、サイネリアは身震いした。
「ちょっと油断してしまいましたね」
苦笑しながら言うウェストウィンドに責める調子は無い。
だから余計に堪える。
「ごめんなさい」
「かまいません、とは言えませんが、気に病むことはありません。次から気を付けてください」
「本当にごめんなさい。あたしがぼーっとしちゃってたからだよね」
らしくもない、と自分で思ってしまう。消え入るような声しか出ない。
「今のは完全にあたしのミスよね。注意力散漫だわ。こんなことじゃ、ここでは生き残れないわよね」
「サイネリア」
「気を付けるわ、本当に。あたし……」
ぽん、と頭を叩かれる。
「うん?」
「もういいんですよ」
思い切り、子供に言い聞かせるような調子だった。
それで、サイネリアはやっと口を閉じた。
「もっと謝りたいというのなら、パイオニア2に帰ってから聞いて上げますから、今は先に進みましょう」
「うん。わかったわ」
ウェストウィンドは腰に下げた調査装置のゲージを確認した。
「調査装置の方はちゃんと作動してくれたようですね。いまので一匹。この分ならあと二匹も倒せば終わるでしょう」
「あと二匹も?」
「たった二匹と考えましょう」
サイネリアは肩をすくめそうになる。
あたしよりもあなたの方がよっぽど前向きな気がするわ。
「でも、遭遇するかどうかの方が問題な気がする」
本当はヒルデベアに出会うのは難しいことではない。
これから向かおうとしているセントラルドーム前には、何故か大抵の場合、ヒルデベアが姿を現す。それも、複数。
これまで何度も遭遇し、撃退している相手である。同じ場所で複数個体に襲われたことも珍しくは無い。
それでも二体以上のヒルデベアとの戦闘は必要以上にスリリングなものであるのは間違いない。
そして、今しがたの出来事が不安をかき立てる。だから、サイネリアは現実的ではないそんな言い方をしてしまう。
そういえば。
目の前の巨漢をしげしげと眺め、先ほどヒルデベアに殴りつけられた痕跡を探した。が、そんな様子は少しも見えない。巨漢は平然と立っていた。
「痛く無いの?」
「少しは痛いですよ」
言って、側頭部をパシパシと叩く。
「全然、痛そうに見えないわ。頭、殴られたでしょ」
「くらっとは来ましたが。大したことは有りませんね」
改めて、自分との耐久力の差を思い知るサイネリアである。ウェイトからして段違いなのだから当然といえば当然なのだが。
「でもま、一応」
サイネリアは治癒テクニックであるレスタを起動した。レスタは大気中のフォトンとウェストウィンド自身の生体フォトンに働きかけ、負傷箇所を癒す機能がある。
高レベルのレスタはその効果範囲内において、テクニックユーザー自身とテクニックユーザーが味方と認識している者全てに効果を現す。
それで、サイネリアの側頭部から肩にかけての鈍痛が嘘のように霧散する。見た目にはわからないが、ウェストウィンドの打撲も癒されたはずである。
テクニックユーザーとなってしばらく経つが、未だにその力には畏敬を禁じ得ない。すごい、という単純な感想ではあったが。
「行こ」
いつものように、サイネリアは言った。
多少の不安があった。だが不安は良い要素だと思う。
臆病さを慎重さにすることができれば、それはハンターズの姿勢としては正しい。何があろうとも生き残ることがハンターズの最低限の目的であり、サイネリアの目的もまた同じだからだ。
転送装置が誘うように唸りをあげている。
ウェストウィンドは躊躇う事無く、転送装置へと足を運んだ。
遅れてサイネリアが転送装置が作り出すフィールドの中に足を踏み入れた。
転送時、人は不思議な風景を見る。
目の前の樹林の風景が歪み、次に安定したときには灰色の壁で囲まれた人工の広場へと変わっている。
セントラルドームへと続く一つ手前のブロックは、物資の搬入口としての役割があったと思われる、平坦な広い空間が作られている。天井がないのは作る余裕が無かったのか、ただ木々に被われていない広い空が広がっている。その空はいつの間にか分厚く暗い雲が集まり、いましも雨粒が降り始めそうに見えた。
転送装置から走り出て、二人は互いの死角をカバーする位置に立って周囲を警戒する。
広場周辺は高い壁で覆われているにも関わらず、どこからともなく原住生物が入り込んでいることが多かった。転送装置から飛び出した途端、巨大な羽虫の群とその住処である奇怪な植物に襲われるという状況は、この区画まで踏み込んだことのあるハンターズならば誰もが経験していることである。
十数秒が経過しても、二人以外に動くものの気配は無かった。
どちらからともなく、息を吐いた。
緊張しつつ、そのレベルを落とす。
「何もいないなんて、珍しいこともありますね」
歩を進めるウェストウィンドの背中を守るようにサイネリアは追従する。
二人が背にした転送装置の対角線上にセントラルドーム前へと続くゲートが見える。ゲートはいつものように閉ざされていたが、原住生物が周囲に存在する場合に自動的に作動し、人間を含めてあらゆる者の通行を阻むレーザーフェンスが消えていた。
普通に考えれば、この広場に原住生物は存在しないことになる。だが、そう思って油断したところを突如として茂みや木立の上から襲撃を受け、帰らぬ人となったハンターズも数多い。
二人は慎重に歩いてゲートへと向かった。
ゲートの直前に達したところで、ウェストウィンドが歩みを止めた。
そこに、非常に奇妙な物が落ちていたためである。
ぽつんと、ゲートの前に靴が落ちていた。
「赤い靴……?」
サイネリアはしげしげと眺め、やがてその赤い靴が元々は白かったのだと理解した。
それはまだ中身を残しており、そこから流れでたと思わしき鮮血で全体が濡れた赤に染まっていた。
「単独でここまで入り込んだのでしょうか。それにしても……」
足だけとは。
これまでもハンターズの無惨な遺体は何度も目にしているが、これほど残った部分が少ない例は無かった。
「運がありませんでしたね」
ウェストウィンドが呟く。
死んだハンターズにかける言葉など、その程度のものしか無い。
「回収するの……?」
サイネリアはどこか呆然と呟いた。
はっとウェストウィンドが振り返り、サイネリアをまじまじと見る。
「なに……?」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫って、何が」
「足だけ回収しても仕方ないでしょう。そんなことを訊くなんて、どうかしています」
「……あ」
足だけ持って帰ったところで仕方ない。
確かにそう思うが、では生き返らないハンターズの身体をパイオニア2まで持ち帰ったのはなんだったのか。
遺体と遺体の部品は等価ではない。それはなんとなく分かる。それに誰とも知らないハンターズの足とウェストウィンドのかつての知り合いの遺体は等価ではない。それも分かる。
「仕方ないけど……もしかしたら、足だけでも持ち帰って欲しいと思っている人がいるかもしれないじゃない」
普段の自分なら言いそうも無い。
脳裏にはセシルの顔がある。
そして、忘れようとしている過去の風景も、うっすらと像を結ぼうとしていた。
あの日も、こんな分厚い雲が空を覆っていた。
「だから、持って帰ってあげよう」
「わかりました」
あっさり、ウェストウィンドは肯いた。
「ただし、仕事を終えてからです」
「わかったわ――何を見ているの?」
ウェストウィンドが靴をじっと見ていた。その視線がいつに無く厳しいものに見えて、サイネリアは思わず尋ねていた。
「いえ、少し……気のせいだと思います。行きましょう。時間も無いことですし」
サイネリアはその言い方が引っかかったが、改めて靴を眺めても、特に奇妙な点は見つけられなかった。
二人はゲートの前に立った。
この向こうはヒルデベアがよく出現することで知られている。分かっていても、踏み込むにはそれなりの覚悟が必要な場所だった。
ここから先は、少しの判断ミスが大きな危険を招くことになる。もし一人が倒れれば、残った一人の背中を守る者がいなくなる。
「……降ってきた」
ゲートの手前で、サイネリアは空を見上げて呟いた。
銀糸が灰色の空から降り始めていた。
ゲートが軽い音を立てて左右に開く。
通路がセントラルドームの破壊され開かなくなった入り口にまで続いているのが見える。
その通路に原住生物の姿は無かったが、安心はできない。
ウェストウィンドが前に立ち、サイネリアが追う。いつものように。
雨粒がサイネリアの頬ではじけ、まつ毛に水滴を付けた。
左手で拭いながら、サイネリアはこの風景がひどく思い出したくない記憶に似ていることに気づいた。
「始めて会った時も、こんな嫌な天気だったよね」
「……よく覚えていますね」
珍しくも、躊躇いを含んだ声だった。
理由は分かっている。その記憶はサイネリアにとって楽しいものではないからだ。
「覚えてるわよ」
通路の先に、大きな影が歩き回っているのが見えてきた。
「思い出したくないけど、思い出すわ。あの足が良くなかったわね。あれのお陰で鮮明に思い出しちゃった」
影は、手前に一つ、奥に一つ。
共に、ヒルデベアであった。
躊躇いに似た間隙の後、溜めた息を吐き出すような調子でサイネリアが続けた。
「よく考えれば――」
くるり、とソウルイーターを回し、両手で握りしめる。
「あの子はあたしと同じなんだよね。あの子は親、あたしは仲間。無くしたものは違うけど、あの時の気持ちは覚えてる」
サイネリアは空を見上げた。
いつか見た空だった。
もしも、と思う。
あの空の下で、終わりを得ていたのが自分だったなら。
あの時、ウェストウィンドと出会わなければ。
黒髪の少女の面影が浮かんだ。
セシルに似ているが、しかしずっと幼いその少女の姿は、サイネリアの心を今も締め付ける。
こんな思いもしなくて済んだだろうか。
ヒルデベアが、こちらに気づいた。
「ペンダントを探すわ」
「わかりました」
「簡単ね」
「……いつものことです」
笑いもしないのが憎らしい。
元より、ここまで来てしまったのだから、わざわざ宣言しなくても良かったのかもしれない。ペンダントなど、存在するならば少し探せば見つかるし、もうどこかへ持ち去られた後ならば二度と見つからないだろう。
それでも宣言せずにはいられなかったのは、セシルに対してあれほど拒絶してしまったことに対する引け目があったためだ。
今はただ、それがありありと分かっているだろうウェストウィンドに対して気恥ずかしい。
だからサイネリアは、必要以上に気合いを入れてソウルイーターを振りかざした。
「さあ、ちゃっちゃと片づけて、落とし物を捜すわよっ」
ウェストウィンドがキャリバーを肩に担ぎ、駆けた。
サイネリアが併走しながらテクニックの起動準備に入る。
セントラルドーム前の広場の奥で背を向けているヒルデベアはまだこちらに気づいていない。
「多少のダメージは覚悟の上で、手前の奴を叩きます」
「ふた呼吸ってとこねっ」
「行きますよっ」
ヒルデベアとウェストウィンドが同時に攻撃態勢に入る。
そこへ、ウェストウィンドよりも二歩ばかり手前で立ち止まったサイネリアがテクニックを起動する。
サイネリアがかざした手のひらから放射状に冷気が渦巻き、ヒルデベアを包み込む。 冷却系テクニック、ギバータである。
結集したフォトンが形作ったフィールドは、その範囲内への熱伝導を断ちつつ、分子の運動にブレーキをかける。
急速に冷やされた大気中の水分が凍り、ダイヤモンドダストを作り出す。
放射される凍気にヒルデベアの体毛が白く霜を浮かべ、凍り付き始めた。
動きを止めたヒルデベアへ、気合いと共にウェストウィンドのキャリバーが横薙ぎに打ち込まれ、返す刃が再度、肉を抉った。凍った胸板に、無惨な二つの傷が刻まれる。
痛みに凍った身体を振るわせ、ぎこちなくヒルデベアが腕を動かす。
そこへ、二度目の斬撃のフォロースルーをそのまま頭上へ流したキャリバーが、真っ向から縦一文字に叩き込まれる。狙いなど無い。ただ当てて、破壊する。
フォトンの大剣はヒルデベアの鎖骨から入り、胸の途中から抜けた。
致命傷だが、まだ動く。まだ死なない。ヒルデベアはまだ。
だから、テクニックの終了処理を終えたサイネリアは二歩前進し、その勢いを持って全体重を乗せ、身体ごとソウルイーターを振るっていた。
巨大な鎌そのものの形態を持つソウルイーターは切断することに関しては凄まじい威力を発揮する。その切っ先がヒルデベアの頸部右から入り、左側から抜けた。
思っていたよりも遙かに軽い感触に、サイネリアは驚きすら感じた。
ヒルデベアの頸部は半ば以上を切断され、ぱっくりと大きな切開部を見せていた。
大量の鮮血が吹き出し、サイネリアの上にも降りかかった。
それが気分を高揚させた。
激しさを増した雨が速やかにサイネリアを彩った鮮血を洗い流していく。
セントラルドームを、その周辺施設を、叩きつけるような雨が覆ってゆく。
悲鳴を上げようとしたのか、喉の切開部からごぼごぼと血泡を吹き出して、ヒルデベアは仰向けに倒れた。
足下に流れる血がみるみる雨に跳ね、流されていく。
ああ。
見た風景だ。
「サイネリアっ」
叫びに反応し、サイネリアは走る巨漢の背中を追った。目の端にその動きは捉えていたのだ。ただ、これまで同じような光景を見ても思い出さなかったものを、思い出してしまったために遅れてしまった。
奥にいたヒルデベアもこちらに気づいたらしく、慌てたような様子でこちらに向き直った。
「距離が……っ」
激しくなる雨足。
舗装路で砕けた雨粒は薄い霧のように足下から立ち上り、視界を妨げる。
その向こうで、ヒルデベアの頭がひょいと下がって見えた。
最悪。
その言葉だけが浮かんだ。
後は、どちらに向かって跳んでくるのか、だけが問題だ。
後のフォローはそれから考える。
サイネリアは奥歯を固く噛みしめた。あわよくばかわせることもある。
黒い影が、銀糸のカーテンの向こうで高く高く跳躍した。
影は灰色の空を背景に降りてきた。
互いに警告の声など上げる暇も無い。上げたところで間に合わない。
ただ走るしか無い。
影は人型を形作り、迫った。
避けるっ!
自分を叱咤する暇もあったろうか。
サイネリアの頭上へと、ヒルデベアは両手を組み合わせてうち下ろした。
風が鳴り、雨音を圧した。
ひ、と喉が鳴る。
頭を掠めた大質量の拳は、舗装路へと叩きつけられた。
足の裏へと振動が伝わった。
舗装路と拳の間に挟み込まれた自分の頭の幻想が見えた。
「ぁああっっ!」
思わず。
ソウルイーターを振るっていた。
だが、近すぎた。
勢いを乗せられず、鈍い切っ先がヒルデベアの腹に突き刺さる。
刺さっただけで、止まった。
引き抜こうとした。
それが間違いだと思い至った時には、もう手遅れだった。
「サイネ……」
声を、ごん、という音がかき消した。
世界が九十度回転した。
咄嗟に受け身を取るが、軽く頭を舗装路にぶつけてしまう。頭全体に痺れるような振動が伝わり、一瞬、何も分からなくなる。
だが、同じ過ちは繰り返さない。
右腕で舗装路を叩き、その勢いに乗って回転しつつ立ち上がる。
膝をついて向き直った先にはヒルデベアの姿があった。
ごおっ!
突風のような咆哮がサイネリアを包み込んだ。怖気が走る。
「サイネリア!」
声は真上からした。
「大丈夫! 気合い入れてたからっ!」
大半が強がりで形作られた怒鳴り声を返してみせる。
「そういう問題ですか?!」
上擦ったウェストウィンドの声が滑るように過ぎていった。本人もいまひとつ意味が分からずに言っているのだろう。
キャリバーは使い手の生体フォトンに反応したものか、激しいイエローのフォトン光を発しながら雨を切り裂いて走った。
だが、距離が不足していたため体毛を薙ぐような形に終わる。一太刀でウェストウィンドは身を引いた。
「レスタ!」
光が広がりサイネリアの痛みが消え去る。
テクニックの有り難みが身にしみる。
「やっぱりキツイわねっ」
「あなたに行くとは思いませんでしたっ」
「良いように考えるのは禁物でしょ」
「ネガティブに考えるのも禁物です」
「ああっ」
「どうしました」
「ソウルイーター落とした」
「テクニックで援護を願います」
「ん、あいつだけならそれで――」
背後で。
水音がした。
弾かれたように、サイネリアは背後を振り返った。
「……あら」
そこには同じシルエットが三つ立ち、高い位置から二人を見つめていた。
「なんとかなんないかもしれない」
「ネガティブに考えるも禁物、です」
ウェストウィンドは目前のヒルデベアへとキャリバーを振りかざした。
サイネリアは、ため息を一つ。
「まあ、やるっきゃないでしょ」
呟いて、テクニックを起動する。彼女が扱える、最も効果範囲の広いテクニックを。
雨はまだ降り止みそうに無い。
空よりも一足早く、テクニックにより作り出された荒れ狂う雷光がセントラルドームを照らし出し、本当の死闘の始まりを告げた。
鈍い音と共に、4体目のヒルデベアの頭が二つに裂けた。
狙った一体をギバータによって足止めした後、ウェストウィンドが猛攻をかけ、他をサイネリアが引きつける、という戦術は功を奏した。
雨によって下がった気温のお陰か、冷却系テクニックはいかんなくその威力を発揮し、ヒルデベアの動きを封じることに成功していいた。
だから、最後までそれで通用すると思いこんだことが、サイネリアの間違いであった。ハンターズは、常に己の行動に疑いを持たなければならない。
言葉通りに行動することができるハンターズなど、一握りだが。
それは奇妙なヒルデベアだった。
シルエットは同じ。しかし、通常赤いヒルデベアの肌が、何故か青い。
嫌な感触は、銀糸のカーテンの向こうにその姿を確認した瞬間、わき上がっていた。
まさか本当に青いヒルデベアなんてのがいるなんてね。
自分たちの運の悪さに目眩がした。
どこかが違うということは、能力も異なる可能性があるということだ。未知の敵と戦うのはリスクが大きい。疲弊している今の状態では、逃げるのが得策だとサイネリアは思った。
なんでこんなこと、してるのかしら。
逃げ出すのは簡単だ。転移ゲートならいつでも作り出せる。ウェストウィンド共々そこから逃げ出せばいい。もう調査装置はヒルデベアのサンプルを要求していない。予定よりも二体多く倒したのだ。あの青いヒルデベアとて、出会わなかったと言えば済む。それで帰れる。もう、いい。
だけど、あたしはまだここから帰るつもりは無い。ウェストウィンドだって、何も言わない。あたしが判断を誤っている時はいつも的確な指示を出してくれるウェストウィンドが。なら、あたしのしていることは間違っていないってこと?
バックステップで青いヒルデベアのバカの一つ覚えのように繰り出される拳をかわし、サイネリアは考えを振り払う。
とにかく、片づける! それから考えろあたし!
「来なさいっ」
テクニックを起動する。足止めに有効であることを証明したギバータを。後は他の攻撃テクニックとウェストウィンドのキャリバーでかたづく。
連続した緊張状態が悪い意味でサイネリアをハイにしていた。なまじ、色が違うとはいえヒルデベアだということもある。これがまったく異なる姿の生物だったなら、サイネリアとて単純に同じ方法で対応しようとは思わなかっただろう。
だから、その後の展開は想像していなかったのだ。
起動したギバータが放射状に凍気をまき散らし、前進する青いヒルデベアを包み込んだ。
効いたはずだという確信がサイネリアにはあった。効かなければおかしい。
雨粒が凍って鈍い輝きを放って地面に落ちる。舗装路を流れていた雨水が瞬時に凍り付き次いで、自らの膨張によって甲高い音を立てながら砕ける。
青いヒルデベアの体毛に着いていた雨も凍っていった。みるみるうちに、ヒルデベアの全身が霜に覆われて行く。
だが、止まらない。
凍気の放射は終わらない。だが、それを涼しげに……文字通り、涼しげに浴びながら、青いヒルデベアは止まらない。氷に覆われながら、止まらない。
意識の空隙はほんの一瞬だった。
だが、歩み寄るヒルデベアにとっては十分以上の時間だった。
拳を振り上げ、打ち付ける。
「――嘘でしょ」
思わず呟いた言葉。
それに対する解答は、本日三度目のヒルデベアの拳によって成された。
「サイネリア!」
叫ぶ間に、サイネリアが真横に倒れた。
サイネリアに打ち込まれ、振り抜かれた拳の巨大さに、ウェストウィンドは冷静さが退くのを感じた。
遅滞無く駆けだす。
たったの数歩。
踏み込みには十分な距離だった。
唸りをあげてキャリバーが振るわれる。ウェストウィンドの生体フォトンに反応してか、キャリバーのフォトンブレードが唸りをあげて光度を増した。
上体を起こしたばかりのヒルデベアの後背筋を斜めに断ち切った。
怒号。
怒りに燃える瞳がウェストウィンドを捉えた。
怒りはそのまま、振り上げられた拳に込められる。
単純な攻撃。
だが、間合いを読んで回避行動をとるほどウェストウィンドに冷静さは残っていなかった。返す刃を強引に打ち込み、フォロースルーを頭上へ。
再び襲った激痛に一瞬はひるんだヒルデベアだったが、持ち上げたままの拳をそのままにはしない。大剣が唸りをあげて振り上げられるところを、力一杯殴りつけてきた。
気合いと共に、ウェストウィンドのキャリバーが振り下ろされる。
それがヒルデベアの肩口を捉えるのと、巨大な拳がウェストウィンドに打ち込まれたのはほぼ同時であった。
拳の威力は、接触の瞬間にキャリバーに込められた下へと振り下ろされる力をかき消し、真横へウェストウィンドごと押しやろうとする。
「っ!」
みしり、とどこかで音がした。
右足の膝に鈍痛が走り、力が抜けようとするのを無理矢理立て直す。
傾いだ身体に、ヒルデベアの拳が触れていた。
生き物のぬくもりを持った拳だ。
ヒルデベアの黒い体毛で跳ねた雨粒がウェストウィンドの顔にかかる。
目が合った。
「ぬぁっ!」
声と共に、まっすぐヒルデベアの腹へ蹴りを入れていた。
それでダメージを与えようというのではない。
蹴って、押した。
ヒルデベアの強い体毛の上にめり込んだままだったキャリバーが滑る。ヒルデベアは半ば見送っているかのようにさえ見えた。まともに殴りつけ、しかし倒れなかった相手に驚いていたのかも知れない。
巨体と巨漢の距離が開いた。
ヒルデベアは低く唸り、油断無くウェストウィンドを見据えている。
サイネリアからは離れましたね。
さらに数歩下がり、ウェストウィンドは息を吐いた。
呼吸するだけで痛みが走る。
痛みが、冷静さを呼び戻した。冷静さと無駄に頑丈で大きな身体には自信がある。
出血はしていない。大丈夫。まだまだ全力で戦える。
自分のことよりも、倒れたままのサイネリアの方が心配だった。
だが、目の前には青いヒルデベアがいる。いましも襲いかかろうとする敵を前に、サイネリアの所へ駆け寄るわけにもいかない。
はた、とウェストウィンドは気づく。
なにも駆け寄る必要など無い。そう、ほんの少し近づけばいい。目測した限りでは、距離が少し足りないだけだ。
目前に立つヒルデベアを再度観察する。
青いこと以外は他のヒルデベアと変わらないと思っていたが、よくよく見れば……なにか違うと感じられた。
この森で人を襲う生物はどこかしら異常な凶暴さを持っている。餌として他の生物を捕食しようという本能があるのはわかる。だが、なぜ彼ら同士では襲い合わないのか。
ウェストウィンドはその奇妙さが以前から強く意識に引っかかっていた。人間を襲う原住生物は、人間に対してのみ凶暴なのではないか。それは異常ではないか。
思考に埋没しようとする自分を振り払い、目前の敵に意識を集中し直す。余計なことを考えている余裕は無い。
青いヒルデベアはゆらりと上半身を揺らし、僅かに一歩、踏み出した。
その動きに、ウェストウィンドは強い違和感を感じた。
足か?
雨に阻害される視界に眼を眇め、怪しいと感じた青いヒルデベアの右足に注目する。
そこには、ほんの小さな赤い点と、そこから流れ出る一筋の鮮血が見えた。
ウェストウィンドはあんな傷を負わせた覚えは無かった。そして、ソウルイーターを失っているサイネリアが付けられる傷でもない。第一、あの傷は刃物で付けられるようなものではない。
ウェストウィンドは、背中に冷たいモノを感じた。
この場に、自分たち以外の誰かが居るのではないか。
その者は、姿を現さず、自分たちが戦っているのを観察しているのではないか。
それは、あの噴水で老占い師から告げられた情報を連想させた――。
意識の分散を読みとったかのように。
青いヒルデベアは唸り声も上げずにいきなりウェストウィンドへと飛びかかった。
ほんの僅かな一瞬の隙を悔やみながら、ウェストウィンドは脇を抜けるような軌道でヒルデベアの体当たりを回避しようとした。
避けた、と確信した瞬間、右肩に強い衝撃を受け、ウェストウィンドの身体は一回転、そのままもんどり打って舗装路の上に転がった。
素早く起きあがり、目眩に襲われる。
受け身を取ったつもりが、頭を打ったようだった。頭の中身が重く、身体全体から感覚が抜けるような気がした。
だが、距離は詰まった。サイネリアまでの距離は。あともう少しだけ詰めれば。
だが、その後は。
見えない何者かの存在を感じながら、ウェストウィンドは再び襲いかかる青いヒルデベアの動きを見切るため、萎えようとする意識を気合いで奮い立たせた。
痛みのあまり動けなかった。
顔に雨が降りかかる。
聞こえる音はぼやけていたが、ウェストウィンドの気合いとヒルデベアの怒号であることは分かった。
立って、戦わなければと思う。
何故かと自問すれば、脳裏にはやはりあの黒髪のニューマンの姿が思い浮かぶ。
だが、そのセシルの面影はにじみ、違う姿に変わる。
灰色の空と、冷たい雨が思い出させる。
古い記憶だった。
ニナは黒髪の少女だった。
いつでもサイネリア……その時は違う名前だったが、彼女の後をついて歩いていた。他に頼るものが無かったからだ。
二人は姉妹というわけではなかった。ただ街で出会った浮浪児が、一人でいるよりは二人でいることに何らかの意義を見いだした結果、共にいた。
物心着いた時にはそんな状況だった。
月日の概念は無かった。だから、あれが何時のことだったのかは思い出せない。
何時の事だったのかを思い出せない記憶は、月日と時間を基準に思い出を蓄積するようになった今のサイネリアには、あまりにも曖昧で不確かなものだった。
それでも、不意に思い出されることがある。似た色、似た景色、似た状況、音、臭い、そして恐怖という感情によって喚起される輪郭の曖昧な記憶は、いつもサイネリアをあの冷たいフェロクリートで覆われた街の路上に立ち戻らせる。
冬。
ちらつく街頭の下、今にも泣きだしそうな暗い空を不安げに見上げて、隣にあったぬくもりを確認したあの日。
突然、路上で殴られたあの日。
心臓が、肺が破れるほどに走った。
背中に追いすがる影は、人ではなかったと今でも思う。
大丈夫、姉ちゃんがついてる。
なんて虚ろな励ましだろうか。
街の角を曲がるたびに増える人の形をした人以外の影。
ニナを連れたままでは逃げ切れない。
だから、ニナを隠した。隠して、自分が囮になるつもりで走った。
街を歩くうちに覚えた道以外のルートを駆使し、彼女は一晩に渡って逃げ回った。
そうすることで、ニナの安全性が高まると信じて。
朝になり、街から人々が引き上げた後、彼女はニナを隠した場所へと戻った。
だが、そこにニナはいなかった。
おびただしい血痕と、濡れた黒髪数本の上に降りた霜が、金色の朝日にきらきらと輝いているだけだった。
現実とはいつもそういうものだ。
守るものがあるなら、決して手放さず、自分のその手で守らなければならない。
自分がどれほど大切に思っていても、そんなこと、誰の知ったことでも無い。
可哀想なニナ。
残ったのは、たった数本の髪の毛だけ。
それでも、その全てを血塗れになりながらも凍り付く路上から拾い集めたのは、ニナのひとかけらも残らなければ、自分の中からもいつかニナの存在が失われてしまうような気がしたからだ。
「サイネリア!」
声が聞こえた。
夢のような、幻のような記憶の中から、我に返る。
サイネリアは全身にあった痛みが消えていることを知った。
遅滞無く身体を起こし、周囲を見る。
雨が小降りになっていた。
肩で息をするウェストウィンドの背中が見えた。距離は数メートル。その向こうに、青いヒルデベアが身体のあちこちに刻まれた傷から血を流して立っていた。
「多少は効き目があったようですね」
荒い息使いの間から、ウェストウィンドが苦しげに言った。
それでサイネリアはウェストウィンドが何をしたのかを理解した。
人間のハンターはニューマンのフォースには遠く及ばないものの、いくつかのテクニックを行使することができる。
多少、節々に違和感を感じたが、テクニックの行使に問題はない。
「あまりテクニックの修得には興味がありませんでしたからね。低レベルのレスタでは効果範囲が足りず、時間がかかってしまいました」
「どこかやられたの?」
ウェストウィンドの言葉と呼吸音に雑音のような奇妙な音が混ざっていた。
「少々。できれば、早めにメディカルセンターに駆け込みたい心境です」
レスタは絶大な力を持つ治癒テクニックではあるが、その効果範囲はあくまで人間が自分で治癒可能な範囲に限られる。例えば、脳を損傷した場合、レスタの効果は及ばない。ウェストウィンドは頭を強打している可能性が高い。
一刻も早くパイオニア2へ帰った方がいい、とは思う。
だが、ウェストウィンドはそうは言わない。自分のことだからやせ我慢している、という訳ではない。必要なことならストレートに意見するのが彼のいいところだ。
理由は一つしか無いだろう。
サイネリアはようやく、受け入れた。衝動的すぎる自分の行動と、それに合わせてくれるウェストウィンドが、いったい何を考えているのかを。
「――あの子、黒髪なんだよね」
あまりにも唐突で無意味な言葉だった。なのに、ウェストウィンドは何も答えない。
答えないことが、答えだった。
彼はもしかしたら、自分よりも自分のことを知っているのかもしれない。なにに拘っているのかも、知っているのかもしれない。
サイネリアは軽く息を吸って、微かに残る違和感を払拭しようとした。
「じゃあ、早く用事を済ませて帰りましょ」
「そうしましょう」
青いヒルデベアが動くと同時に、ウェストウィンドが突っかけた。
ギバータは効かなかった。
サイネリアは思考を巡らす。ようは、ウェストウィンドが全力で斬ることが出来ればいい。それにはやはりヒルデベアの動きを止めなければならない。
――簡単なことか。
ウェストウィンドは刃を水平にしたまま去距離を詰める。巨漢に似合わぬ素早さで踏み込み、薙ぎ払う。何度も何度も繰り返してきたその動作を、ウェストウィンドの身体は全力を持って再現した。
刃が還る。左から、右へ。
遅れて上がった怒号に被さるようにして、二の太刀がヒルデベアの胴体を薙いだ。
イエローのフォトン光が水平に軌跡を描くうちに、青いヒルデベアの拳は大きく振り上げられていた。それがうち下ろされる速度は、キャリバーが頭上へと振り上げられるよりも遙かに早い。
だから。
「燃えてっ」
サイネリアは指さした。
青い拳が持ち上がりきる瞬間を。
一瞬の隙を作る最も効果的な瞬間を。
青いヒルデベアの胴体の中心に、赤い光がぽつん、と灯った。
フォトンが収束し、エネルギー形態を熱へと変換されてゆく。
瞬間的に発生した大熱量は吹き出し、大気を圧して拡大し、青いヒルデベアを包み込む。
ヒルデベアの足下を流れていた雨が瞬時に蒸発した。
爆発も、衝撃も、一瞬の事である。
そして、ヒルデベアがラフォイエの一撃で死なないことも確認済みである。
だが、その一瞬は、ウェストウィンドがキャリバーを大上段に構え、気合いと共に振り下ろすには十分な時間であったのだ。
鈍い音がした。今日は何度目になるかわからない、断たれ、砕けた骨の音。
ウェストウィンドの膂力をもってしても、ヒルデベアの巨体を両断するには至らない。だが、キャリバーのフォトンブレードは肩から入って青いヒルデベアの右肺の半ばにまで達していた。
青い、分厚い胸板にウェストウィンドの足があてがわれる。
キャリバーが引き抜かれると、ヒルデベアは巨体に似合わぬ静かな音を立てて濡れた舗装路の上に倒れた。
小雨になったとはいえ、まだまだ雨は降り止む気配が無かった。
上空に強い風が吹いているらしく、灰色の雨雲はかなりの速度で流され、かき回されているが、それが薄れる様子は無かった。
「無茶しないでよ」
「すみません」
いつものように、ウェストウィンドは素直に謝った。
ウェストウィンドは精根尽き果てたという様子で、青いヒルデベアを斬ったその場に座り込んでいた。息荒く、キャリバーにもたれるような姿勢は、やはりどこかに重大な損傷を受けているのではないか、とサイネリアに思わせた。
「――帰りましょ」
たっぷり時間をおいてから、サイネリアは言った。
自分の傍らに立ったサイネリアをウェストウィンドは驚きに満ちた顔で見上げた。
「帰るって、ペンダントはどうするんです。探すんでしょう?」
「探すって……もう見つからないわよ。この天気にこの暗さじゃね。ライトスティックじゃ光量が足りないし……」
不思議なことに、テクニックの中に光を生み出す系統は存在しなかった。
通常、夜間は原住生物の活動が活発になるため、ラグオル地表に人間が残ることは許されていない。そのため、特に夜間装備を携行することも無かった。非常用のライトスティックは基本ツールの中に含まれているが、あくまで非常用である。夕闇の雨の中、百数十平方メートルはある雨水が流れる舗装路の上に、小さなペンダントを見いだすためには、あまりにも頼りない光だった。
沈黙が落ちた。
悔しい。
心の底から悔しい、と感じた。
ここまで来て、二人とも危険な目にあって、今までに無いほどの強敵を撃退して、ようやく心の隅に引っかかっていたことを解消できるかと思えば時間切れとは。
あまりにも悔しい。
「ねえ」
「はい?」
「拘りすぎたのかな。あたしは」
「拘るのも仕方ないでしょう。わたしは別に後悔していませんよ。ただ、運が悪かったとは思っていますが」
拘るのも仕方ない。
やっぱり分かってるんだ。
ようやく、解答を得た気持ちになって、サイネリアは無言で肯いた。
「感傷的になるのを悪いとは言いません。戦闘中でなければですが」
「分かってるわ。さて、ともかく早く帰りましょう。もしいま他の原住生物に襲われたら大変だし。ちょっと納得のいかない結末だけど、仕方ないわ」
悔しさを振り払うように、サイネリアは明るい声で言う。
それにしてもあの子、どんな手段でも使うって言ってたけど、なにするつもりなんだろ。
憂鬱な気分になりながら、サイネリアはウェストウィンドに手を差しのばした。
その手と交差するように、ウェストウィンドの手が伸びて、サイネリアの胸を突き飛ばした。
え?
驚くサイネリアの目の前を、緑のフォトン光が横切って行った。
同時に聞こえたのは、聞き慣れた発射音。ハンターズが使うフォトンライフルの音だった。
濡れた舗装路に尻餅をつき、サイネリアは目を見開いて顔を上げた。
夕闇が何もかもを暗く閉ざそうとする世界の中で、その男は闇に溶け込むような濃緑色のスーツに身を包み、緑のフォトン光を灯すライフルの銃口をこちらへ向けていた。ハンターズの中でもフォトンを応用した銃器類を扱う者をレンジャーと呼ぶ。人間のレンジャーは、一般的にはレイマーと呼ばれていた。
若い男だった。
なんの特徴も無い、中肉中背のレイマーである。その男は、まだ戦いを経験していない、ハンターズと同じ透明な雰囲気を持っていた。
だが、構えられたライフルの銃口は微動だにせず、真っ直ぐにサイネリアへと向けられていた。
「なん、なの?」
「なんでしょうかねぇ」
ウェストウィンドの声は憂鬱に聞こえた。
男は数歩こちらへと近づいた。それでも二人と男の距離は十数メートルあり、男がその気になれば一方的にフォトン弾を浴びせられる。
「こうも思い通りに事が運ばないと、何か悪いモノでも憑いてるのかと疑いたくなるな」
自嘲するような調子で男が言う。
「おい、そこのでかいの。まずはデータパックを渡してもらおうか。言うまでも無いと思うが、妙な動きをするとそこのニューマンの顔面をグズグズにしてやるからな」
サイネリアは男が本気かどうかなど確かめる気にもならなかった。男の口調はあまりにも率直で、単に事実を述べているだけだと感じられたからだ。言ったことは何の感慨も無しに実行するだろうと思えた。
「まあ、別にとりたてて惜しいモノでもありませんから、差し上げましょう」
珍しくも負け惜しみに聞こえるようなことを言って、ウェストウィンドが調査装置からデータパックを取り出して見せた。
「ちょっと、でも、なんなのよ……?」
訳がわからず、サイネリアは再度問いかける。ウェストウィンドの態度も奇妙に思えた。まるで、こうなることが分かっていたかのように落ち着いて見える。
ウェストウィンドはデータパックを振って見せた。
「寄こせ」
「質問していいですか?」
「なんだ」
「どうしてわたしたちを殺してからデータパックを奪わないんですか」
男は笑みを浮かべた。
「無駄な殺しはしない主義だ。それに、殺りすぎると色々と面倒なことになるんでな。何事も程々がいいってことだ」
その言葉にも自嘲が含まれているように聞こえた。
この男は何者なのか。
サイネリアは男を観察してみたが、容姿、スーツ、装備品に至るまで、よく見られる一般的なハンターズでしか無い。
「無駄ではない殺しはする、ということですね……。わたしたちの前にこのデータ収集を依頼されたハンターズを殺したのは無駄ではなかったと」
「そうだ」
「なっ!?」
あたしたちの前って、あのハンターズ?
セシルの、お父さん……?
サイネリアはゆっくりと、動悸が高まるのを感じた。まだ、分かっていない。まだ、理解できていない。だが、ゆっくりと自分の中で何かが動き出したのが分かった。
「彼は少々、俺の邪魔をしすぎたんでな……でかいのは、あまり驚かないな」
少しだけ不満そうに、男が言う。
「先ほど白い靴を見つけました。周りに血を踏んだ足跡があって、その靴の形が二種類ありました。それに、事前に青いヒルデベアを追っているハンターズがいる、という話も聞いていました。そのハンターズが数々の悪事に手を染めている、ということも」
男が笑ったようだった。
「悪事、か。モノは言いようだな」
男はまた不満そうに鼻を鳴らした。
「そんな事はどうでもいい」
「そうですね。どうでもいい」
ウェストウィンドの声色が少しだけ変わったのが、男にも分かったのだろう。男の表情が僅かに翳った。
「無駄話はここまでだ」
男はデータパックを渡すように促す。
この男はセシルの父親を殺した。そう考えると、サイネリアは言いようのない憤りを感じた。だが、それすらもハンターズにとっては日常茶飯事であるのが現実だ。力の無いものは淘汰される。そして、その男のお目こぼしで自分は生かされる。
手のひらに爪が食い込むほどにサイネリアは拳を固めていた。だが、自棄になってはならない。死んでしまっては、それから先が無い。生き残る為には自制が必要だ。
それでも一つだけ確認しなければならないことがあった。
喉が乾き、言葉が上手く出てこなかったが、サイネリアは必死に声を出した。
「あなた、エメラルドが埋め込まれた金のペンダントを持っていない……?」
男は怪訝な表情を見せたが、すぐに胸元へ手を入れ、戻した。その手には、闇で確認しずらいが、おそらく金であろうと思われる鈍い輝きを持ったペンダントがあった。
「それっ」
思わず男の方へとにじり寄りかけたところを、ライフルの銃口が押しとどめた。
「それ、返してっ」
「なに?」
困惑する男を見て、サイネリアは苛立ちを覚えた。自分は変な事を言っている。強盗に対して盗んだ物を返せなど、正気の沙汰ではない。
それでも言わずにいられなかった。
「返してって言ってるのよ……あんた、死人から盗みを働くなんて最低よっ。正当な持ち主に返すんだから、早くこっちに寄こしなさいっ!」
言っている内に気分が高揚し、最後は怒鳴り声になっていた。
サイネリアの声が夜の静寂へ吸い込まれると、三人の間に沈黙が落ちた。夕闇は夜へと様相を変え、闇の中、男の持つライフルのフォトン光だけが明るく、まるで一枚の影絵のごとき風景を作り出していた。
男はため息をついた。
「今の正当な持ち主は俺だ」
「そんなわけ無いでしょっ!」
憤りのあまり思いつくまま反論するサイネリアだったが、あまりにも無意味な行為であると分かっているのが悔しく、それがさらに彼女を興奮させていた。
このままじゃダメなのにっ。
ペンダントを取り返すどころか、そのうち無謀な行動に出て撃ち殺されかねない。
冷めた部分ではそう考えていても、自分自身を止めることはできそうになかった。
なるようになれ、という一番忌むべき方向へと考えが傾きかけたその時。
自分の視界にウェストウィンドの手のひらが入ってきた。
感情を向けていた男の姿が隠されたことによってか、加速するばかりであった激情が瞬間、引いた。
ウェストウィンドは男を見ていた。
「夜は、どうして地上に残ってはならないのか、知っていますか?」
唐突な言葉に、サイネリアは困惑した。
いつもと変わらない、落ち着いた声での問いかけ。
だが、サイネリアが問の意味する所に思い到るまで、さほど時間はかからなかった。
あれほど聞こえていた鳥や虫の声が止んでいた。引き替えるように、聞こえてくる音があった。
茂みをかき分けるような、あの音。
「早く寄こ……」
焦りの混じった男の声は、最後まで続かなかった。
声に被さるようにして、ウェストウィンドがデータパックを男に向かって滑らせた。
同時に、サイネリアは男の背後、高くそびえる壁の上から覗く鬱蒼とした木々の枝葉が大きく揺れたのを見て、走り出していた。
対して、男はその瞬間、迷ったのかもしれない。
なんらかの行動を起こさねばならない瞬間を逸してしまっていた。
背後の音。
送り出されたデータパック。
片手で保持したライフル。
片手に下げたペンダント。
立ち上がるニューマンの娘。
男は遅れたが、正しい判断を下した。
ペンダントを捨て、ライフルを両手で保持。滑り来るデータパックを足で止め、上半身を捻って背後へ向き直った。その動きは鋭く、素早く、正確だった。
取るべき行動は正しかった。だが、その順番は誤っていた。
ライフルの銃口が、闇の中から滲み出るようにして現れた存在をポイントする前に、そいつの怒れる拳は男の頭へと叩きつけられ、鈍い音を響かせた。
その光景を揺れる視界の中央に捉えていたサイネリアは、闇に浮かぶ一対の赤い瞳を見てしまった。昼間に見るそれとは発散する空気が異なっている。
微かな怖気が走ったが、サイネリアは投げ捨てられたペンダントへと向かう自分の足を止めることはなかった。雄叫びを上げるヒルデベアを敢えて視界から外したのはハンターズとしては失格である。だが、そうしなければ走り続けることができなかっただろう。
フォトンライフルの発砲音が立て続けに響いた。前方の闇の中、緑のフォトン光が闇を横切りヒルデベアの身体で砕ける度、その巨体が幻のように浮かび上がり、巨大な影が舗装路の上に落ちる。
激しく揺れる影、そして濡れた舗装路で反射される光の中に紛れ、サイネリアは鈍い金色のペンダントを見失ってしまった。慌ててはいつくばり、不確かな視界の中で雨水のしぶきを上げながら手探りで探す。正方形の石が組み合わされたつなぎ目は時に鋭く角を残しており、指先に鈍い痛みが走った。
その痛みがもたらしたものか、不意に、理解する。
これは、霜の降りた血痕の中から、僅かに残った数本の黒髪を爪が割れるのも厭わず掘り出し集めたあの時と、同じだった。
時間が無いのも、やりきれない気持ちであるのも、同じ。
ペンダントを持って帰っても、あの一人ぼっちのニューマンの父親が帰ってくるわけではない。だとしても、危険を冒して取り戻す価値がペンダントにはある。本当な無いのだと分かっていたが、もう、ペンダントは自分にとってのあの黒髪と同じだった。いつもいつも、終わってしまって、どうしようもなくなって、思い出に成り果ててしまってから、思い出のための何かを手に入れるためにまた危険を冒して。
二度も同じ気持ちを味わう羽目になるなんて、あたしは運が悪い。
最低だ。
指先に鎖らしき感触が触れた時、サイネリアはまるでそれが逃げだしてしまうのを恐れるかのように、体勢を崩しながら両手で捕まえていた。
持ち上げた鎖の先についてきた重みを手のひらに取り、それが楕円形のペンダントであることを確認する。明滅するフォトン光だけではその状態までは知り得なかったが、酷く破損しているような様子は無かった。
とたんに、安堵が胸の内に広がり、サイネリアは脱力した。
脱力してうつむいたところで、太い腕が腰に回された。突然の事に驚く暇も無く、身体が持ち上げられる。
咄嗟に抵抗しようと振り上げた手は、自分を小わきに抱える人物を見て止まった。
「脱出しますよ」
荒い息をつくウェストウィンドは酷く疲れて見えた。
前方で軽いエアの抜ける音がしたかと思うと、光のサークルが展開し、虹で出来たような円筒が姿を現した。テレパイプという機械式の転移ゲート発生装置の効果である。飛び込みさえすれば、そこはもうパイオニア2の中だ。
「ペンダント見つけたっ」
ウェストウィンドはサイネリアが拾うのを見ていたのか、軽く肯いて返した。
「あいつは?」
言いながら、サイネリアは断続的に輝くフォトン光の方を見て、言葉を失った。
フォトン光に照らされ、闇の中に浮かび上がる影の数は数え切れず、しかしその中を駆け抜けるあの男はまだ戦っていた。
数発のフォトン弾を浴びたジゴブーマの下半身は胴体と切断され、サベージウルフの頭部が角と頭蓋の欠片を伴って四散する。
明らかに、男の持つフォトンライフルは想像を超えた破壊力を持っていた。
それでも、茂みの奥から、通路の向こうから姿を現す原住生物の数はますます増えており、間違っても男がその全てを打ち倒すことは有り得ないと思われた。
「いい気味、なんて言ったらダメかしら」
「構いませんよ。わたしも同じ気持ちですから」
こちらへと向かう数体のヒルデベアへ、サイネリアは思わず軽く手を振った。
ウェストウィンドに抱えられたまま、転移ゲートの内側へと入った時、もう一度サイネリアは男を捜したが、蠢く影の合間にフォトン光の輝きが浮かぶことは無かった。
一般区画からギルドへと向かう途中、転移装置の裏に見知った顔を見つけたウェストウィンドは、そっとその隣へ近づいて傍らの壁へもたれかかった。
「随分危ない目に遭ったようだな」
紫のぞろりとした衣装を身にまとった老人は自称占い師。顔見知りに自称ではない、と言い張るのが日課であるが、これまでマトモに占いを当てたことが無い、という理由でそれなりに名を知られていた。
「高い買い物をした割には、あまり役にはたちませんでしたが、一応はお礼を言っておきます。ありがとうございました」
老人の眉がぴくく、と持ち上がった。
「相変わらず冗談がキツイ」
「冗談のつもりはまったくありませんが、そう受け取りたいのでしたらご自由にどうぞ」
今度は老人の染みの浮いた頬が引きつったように見えた。
特別区へと転移するゲートは限られた人間しか利用できないため、周囲に人影は見られない。ゲート入り口に立っている歩哨からは見えない位置で距離もあったが、二人は声を潜めるようにして会話していた。
「頭の方は大丈夫なのか」
「しばらく頭痛は続きましたがね。精密検査でも何も問題は出てきませんでした。わたしの健康よりも、あの男について分かったことは無いんですか」
「ああ、アレはもう止めた」
老人は投げやりに答える。
「火遊びは程々にするに限る。儂は遊びに命をかけるつもりは無いよ」
「賢明かもしれませんね」
ウェストウィンドの脳裏には、あの男の最後の姿が浮かんでいた。あの場で死んだか、生きて今もこのパイオニア2のどこかにいるのか、それは分からないが、男の戦闘能力と持っていたライフルの威力を考えると、その背後についている物、とりまく物の大きさがうっすらと想像できる気がした。
間違っても、ただのハンターズが表立って対決するような相手では無いのは確かだった。
「しかし、このややこしい時でさえ、ああいう輩が出てくるかね。呆れるよ」
その言葉には答えず、ウェストウィンドは壁から背中を離した。
歩み去るその背中に、老人がまたニヤニヤ笑いを浮かべて声を掛けた。
「占い、当たっただろう?」
立ち止まった巨漢は、少し考えるようなそぶりを見せた。
「ああ、水難は当たったかもしれませんね。でも女難は……微妙ですね」
「ということは当たったのか?」
「そうなるかもしれません」
微妙ですが、と心の中で付け加えるウェストウィンド。
「そうかそうか、当たったか……」
老人はうむうむと肯きながら、もうウェストウィンドには興味なさそうに背を向け、てくてくと歩み去った。
情報源として懇意にしている老人であるが、最大の興味は自分の占い師としての腕にあった。それは今も昔もまったく変わらない。
歩哨に軽く会釈して、転移ゲートを使いウェストウィンドは特別区へたどり着く。
しばらく通っていたメディカルセンターを横目にハンターズギルドの自動ドアをくぐったウェストウィンドは、ホールにサイネリアの姿が無いことを確かめてから――とはいえ他のハンターズより随分と小さいことから、時に本当に見つけられないこともあるのだが――待合い用のソファの方へと移動した。
ソファにはウェストウィンドも顔負けの巨体を誇る重量級キャストや人間の女性フォースなどが腰掛けており、唯一座れそうな場所は見るからに気むずかしそうな黒ずくめのフォニュエールの隣だけであった。
「隣、よろしいでしょうか」
声をかけると、フォニュエールはこっくりと肯いた。
なんだか居心地が悪いな。
普段はあまりそういった感想を抱かないウェストウィンドであったが、黙りこくったまま顔を背けるようにして隣に座っているフォニュエールから、なんとも言えない気まずさを感じていた。
ホールにはいつもと変わらぬ柔らかな雑音に満たされていた。
帰還して数日はウェストウィンドの精密検査のために動けず、その後はセシル自身のどうしても変えられない予定のためにペンダントを返すことが出来なかった。
今日になって、ようやく会う算段がついたわけだが。
行きがかり上、ウェストウィンドがペンダントを届ける役目を引き受けようとしたのだが、サイネリアが強硬に自分で手渡すのだと言い張った。彼女が何を考えて行動するのか計り知れないのはいつものことであるが、今回はうっすらと理由が分かる気がしたため、任せることにしたのである。
そうやって、人は大人になっていくのですねぇ。
などと、分かったようなことを思い浮かべてみるウェストウィンドであった。
「遅かったね」
「うわっ」
いきなり耳元で囁かれ、ウェストウィンドは危うくソファから転げ落ちそうになった。
慌てて振り返ると、ソファの背もたれに手をついたサイネリアがいた。
「そんなに驚くことないでしょ」
「いや、耳になま暖かい息が」
腕に浮いた鳥肌をアピールしながら、ごしごしと耳を擦るウェストウィンド。
時に行われる軽い冗談のきっかけになるかと思われた言動はしかし、どこか優れないサイネリアの表情の前に萎んでしまった。
「……セシルには会えましたか?」
「会えたわよ」
はぁーっと、サイネリアは滅多に見られないほど大きなため息を吐いた。
やはり、一人で行かせたのは間違いだったのでは。
その様子に不安になるウェストウィンド。
しかし。
「彼女、とっても喜んでたわ」
「喜んでました?」
「うん、それはもう物凄く」
「はぁ」
では、どうしてそんなに物憂げに?
「それでね、是非ともお礼がしたいんだって」
「お礼」
「うん、お礼というかご恩返し、なのかな。ちょっとわかんないんだけど、うーん」
サイネリアが珍しくも苦悩していた。
「いったい何が……?」
「うう、本人に聞いてよ。……セシル」
その時、すっくと立ち上がったのは、黒ずくめのフォニュエールであった。
黒髪の三つ編みを二つ垂らした背中がくるりと回った。勢いで肩に片方の三つ編みが乗り、先端を結んでいるリボンについた鈴が澄んだ音を立てた。
「こんにちは」
ぺこり、と頭を下げる。
耳に心地よい鈴の音。
「あの、駆け出しでお役に立てるかどうかわかりませんが」
再度、頭が下げられる。
上がった顔と胸にかかった金のペンダントを見て、ウェストウィンドはそれが誰なのかようやく分かった。
「……セシルさん」
「はい」
元気な返事が返ってくる。
「サイネリアさんは全然分かってくれませんで、気付いて頂くのに随分時間がかかってしまいました。ウェストウィンドさんはどうしてすぐにお分かりに?」
「鈴の音とペンダントで……いや、ええと?」
訳がわからなかった。
「ああ」
ぽん、とセシルが手を叩いた。
「わたしが出来ることはこれぐらいですから。ご用があればなんなりとお申し付けくださいね。これから、よろしくお願い致します」
「……そういう事らしいわよ」
「そういう事って言われても」
「つまり」
がしっとウェストウィンドの首に腕を巻き付け、耳元で声を抑えてサイネリアが呟く。
「この子放り出すとどこ向いて行くかわかんなくて怖いからあたしたちが面倒みなくちゃなんないんじゃないの結局のところっ」
一息に。
サイネリアが、ウェストウィンドが来るまでの間に考えた末、到った結論を述べた。
「まさかハンターズになって自分で探しに行こうとしていたとは、さすがのあたしも思いつかなかったわ」
つまり、セシルの変えられない予定というのはハンターズとしての最終訓練とライセンスの取得試験であったのだ。
「なるほど。じゃあ、わたしたちに依頼を持ちかける前に、ハンターズになるための準備は終わっていたんですか」
それでは、サイネリアが断った最初の理由は無意味になってしまう。セシルは最初から、自ら危険に赴くことも考えていたのだから。
サイネリアがいつも言う通り、現実というのは思うようには出来ていないらしい。良くも悪くも。
「あのね、サイネリアさんっていうの止めてくれる?」
「いえ、でも目上の方を呼び捨てにするというのは如何なものかと。あ、ではサイネリア姉さまというのは……」
「き、却下ーっ!」
君たちは恐らく、同い年なのですが。
ウェストウィンドはその事実をいつ伝えるべきなのかと思案しながら、どっかりとソファへ座りなおした。
ホールに充ちる心地よいハンターズたちの雑音の中で、よくよく考えればこれは保護する対象が二人に増えたことになるのでは、という不吉な考えを振り払いながら、ウェストウィンドはじきに訪れる嵐を待ちかまえるように目を閉じた。
このままここで眠ってみせるのも一興かもしれない。
そんな不埒な考えも浮かんだ時。
「「ウェストウィンド!」さん!」
嵐は、ウェストウィンドが思うよりも遙かに早く、彼を巻き込んだ。
その時、ふと思いついた。
老占い師が言った女難の相。
それは、もしかしてこの状況の事だったのだろうか、と。
END
2002/20/28 了
あとがき
サイネリアがヒルデベアに対してラフォイエを放っているのは、この時点ではまだヒルデベアの有効属性について知らなかったためです。
トップクラスのハンターズならば既に経験上知っている頃でしょう。
ギバータの描写については、どうしようかと悩みました。
とりあえず、強引にソレっぽい記述にしてみましたが、なんだかなぁ、という感じです。ゲームみたいな視覚効果はテクニックの効果の一つに加えるべきだったのかも。
ソウルイーターはともかく、キャリバーは通常、ハードの遺跡あたりで手に入る武器です。ですから、ゲーム的に言うならば二人はベリハの森に突入していることになります。その辺のゲームと物語の整合性は取りようが無いため大目に見ていただきたく思われ。
いくらなんでも、初級レベルのテクニック&ハンドガンで戦うサイネリアと、セイバー1本のウェストウィンドではちと絵にならなかったため、このような形になりました。
もはやPSOには触れてもいない自分がこのような話しを書くのも何かとナニですが、全ては過ぎ去った時間の悪戯、十色氏がプロットを組み立てた頃には、まだガンガンプレイしていたのです。
すみません、嘘つきました。あの時点でもうかなり飽きてました。すみません。
飽きた原因は単調な作業の繰り返しに疲れたのと、薄っぺらすぎる背景世界に面白みを感じられなくなったため、でしょう。最初はフォニュのぽんぽんがゆらゆらしているだけでシアワセだったのですが、んなもの長続きするわけありません。
もう少し厚みと、長く遊ぶための工夫がゲームシステムそのものにあれば、最高のコミュニケーション能力を持つネットワークRPGとして今も一つの牙城を築いていたことでしょう。残念です。
最後に。
こういう機会を与えてくれた十色氏に感謝を。
彼の考えたプロットをひねくり返す日々は思い出しただけでも気が滅入りますが、楽しくもありました。
本当に最後に。
まるで続きそうな終わり方をしていますが、そんな予定は欠片もありません。
悪しからず。
2000/02/28
「百鬼夜翔 水色の髪のチャイカ」をちょこちょこと斜め読みしつつ。