よせばたろう 寄場太郎

 プロローグ

 夜のどこかに隠された あなたの瞳が囁く
 どうか今夜の行き先を 教えておくれと囁く
 私も今、寂しいときだから 教えるのはすぐ出来る
 夜を二人で行くのなら あなたが邪魔者を消して
 あとを私がついてゆく あなたの足跡を消して
 風の音に届かぬ夢を乗せ 夜の中にまぎれこむ
 あなたライオン立て髪ゆらし 吠えるライオンおなかを空かせ
 あなたライオン闇に怯えて 私はとまどうペリカン
 (井上陽水『とまどうペリカン』より)

 そこには闇だけがあった。
 冷たい湿気を含んだ風がかすかに流れているだけの漆黒の世界だ。音もなければ、光も匂いもない。
 その暗闇に男は潜んでいた。
 突如、遥か彼方に一条の光がさした。かと思うと、その光芒は一気に明るさを増し、轟音とともに周辺を明々と照らしだした。強風と金属の擦れ合う猛烈な音が、あたかも何かの爆発のように迫ると、巨大な塊が一瞬のうちに彼の前を通り過ぎた。
 地下鉄である。
 振動と共鳴音を残して電車は凄まじいスピードで遠ざかっていった。後には、再び、静寂が訪れ、暗闇が瞼を閉じた。
 その暗闇にぽっと、仄かな灯が点った。
 男が煙草に火をつけたのだ。マッチの小さな炎に、北野冬夫の焦燥した貌が浮かび上がった。丸坊主頭の頬はこけ、不精髭が伸びていたが、まだ若いことを思わせるように目だけは汚れなく輝き、口元には不遜とも見える不敵な微笑を浮かべていた。が、その表情も一瞬だった。マッチの火が吹き消されると共に冬夫の顔はまたしても、もとの闇の中に溶け込んでいった。光の無い世界に煙草の匂いだけが流れた。

1

 前夜に台風の去った秋晴れの荒川上空を飛ぶヘリコプターのなかで東京地検検事、藤堂正行は“ほかほか”弁当の遅い朝食をぱくついていた。未明の4時に検事正から電話で叩き起こされたのだ。そのまま地検にゆき、協議の結果、待機していた法務省のヘリで急遽、東京拘置所へ飛ぶはめになった。弁当は当直の職員が用意したものだ。
 拘置所周辺のあらゆる幹線道路で検問が敷かれ数十キロに渡る渋滞が起こっているのを眼下に見て藤堂は悪態をついた。成程、これではヘリではければ、拘置所に着くのは夕方になる。
 藤堂が噸馬な刑務所の連中に対する呪いの言葉を呟いていると、勘違いをしたヘリの操縦士が「何?」というように首を傾げてきた。目の前には、翼をひろげた鳩のような形の、東京拘置所の監視塔が迫っている。藤堂は耳をちかずけてきた操縦士に大声で言ってやった。「刑務所にはいったことは?」
 操縦士は白い歯を見せて首を横に振った。
「勿論、入ったことなんて無いですよ」
「コングラチュレイション、ここがそうだよ」
 藤堂が握手を求めると操縦士は肩をすくめてみせた。法務省の職員でこんな冗談を交わす人物は希だ。
 とまどっている操縦士に藤堂は追い討ちをかけた。
「見ろよ」
 二重になっている拘置所の塀の、内塀と外塀との間のかなり広い草地に刑務所長や警察官が集まって、降下地点を探して浮遊しているヘリを見上げていた。
「日本一の間抜けどもだ」
 パイロットは苦笑せざるをえなかった。
 ヘリが着地すると藤堂はローターの風に煽られて降り立った。
 緊張した面持ちの刑務所長が真っ先に手を差し出して藤堂を迎えた。眼鏡をかけた小太りの法務官僚だ。藤堂はその手に弁当の空箱を掴ませた。
 驚いた所長の顔が羞恥で朱に染まった。しかし、藤堂は文句を返す暇を与えなかった。彼はそれ以上にむかついていたのだ。
「当拘置所始って以来の醜態ですな。大臣も憂慮されていますよ」
 それを聞いて怒りで赤くなった刑務所長の顔が今度は青くなった。
 実際、藤堂が地検に駆けつけると、検事正と並んで、法務次官が座って待っていたのだ。これは異例のことだった。数ヵ月後に総選挙が迫っている法務大臣の意向を受けて直々にやってきたのだ。なにしろ日本が世界に誇る模範的、近代的刑務所で、始って以来の脱獄が起きたのだ。しかも、そいつは死刑囚だった。
 そして、その死刑囚の取り調べを担当したのが藤堂だ。
 次官は法務大臣に代わって藤堂に命じた。「どんな犠牲を払っても構わない。捜索の陣頭指揮に立て」と。
 死刑囚といっても北野冬夫は只の死刑囚ではなかった。警官を二人も殺している凶悪犯だ。
「状況を説明していただきましょうか」藤堂は高飛車に出た。
 結局、所長は何一つ弁解の余地を与えられず、つき従ってきた大男の特刑隊長に後をまかせざるをえなかった。
「特警隊長の横田です」所長が紹介した特警隊長の横田は巨体を迷彩服で包み、半長靴を履いた精悍な男だった。
 刑務官というのは刑務所で働くすべての職員を指すが、同じ刑務官でも看守と特警隊とでは役割が全く違うのである。特警隊はいわば刑務所の中の警察官であり、看守とは全く別の組織と権限を持って刑務所内で動いている。一方看守は日常的な業務をもっぱら任されているだけで、特警隊のようにライフル銃の使用許可や射殺の権限は持っていない。あまり、その存在は世間でよく知られていないが「特警隊」といえば、どんな懲役囚の猛者でも震え上がる暴動鎮圧用の屈強な集団だった。横田はその隊長である。
 藤堂が横田を見て印象的だったのは嫌でも目立つ左眼に巻かれた真新しい包帯だった。
「脱獄囚の北野にやられた例の傷です」
 所長が横田に代わって説明した。
 さもありなん、と藤堂は思った。あいつなら、この大男でもやりかねない。常々、藤堂は北野冬夫という男は刑務所なんかじゃなく動物園の檻に入れて厳重に監視しておかなければならないような相手だと考えていたのだ。
「入院したと思ってましたが大丈夫ですか?」藤堂は別に心配したからではなく尋ねてみた。横田は怒ったように答えた。
「それどころではありません。私のせいで奴を逃がしてしまったのですから。48時間以内に奴を掴まえなければ……」
「正確には40時間しか、残されてない」
 にべもなく藤堂に言われて横田も顔を紅潮させた。
 脱獄した囚人の捜査、逮捕権が刑務所にあるのは囚人が脱走してから48時間以内だけである。刑務所内にある特警隊、いわゆる特別警備隊の権限はそこまでで、あとは、警察に任せるしかなかった。
「それでは、急いで状況を説明してもらいましょうか」
 皮肉混じりの口調で藤堂は促した。
「あれです」特警隊長はヘリが舞い降りた草地の、中央にある赤レンガ造りの奇妙な構築物を指差した。縦、横、高さとも2メートルほどのレンガ造りの強固な「箱」。実は、これは東京拘置所が小菅刑務所と呼ばれていた頃の、戦争前からの遺物なのだ。現在ではほとんど使われ無くなったが、いや、戦後使われたことは無かったが「重禁房」と呼ばれる最も過酷な懲罰房の檻なのである。拘置所建て直しの際、法務当局が史跡として残した物だった。今回はこれが仇になったのだ。
 藤堂は「箱」を子細に検証した。
 中は、二重構造になっていて外檻にも中檻にも窓はない。ただ、空気を取り入れる為に僅かな隙間があって、そこには地下から生えたように鉄格子が嵌められていた。しかい、今、その鉄格子は内壁外壁の空気取り入れ口の両方とも折られていた。地下深く埋め込まれた筈の鉄棒がぼろぼろに腐食している。
 藤堂は鉄格子の折断面に指を伸ばし、錆びた鉄片を摘みあげた。
 鉄棒はパイのように脆くなっていた。外見はなんでもないようだが、強い力を加えると簡単に潰れるのだ。
「これは?」怪訝な面持ちで藤堂は横田を振り返った。
「塩です。北野が腐食させたんです」落胆した声で特警隊長が説明した。
「あの男はここに入所した日から模範囚として通してきました。地裁で死刑判決が出る3年の間です。我々はすっかり奴に騙されて、模範囚として許される請願作業を許可したのです。奴は庭の掃除や庁舎の簡単な修理などの外役作業を希望し、当方もそれを許可しました。まさか、こんな計画を練っているなどと思いもよりませんでしたからね」
「なるほど、北野は庭掃除をしながら看守の眼を盗んではせっせとこの鉄格子に塩を振り撒いていたのだ」
「正確には味噌汁を乾燥させた粉のようなものです」
 2年も3年も塩分を擦り込まれては腐食するのも無理はない。藤堂は内檻の扉を開けさせた。
 真っ暗闇である。誰かがライトを照らした。身を屈めなければ中を覗くことは出来ない。つまり、この「重禁房」の特徴は一種の棺桶だというところにある。それほど狭い。おそらく、頭を上げることも手を伸ばすことも出来ない。昭和初期の刑務所の懲罰では樽の中に規律を犯した囚人を詰め込んで蓋をしたらしい。樽の中にしゃがみこんだまま頭に蓋をされ何日も放置された囚人は、3日もすると発狂したという。それを応用したのがこの「重禁房」だろう。しかし、あまりに人権無視だと言うので戦後には使用を禁止されている筈だった。
「どうして北野をここに?」藤堂は険しい表情で刑務所長等を見回した。
「結果的には奴の罠にまんまと嵌ってしまった訳です」横田は忸怩たる表情で弁解するしかなかった。
「奴がそれまでの模範囚という殻を脱いで、手のひらを返したように狂暴ぶりを発揮しだしたのは、やはり死刑判決が出てからのことです。死刑判決が出るともう、外役作業は許されませんが、貴奴の当初の目的はすでに達していたわけです。で、奴は次の行動に出たんだと思います。入浴時に、拘置中の暴力団幹部に喧嘩を売ったわけです。相手の男は鼻をへし折られ、北野は重罰房に入れられました」
「いきなり重罰房へ?」
「奴が特警隊員に歯向かって怪我人が出ましたので」
 横田は弁解がましくいった。
 藤堂は司法修習生のときに刑務所を見学して、重罰房がどんなものか知っている。拘束具をつけられたまま裸で放り込まれ、大小便は垂れ流しで、一日一食の飯も縛られたまま犬のように口で食う。犬小屋以下の檻だ。普通、最初は、懲罰房に入れられるものだ。懲罰房なら普通の独房と変わらない。ただラジオや読書などの自由が利かないだけだ。
「北野は重罰房に何日入っていたのです?」
 横田は渋々答えた。
「七日です」
「三日以上の重罰房の拘禁は刑務所の法規に反するでしょう」
 藤堂は掃き捨てるように言った。それでなくとも、三日もすると拘禁者は自分で立てなくなるほど弱ってしまう。それが七日とは、ほとんどリンチに等しい。
「医者には診せましたか?」
 横田は頷いた。「規則ですので」
「何と言ってました?」
「これ以上の重罰房での拘禁は無理だと」
「その眼をやられたのは彼を懲罰房に移してからのことですね」
 横田は頷いた。「移して直ぐです。まさかこんな事をする余力が残っているとは思いもよりませんでした」
 北野は使用禁止の重罰房に己を入れるように仕向けるため、思いもよらない方法で特警隊長の横田を襲ったのだった。

2

 陶製の便器を止めているモルタルの地肌で、手間をかけて木製の箸を擦ると、箸の先は錐のように尖った。
 懲罰房棟の看守はゴム靴を履いていて音もなく様子を見にやってくるので、その作業は慎重にも慎重を期した。見付かれば計画は全てアウトだ。懲罰用の独房にはハガキ大の大きさの覗き窓が付いているが、中から外を伺うことは出来ない。なぜなら視察口には外からしか開閉出来ない蓋がついているからだ。だから、北野冬夫は何度も作業を中断して、扉に耳を押しあて、かすかな音も見逃さないように耳を澄ましてから再び作業にかかうという動作を繰り返した。
 それにしても、と冬夫は考えた。昼食の食器を回収にきた外役作業夫は何故、冬夫がわざと箸を一本出さなかったことを知っていて見逃したのだろう? 奴も無期か死刑かという重罪犯だ。このことが、いずれバレたとき外役作業夫という特権は剥奪されるのは眼に見えている。それどころか、裁判にも影響するだろうに。同じ境遇であくまでもつっぱっている俺への同情からか? 共感からか? いずれにせよ、この計画はあまりにも偶然や幸運に頼りすぎていた。これからの行動も、一種の博打ちだ。
 すでに凶器は完成していた。次の見廻り当番の看守が誰であれ、そいつは運が悪かったと神に不平をこぼして貰うしかなかろう。冬夫は尖った箸の先を指で確認しながら一人微笑した。
 覗き窓、つまり刑務所でいう視察口には蓋があるだけでなく、そこから外部と物のやり取りができないように無数に小さな穴の開いた鉄板が嵌められている。看守はだからその穴を通して独房内を見るのだ。従って、看守は鉄板にくっつけるように眼を近ずけなければならない。それが冬夫の思う壺だった。
 冬夫は先を尖らせた箸を構えて、扉の壁に張り付き、看守が見回りに来るのを待っていた。
 冬夫の眼の前の壁に、前に入った奴が釘で引っ掻いたような落書が残っていた。
 <みんな死ね>
 まさにその通り。懲罰房にほり込まれた囚人の偽らざる気持ちだ。すべての奴等に復讐してやりたい。その一念に凝縮された、気の遠くなるほど遠大な脱獄計画の最終章が今、切って落とされようとしている。勿論、これで終わりではない。復讐の始まりに過ぎない。
 運動靴がリノリュウムの床を滑る音が聞こえてきた。冬夫は息を呑んだ。視察口の蓋を開閉する音も聞こえ、その音は段々冬夫の方へちかずいて来る。丁と出るか、半と出るか、博打ちの勝負の瞬間だ。
 懲罰房の点検をしていたのは担当看守では無かった。たまたま特警隊長の横田が北野冬夫の様子を見る序でに各房を視察していたのだった。
 横田が冬夫の独房の視察口を開いたとき、その奥に北野の姿はみえなかった。
 冬夫は扉の脇の壁に添って張り付いていたのだ。
「!」横田は驚いて更に眼を視察口に押し付けた。その瞬間、鉄板に開けられた穴を通して、先の尖った箸が突き付けられた。横田が俊敏な反射神経の持ち主でなければ、失明ぐらいでは済まなかっただろう。それでも、この大男の絶叫が懲罰房棟の全館に響き渡るには充分な一撃だった。
 冬夫の計算ではこの一部始終は特警隊の監視カメラで目撃されているはずだった。すぐに連中は血相を変えてやってくるだろう。しかし、彼を袋叩きにするわけには行かない。何故なら明日、裁判所の呼び出しがあるからだ。そのために奴等は冬夫を重罰房から出して普通の懲罰房に移したのだから。裁判所の呼び出しが無ければ冬夫はそのまま重罰房に放置され特警隊によって殺されていただろう。生まれつきの孤児である冬夫が死んだところで、誰も抗議する者もいないし、病死として事務的に処理されるだけなのだ。
 特警隊は思ったよりも早くやってきた。
 すぐには鉄扉は開かれなかった。扉の外の廊下で罵声や怒声が飛び交い、それに混じって呻き声が聞こえた。
 暫くすると、急に表が静かになった。そして、錠前を外す音がしたかとおもうと扉はゆっくりと開いた。覚悟を決めて独居の中央に胡坐をかいて座っている冬夫の眼の前に、ライフル銃を構えた特警隊員たちの姿が映った。真ん中に、眼から血を流して横たわっている特警隊長の横田の顔があった。苦悶の表情で、怒りを露わにした隊長はそれでも最後の理性を振り絞るように言った。
「手を出しちゃいかん。重禁房だ。重禁房に放り込んどけ。もう、こいつを繋いでおく檻はあそこしかない」
 北野を重罰房から出したとき刑務所の嘱託医師はこれ以上の重罰房での拘禁を権限で禁止にしていたのだ。
 横田からその言葉を聞いたとき冬夫は歓喜の表情を悟られないために、生まれてはじめての強烈な自制心を動員した。そのため彼は自分の太腿を血の出るほど捻り、苦渋の表情を作った。

3

 藤堂達は会議室に入った。
 日当たりの良い、清潔な会議室だ。黒板には畳三畳ほどの大きさの巨大な拘置所周辺図が貼られていた。
 葛飾警察署の刑事課長が説明に当たった。
「死刑囚北野冬夫は、外役作業をしていたころ、看守の目を盗んで隠しておいたロープを使って歩哨の立たない外壁をよじ登り逃走しました。脱獄を発見したのは深夜午前1時27分。巡回中の特警隊員です。逃走したのはおそらく発見の1時間以上も前でしょう」
 刑務所内塀の中ならば監視のための電子装置もあるし、塀の四隅には警戒要員が24時間詰めている。だが、重禁房はいわゆる懲役棟の外にあった。拘置所側は北野に一瞬の隙を突かれたのだ。
「この地図はこの拘置所を起点として、歩いて逃走したことを想定した経過時間ごとの潜伏推定地域を赤線の同心円で、万が一、車やバイクを手にいれていた場合のそれを黄色の同心円で描いています」
 実直そうな刑事課長は説明を続けた。
「私共は、この円内を細かく仕切り、各区域に専従班を組織して徹底的な捜索を行っております。今のところ、この周辺で車両を盗まれたという訴えはありませんし、検問にも引っ掛かっていませんので、脱獄囚はたぶん徒歩で逃走中。この赤の円内に潜んでいるものと思われます」
「すると、囚人の逮捕は時間の問題というわけですな」
 刑務所長が藤堂を意識して尋ねた。
「おっしゃる通り。こんな場合によく使われる言葉が有りますね。蟻の這い出る隙間も無い、捜査体制です」
 関係者の間から笑いが起こった。
「川はどうなんです」
 特警隊長の横田が質問を発した。同席者の不意を打つ質問だった。なかなか良いぞ、と藤堂は大男を見直した。この男、が体がでかいだけじゃなくて知恵もある。
東京拘置所のすぐ前を荒川が流れている。埼玉の山奥から発して東京湾にそそぐ大河だ。この川を利用したのでは、と八田は言うのだ。
 皆が不安そうに刑事課長の方を見た。
「その点は心配ありません」課長は自信満々だった。「ご承知のように昨夜は探索ヘリも飛ばせないほどの暴風雨でした。台風23号です。荒川は大荒れに荒れていまして、もしも、脱獄囚が川を下るようなことをしたとすれば急流に押し流されて虫の息でしょう。聞いたところによれば利口な男らしいですから、そんな無謀なことはしない筈です」
「船やボートの盗難届けは?」
 横田は食い下がった。
「ありませんな。こちらでも船舶の所有者全てに問い合わせしましたが、逆に笑われました。数秒もしないうちに転覆してしまうと」
「すると、北野はこの円内にいうわけですな」
 ほっとしたように刑務所長がいった。
「先にも申し上げました通り、時間の問題と思います」
 刑事課長が言い切った。「そのうち腹でも空かして出てくるでしょう」
 何かおかしいと藤堂は思った。「川」が引っ掛かっているのだ。
「昨夜、ほかに何か変わった事は?」
「と申しますと?」
「あなたの管内で起こったどんな小さなことでも構わない。何か事件や盗難届けや苦情は無かったのですか?」
 刑事課長は大儀そうに書類の束を紐解いた。各交番所からの警ら報告書だ。酔っ払いの喧嘩や近所の騒音等がほとんどといってよい。
「昨夜は台風で呑み屋なんかも早く終いましてね、事件らしい事件、苦情らしい苦情は珍しく一件も無かったようですがね」
 藤堂は落胆した。あの男がこの大捜査網を断ち切るには川を利用するしかないと考えたのだが。
 そのとき、課長が言った。
「ちょっと待って下さい、今朝になってこんな訴えが高校生から近所の交番に出されています」
 刑事課長の顔は心なしか青ざめていた。
「昨夜、二階の物干しに置き忘れたサーフボードを誰かに盗まれた、と」
 特警隊長の横田が舌打ちをした。
 藤堂の体にも電流が走った。サーフボードだ。新聞で見たことがある。サーファーが荒波で転覆した船の乗員を助けることがよくある。つまりサーフボードは荒波に強いのだ。波の斜面を利用して重心移動だけでボードを操る。単純な、原始的ともいえるボードだがそれだけに転覆も有り得ない。もしも北野がサーフボード盗んだ張本人だとすれば、奴は昨夜の内に東京湾に流れついている!
「いくぞ」大声を発して特警隊長の横田が席を立った。後に屈強な部下が続く。
「こ、これは一体」刑務所長が呆けたような声を出した。
「茶番ですな」藤堂も席を立った。
 横田が開いた会議室のドアから、事態の急展開を知った新聞記者がなだれ込んできた。
 会議室は騒然となった。

4

 夜が更けて地下鉄が停まると地下構内の保線作業が始るので、北野冬夫は、その時間帯、地下鉄の通風口から外へ出ることにした。勿論、大事な「仕事」もあった。通風口は繁華街のど真ん中にあったり、ひっそりと静まり返ったオフイス街のビルの裏にあったりする。彼は細心の注意を払い、用心深く、適当な通風口を探してまわった。
 都会をうごめく人間で一番目立たないのは制服を着た者である。割烹着を着た出前の蕎麦屋。警察官。郵便配達夫。作業服の土工。誰も注意を払わない。目立つようでいて、制服を着た人間は一番疑われない存在なのだ。冬夫はすでに保線工の作業服を一揃い彼等の休憩所からくすねてきていた。廃棄処分になるような古い作業着なので騒ぎになる心配はなかった。地下通風口の出入りの際はそれを着る。だからといって出入りを見つかっていいわけではなかった。最も安全なのは東京湾岸に広がる荒涼とした草原地帯からの出入りだった。
 夢ノ島から南へ続く埋め立て地帯の下に、地下鉄銀座線終点の新木場駅から伸びる無数のターミナルがある。ここは、誰も寄り付かない巨大な暗渠になっていて、鼠が群生するゴースト・ターミナルだ。嵐の夜、拘置所を脱獄した冬夫はサーフボードで荒川を下り、東京湾へ出て、ここから地下構内に入ったのだ。
 だが、出入りが安全といってそこから目的地へ行くには厳重な捜査体制の敷かれているだろう都内をうろつくことになるので、かえって危険だった。彼のめざす相手は新宿にいる。幸い、銀座線は都内をほぼカバーしていた。新宿の真下も走っている。
 冬夫は新宿紀ノ国屋書店の前にあう大きな通風口から出ることにした。東京で一番賑やかな場所、最も人通りの多い通りともいえるが、かえって人目に付きにくいと踏んだのだ。深夜でもあちこちで道路工事や電話工事、ガス・水道管の埋設工事が行われている。万が一、出るところを見られても、酔客の目には一人の工事夫としか映るまい。記憶の端にも残らないだろう。
 地下鉄軌道の側道を歩いていくと、目当ての通風口の目印があった。そこには小さなランプが灯り、鉄棒を曲げて壁に埋めただけの簡単な梯子が上に向かって続いている。
 梯子を昇り詰めると網目の鉄枠がある。一種のフイルターの役割をしているのだろう。その鉄枠を開いて上に登ると狭い踊り場があり、上を見上げるとアルミ合金の格子蓋があった。地上からは鍵がなければ開閉出来ないが、中からは簡単に鍵を外せた。この通風口は信号機などの電源が集まっているキューピクルの陰になっているのでタイミングさえよければ誰にも見咎められずに出れるはずだった。冬夫は地上の状況は分からないが、夜零時過ぎの紀ノ国屋周辺の状態は熟知していた。自分の快楽にしか興味も意識もない貪欲な酔っ払いたちが痴呆のように彷徨っていてくれることを祈るばかりだ。万一、パトロールの警官と鉢合わせるなんて事になれば面倒だが、その確率は少なかった。いずれにせよ、今まで通り運を天に任せるしかない。
 冬夫は通風口のフエンスを数秒で擦り抜けて地上に出た。誰とも視線を合わせないようにし、ゆっくりとその場を立ち去る。ヘルメットを被り、作業服に長靴姿の冬夫はいかにも仕事中のような歩き方を意識した。どこかに停めてある車もしくは現場に急ぐ足取り。しかし、いつまでもこの服装ではいずれ目に付く。盛り場を自由にうろつくには別の制服が必要だった。すでに冬夫にはその宛てはあった。なにしろ十年以上も住み慣れた街だったのだ。

5

 霞ヶ浦の地検庁舎の窓からネオンの点った東京の夜景を眺めていた藤堂は腕時計に目をやった。
 午前零時。
 あと数時間で、東京拘置所から死刑囚が逃走してから24時間になろうとしている。行方はようとして知れない。
 今日一日中、テレビ、夕刊紙はその話題で持ち切だった。どこへ消えたのか死刑囚? とクイズ調で、識者とかいう輩をスタジオに呼んで素人探偵を気取る番組もあれば、刑務所の怠慢を槍玉に挙げて法務省を攻撃する新聞もあった。そういった報道が続く中、藤堂は一日中、警察、刑務所、法務省、裁判所からの関係者との折衝に追われた。夕刻まで、今回の問題をゆっくり考える暇もなかった。
 紙コップに入った冷めたコーヒーを飲み干すと藤堂はもう一度、死刑囚脱獄犯、北野冬 夫のファイルを開いた。
 北野冬夫。28才。数奇な運命の持ち主だ。
 名前も、年齢も、生年月日も実は定かではない。名前は冬夫が育った孤児院の園長が付けたものだ。ある雪の降る日に、京都の北野天満宮の境内に捨てられていたのを、住職がみつけて施設に入れたので、北野冬夫という名前がついたという。
 この生涯孤独の男は中学を卒業すると、集団就職で東京へ出た。
 初めは新宿駅前の果物屋に勤めていたが長続きせず、その後職を転々と変わっている。ラーメン屋の出前、キャバレーのボーイ、寿司職人見習い、新聞配達、土工。
 警察の調書によれば土工が一番長く、地下鉄工事などの土木作業に従事してきている。最後には「山谷」と呼ばれるスラム・ドヤ街に住みつき、日雇いをしていたらしい。
 そこで、今回の事件を起こした。
 大胆にも白昼、銀行を襲ったのだ。しかも、その前夜に交番を襲い、たった一人で番をしていた巡査からピストルを奪っている。
 翌日、その拳銃で三軒茶屋の住友銀行に押し入り、5千万をバッグに入れさせて守備よく逃走しようとしていたところを運悪く巡回中の警官にみつかり銃撃戦になった。
 強盗現場を発見した警官二人は撃ち合いで殉職、北野は銃弾が切れて、応援の警官隊に逮捕された。
 藤堂は取調べのとき聞いてみたことがある。「死んだ警察官に対して今どう思っている?」
 北野は平然と答えた。「それが仕事だからしょうがないでしょう」
 あとは完全黙秘を通した。
冷酷非道な殺人鬼というイメージしか藤堂には北野に抱いてなかった。しかし、奴のこれからの行動を予見するためには奴の気持、立場に立って考えてみる必要がある。そうしてみると、藤堂は北野をあまりにも一面的にしか捕えてなかったことに気付いた。殺人鬼という断定的な偏見と固定観念で奴を見すぎていたのではないか。北野の心の中には殺人という狂気にまで走らせる程の、自分の境遇、宿命にたいする熱い思いがあったのではなかろうか?
 いずれにせよ、社会的には最早、死んだも同然の存在に違いはない。脱獄をして奴は何をしたいのか? 何が狙いなのか? 誰でも死にたくない。しかしそれだけの理由でこんな脱獄をしたのだろうか? 他に何かがある。金か? 女か? 復讐か? 
 藤堂は拘置所に電話をかけた。
 天涯孤独で、友人もいなかった北野に誰か面会者があったかどうか調べてもらうためだ。
 奴は両親も、家族も、親戚も、家も、財産も、地位も、仕事も、学歴も無かった。名前すら自分の親のものでない。しかい、奴にも彼女くあい出来た筈だ。若い恋人は相手の人間性しか見ない。名無しの権兵衛でもなんでも、彼女ぐらいあったのではないか。 拘置所の係官は答えた。
 一度だけですね、南恵美という女性が面会に来ています。
「それはいつ頃のことですか」
 一昨年の2月ですね。北野が入所して間もない頃です。
「一度だけですか」
 ええ。
「手紙か何かは?」
 ちょっと待って下さい。弁護士からのものが27通。ええ、ありました、南恵美という女性から1通来ております。
 藤堂は面会申請書の写しと、その手紙のコピーを大至急ファックスで送るように係官に頼んで電話を切った。
 俺は何という頓馬だろうと思った。こんな簡単なことにどうして気ずかなかったのか。南恵美。一体何者なのか。いずれにせよ奴を探し出すひとつの手掛かりにはなりそうだ。

6

 冬夫は自転車に乗り、ソバ屋の白衣を着ていた。以前働いていた大手のラーメンチェーンの新宿の寮からくすねてきたものだ。自転車は裏通りのソバ屋の軒先に鍵もかけずに置いてあった配達用のものを拝借した。御丁寧に出前箱もあった。出前箱を持って走る冬夫はどこからみてもソバ屋の店員だ。ただし箱の中には保線工の作業服が入っている。
 新宿歌舞伎町という街は深夜に出前の店員がうろついていても少しも不思議ではない。
 冬夫は新大久保のホテル街を抜けて閑静な住宅街に入った。大久保通りに出る手前に古いが大きなマンションがある。豪奢なマンションだが二〇年以上も経っているので今流行りのセキュリテイ・システムは無い。冬夫は駐車場に自転車を停めて中に入った。マンションの管理人室は閉まっていた。エレベーターに乗り5階を押す。
 エレベーターが開くと廊下を中にして左右に部屋が並んでいた。
 夜の一時。
 冬夫は507号室の前で歩みを止めた。表札は掛かってない。中の様子を伺ったがなんの物音も漏れてこない。静かだ。古い建物だが防音仕様は完璧らしい。冬夫はうす笑いを漏らし、インターホンのボタンを押した。
 何の返答もない。しつこく何度も押すと不機嫌な女の声が聞こえた。
「なんなのよ、あんた」
「金龍軒です。出前をお持ちしました」
「そんなもの頼んでないわよ」
「えっ? でも、507号でしょう。藤崎さんではないのですか」
「ちょっと待って」
 誰かと相談したのだろうか、暫くして女がいった。
「藤崎は頼んでないそうよ」
「でも、お電話を頂いたんですがね」
「うるさいわねえ」
 女が金切り声を上げたとき、急にドアが開いた。「小僧、入れ」
 両肩に入れ墨を入れた男がパンツ一枚で立っていた。40前の男だ。筋肉質で痩せている。髪はパンチパーマにし、細面の顔に髭を蓄えていた。女は下着一枚で男の後ろに立ち、不意の出前人を不快そうに睨み付けている。
「俺はここでは藤崎という名は使ってねえ。いったい誰に聞いたんだ」
 男は凄みのある声を出した。
「あ、いえ、もういいですよ。帰ります」
 入れ墨におそれをなしたという風に冬夫は演じてみせた。
「ちょっと待て」
 藤崎は冬夫の腕を掴んで引き入れ、ドアを閉めた。その瞬間、冬夫は相手の脛を蹴り上げていた。生木のへし折れる鈍い音と共に藤崎の呻き声が忍び出た。冬夫の渾身の一撃で脛骨が折れたのだ。苦痛に顔を歪めた藤崎はその場に崩おれた。男が患部を庇うようにしている骨の砕けた方の脚に用はなかった。冬夫はもう一方の脛の同じ箇所を蹴りつけた。今度こそは藤崎の口から絶叫が響いた。これで藤崎は二度と立つことが出来ない。事態をようやく察した女も悲鳴を上げるが防音装置様々だ。外に洩れる気ずかいは無かった。冬夫は迅速に行動した。
 扉の内鍵を閉め、奥に逃げようとした女の鳩尾に正拳を叩き付けた。女は締められたニワトリのようにぐったりなって気絶した。ドアの前で藤崎は涙を流して痛がっていた。逃げようにも立つことすら出来ない。冬夫は藤崎の脚を掴んで奥の部屋に引っ張っていった。これが又、激痛を呼び、男に悲鳴を上げさせた。
「てめえ、これはなんの真似なんだよ」
 居間のソファーの前に横たえられた藤崎は精一杯の虚勢を張っている。
 冬夫はキッチンから肉切り包丁を持ってきた。
「時間を無駄にしたくない。出しなよ」
「何をだ」
「チャカだよ。お前が工藤会の相談役で、チャカの売人だって事はわかってるんだ」
 藤崎は空笑いをした。
「そこまで分かってるんなら、ブツをこんなところに置いておく馬鹿じゃないことも分かるだろ。ここにはそんなもなあねえよ」
「お前、拳銃マニアらしいじゃないか。随分性能のいい銃を収集しているらしいな。ええ? ブローニングなんかもあうんだろう」
「バカヤロウ、とっと帰れ。どこの半グレか知らねえが、このまま帰ったら今日の事は大目に見てやる」
 藤崎の啖火を聞いて冬夫は笑いだした。
「いいか、さっきもいったとおり、俺には時間が無いんだ。銃を出さなきゃ、今からお前の指を一センチ刻みで切る。これは脅しでも、何でもない。本気だ」
 藤崎は唾を飲んだ。冬夫の眼を見てぞっとした。その言葉のおぞましさに比して、何の感情も無い。
「一体、あんた、誰なんだ」
「今日はテレビを見なかったのか」
 藤崎の顔が恐怖で凍り付いた。「お前は……」
「分かったら早く出せ」
 藤崎は頷いた。「冷蔵庫の下だ。ビニール袋に包んで底に張り付けてある」
「おまえさんにしちゃあ、随分不用心な隠し場所じゃないか」
「家宅捜索の時に直ぐに取り出して処分するためだ」
「なるほど」キッチンは居間の向こう、ホームバーの奥にあった。
 藤崎の言った通り大型冷蔵庫の下から7・62ミリ口径のトカレフが出てきた。トカレフはアメリカの名銃コルト45ガバメントのコピーだ。日本に入ってくる密輸品のほとんどは中国製で、いずれにせよ冬夫にしてみれば金を貰っても欲しくないガラクタだった。冬夫はそれを元のところに返し、冷蔵庫からハムを取って頬張りながら居間に戻った。
「あんなジャンク品を俺に掴まそうってのか……」
 見ると、藤崎は銃を構えていた。ソファーの隙間からどこかに隠していたものらしい。やはりトカレフだ。
 勝ち誇ったように藤崎が言った。
「お前の事を思い出したぜ。南土建の飯場にいた土方じゃねえか」
「ああ、そうだ。おまえらの組に潰された南土建のもと土工だよ」
「その人足がとぼけたことをしてくれたな。一体何が狙いなんだ。仕返しか?」
「まあ、そんなところだ」
「馬鹿をぬかせ。工藤会といえば関東一の広域組織だぞ。てめえのような人足風情の出る幕じゃねえ」
「工藤会といったって、お前らの会長は腹の出た、太った只のブタじゃないか」
 冬夫は落ち着いていた。
 藤崎は笑みを漏らした。「会長を殺う積もいだったのか。良い度胸だ。しかしてめえの漫画チックな妄想もこれまでだぜ」
 冬夫は平然といった。「撃ってみろよ」
「何?」
「おまえさん、銃の蒐集癖があるそうだが銃を撃ったことはあるのか?」
「なめるなよ!」藤崎は腕を伸ばして狙いを付けた。
「まあ聞け。俺がどうしてトカレフなんか貰っても迷惑なことだと言ったか分かるか。そのピストルには安全装置が無い。その上、命中精度は最低だ。とくに、そんなふうに不自然な姿勢で片手で撃とうとしても当たる筈はない。何故なら」
「うるせえ!」
 バーンと弾ける音がした。しかし冬夫は顔色も変えずに立っていた。藤崎の撃った拳銃の弾は冬夫の耳の脇を20センチ程も掠めてどこかへ反射したらしい。もともとトカレフは射撃用というより、ヤクザにとって威嚇の意味しかない。殺傷力はあるがナイフでも届く至近距離でのことだ。だから冬夫は、拳銃を認めるとわざとキッチンの入り口で立ち止まって、藤崎から距離を取ったのだ。
「トカレフは手袋を常用する寒い国で生まれたせいで銃床が小さい。グリップが甘いとプロだって着弾が荒れるんだ」
 藤崎の顔には驚愕の表情が浮かんでいた。
「どうしたんだ、手が震えてるじゃないか。そんな事では、次に自分の膝を撃つのが関の山だぜ」
 恐怖に駆られた藤崎はトカレフを連続発射した。パパパーンという連続音がこだました。
 冬夫は床に身を伏せている。
 呻き声が硝煙の匂いのなかに漏れていた。冬夫の投げた肉切り包丁が藤崎の胸に刺さっていた。のみならず、藤崎は冬夫の予言通り己の腿を撃ち抜いている。
「だから言ったろう」
 口と腿から鮮血を流して、虫の息になっている藤崎の手からトカレフを奪うと冬夫はその耳に囁いた。「こういうのを自業自得というんだ」
 藤崎は恐怖に引きつった目で冬夫を見、何かを訴えようとしている。しかし、声にならない。
「医者か?」
 藤崎は頷いた。
「それなら、まともな銃の隠し場所を言え。そうすれば救急車を呼んでやろう」
 藤崎は冬夫の目を覗き込んできた。
「男の約束だ」
 とうとう瀕死の重傷の男はビデオデッキを指差した。
「デッキの中か?」藤崎は頷く。
 デッキの上蓋を外すと、テープ挿入口の空間に潜ませたビニール袋入りの拳銃が出てきた。急いで中を確かめる。
 冬夫は息をのんだ。グロック17だ。弾の入った予備のマガジンもある。
 グロック17。まさか、こんな男が隠し持っているとは夢にも想像していなかった。これは銃というよりも兵器だ。口径9ミリ。装弾数17発。多くの素材がポリマーで作られており、水に強く錆びない。日本の海上保安庁がこの銃を正式採用しているのはその為だ。強度、安全性、取扱いの安易さ、保守の点でも世界最強の銃といえる。
 満足した冬夫は藤崎のところへいくと右肺に刺さっている肉切り包丁の柄を握って語りかけた。
「残念ながら救急車は出払ってるそうだ。代わっておれが楽にしてやる」そういって肉切り包丁を引き抜いた。鮮血が迸り、冬夫はたっぷり返り血を浴びた。藤崎はそのまま絶命した。

7

 いつの間にか眠っていた藤堂は、電話のベルで目を覚ました。
 時計を見ると午前4時過ぎだ。
「はい、藤堂です」
 警視庁からだった。殺人事件が起こり、どうやらそれは、脱獄囚北野の犯行らしいという衝撃的な報告だった。
「それで、現場に居合わせた女は?」
 保護してます。北野の写真を見せましたが奴に間違いないそうです。これは酷いことになったと思った。どうやら刑務所長の首が跳ぶぐらいでは済まされない雲行きだ。
「ところで、南恵美という女については何か分かりましたか?」
 驚かないで下さいよ。南恵美は工藤会の会長、工藤力男の情婦です。
「工藤会といえば今夜の殺しの被害者は工藤会の幹部ですな」
 そうです。
「工藤会と北野の繋がりは?」
 北野が南土建という土木工事会社にいた事はご存知ですな。南土建は工藤らの罠にはまって乗っとられたんです。
「なるほど、そうだったのか。わかりました」
 藤堂は電話を切った。
 FAXには、拘置所に請求した書類が届いていた。
 北野に面会に来た、唯一の女性、南恵美は、申請書を見るとやはり住所は北野が働いていた飯場、南土建になっていた。恵美は南土建の経営者の一人娘だ。24才。職業は家事手伝いになっている。面会人との間柄は友人。
 北野が事件を起こす前に南土建は高利負債がもとで工藤会に乗っ取られている。
 北野は行き場を失くして自棄になり、今回の事件を起こしたとされているが、ひょっとすると、奴は、南土建の負債をその金で支払う積もりだったのではないか? 北野は完黙を通し、動機については何も喋ってないが、それは南土建に迷惑をかけたくないからだろう。
 警視庁の調べでは、南土建の社長は会社を乗っ取られた後に自殺している。北野が拘置所に収監されて間もなくだ。そして、南恵美が北野に面会に来た。一度だけ。
 藤堂は溜め息をついた。どうして俺は後手後手なんだろう。
 南恵美から北野に宛てた手紙のコピーを机の上に広げた。便箋2枚だ。綺麗な字で丁寧に書いている。

 前略
 貴方が、この様な事件を起こしたことが未だに信じられません。多分何かの間違いだと思い、直ぐに釈放されることを祈っていました。でも、あなたは罪を認めたそうですね。どうしてこんなことになったのか、私自身混乱しています。父が高利の金融に手を出して、会社を駄目にしてしまったことも関係がないわけではないと思い、あなたに済まなく思っています。でも、飯場を飛び出してからどこをどうしていたのですか? 連絡も下さらないし、父はいつも貴方のことを気にかけていました。
 貴方が私共の飯場に入って3日目のことですよね。夜勤の地下鉄工事中に地上に出していたアセチレンのボンベのゴムホースに溶接の火が引火し、ボンベからは30メートル以上の火柱が立って大騒ぎになりました。丁度現場は銀座の繁華街の真ん中で通行人を避難させるやら、爆発予防のために遠くから水を掛けるやら、とにかく被害を恐れて誰も燃え盛るボンベにはちかずけませんでした。
 ところが、あなたは、何の躊躇もせずにボンベに近ずくと、いとも簡単にバルブを閉めてしまった。火は嘘のようにかき消されたそうです。後で聞いたところによればボンベは相当の圧力に耐えられるように出来ていて爆発の心配はなかったそうですが、貴方のおかげで父は元請け会社の現場所長から礼を言われ、鼻が高かったそうです。それが縁で、父のところにどんどん仕事が来るようになったのです。あなたは父の自慢でした。仕事が度胸のある奴だと褒めていました。父は貴方のことを本当の家族のように思っていたのですよ。それなのに。
 このようなことになるのなら、一言、声をかけて下されば私達にも何か出来たのにと悔やんでいます。
 その父も今はもうおりません。亡くなりました。工藤会の取立てが未だに厳しく、気に悩んで自ら命を絶ちました。私は今では貴方と同じく孤児です。こんなときに貴方が側にいてくれたらどんなに嬉しかったでしょう。
 でも、貴方はこれから私よりももっと大変ですよね。少しでも早くそこから出られることを心から祈っています。
その日まで、どうかくれぐれもお体を大切にして下さいね。近いうちに面会に伺わせて頂きます。
 早々

 藤堂は思案を巡らせた。南恵美は北野に惚れている。
 北野は南恵美が工藤の女になったことを知って脱獄を計画したのではないか。拘置所に居ればそうゆう世界の情報は幾らでも入ってくる。天涯孤独の男にたった一人、情をかけてくれた女。その女が己を破滅させる原因の一端を作った極道者に手ごめにされたとあっては、死んでも死にきれまい。
 すでに警察は工藤会々長、工藤力男の自宅周辺へ、秘密裏に捜査員を緊急配備している。
 また、北野が仲間の幹部を殺したことをニュースで知った工藤会も血眼で北野を追うだろ。拘置所の特警隊も奴を追っている。これだけの狩人の眼を逃れて、北野は一体今どこにいるのだろうか? 
 藤堂は夜のしじまに眼を転じた。ネオンもほとんどが電源を切り、幹線道路のあかりだけがその存在を示しているだけだ。北野が逃亡して28時間目の朝がもうじき明けようとしていた。

8

 新宿歌舞伎町のど真ん中にある24時間営業の喫茶店で東京拘置所特警隊長の横田実は着いたばかりの朝刊をテーブルに広げて、モーニング・コーヒーのまずい食パンを一人でぱくついていた。
 新聞には一面トップで脱獄囚北野の犯行が載っていた。凄惨な殺人現場の写真。被害者の情婦のコメント。犯行を防げなかった警察の捜査、検問体制への非難。また厳重な警戒網を潜り抜けてやすやすと犯行を重ねる脱獄囚への謎めいた疑問。
 横田は一睡もしていなかった。責任感の強い男である。今回の事件の責任は全て自分に在ると考えていた。その思いが頭の中心に絶えず在り、どうしても自らの手で北野を捕まえたいと、眼の痛みも忘れて都内を歩き回った。十数名の部下はすべて都内要所に分散して捜索、情報収集に当たらせていた。しかし、何の成果も得られなかったばかりか、むざむざと新たな犯行を許してしまった。
 昨夜もほとんど寝ていないので、横田の体力はほとんど限界にきていた。北野に刺された左の眼も疼きはじめている。
 それにしても、どうして奴は易々と、この盛り場の近くに出没出来たのか? 勿論、ここほど目立たない所はない。しかし、どうしてここへ来れたのか? JR、私鉄、地下鉄の各駅には大量動員された捜査員の眼が光っているし、都内の主要道路では徹底的な検問が行われていたのだ。それなのに奴は風のように現れ、また風のように何の痕跡も残さず去った。横田には不思議でならなかった。当局が奴に関して見落としている事が何かあるはずだ。
 新聞の片隅に、葛飾で盗まれたサーフボードが東京湾の埋立て地岸壁でみつかったことが小さく報じられていた。野犬が出没する荒涼とした草原地帯である。今となっては、誰の関心も引かない、ついでのような記事だった。
 しかし、横田には妙に思えた。拘置所から逃亡するのに北野がサーフボードを使ったことは間違いないとして、奴はどこでボードを捨てたのか? 荒川から東京湾の間のどの地点でボードを降りたとしても、ただでさえ軽くて、浮力があり、水に流されやすいサーフボードのことだ、発見地点でボードを担いで陸に上がったと解釈しなければおかしい。ましてや、その晩は嵐で川は氾濫していた。北野がボードを川に捨てていたのなら急流に押し流されてボードは東京湾の遥か沖合にいってしまっていたはずだ。
 つまり、横田の考えでは、北野はボードの発見された地点で陸に上がったのである。だが、あの用意周到な北野がそんなヘマをするだろうか? 
 横田は砂のようにしか感じられない苦いコーヒーを啜った。
 いや、奴はあの晩相当疲れていた筈だ。ボードのコントロールに神経を磨り減らし、荒波を渡り切るのに疲労困憊していた。人目を避けて姿をくらますのがやっとだったのではないか。
 それにしても、東京湾岸地帯に上陸したとして、やつはそこから、この新宿まで誰にも見咎められずにどうして来れたのか。現場からはあまりに遠すぎる。
 忍び笑いが頭上で起こった。眉を上げると、工藤会の大幹部の坂田がボデイガードを二人連れて目の前に立っていた。
「どうした、さすがの鬼の特警隊長さんも今度はお手上げかよ」
 横田はむっとした。東拘では随分面倒を見てやったのだ。「貴様、俺にそんな口を利いていいのか。お前のお仲間はまだ随分中にいるぜ」
 坂田は口をへの字に曲げた。「分かってる。だからこうやって、あんたのお呼びに応えて、出っ張って来たじゃないか。分かってるのか? 朝6時といえば俺達の稼業じゃ真夜中だぜ」
「馬鹿ぬかせ! そのボデイガードは何だ。藤崎が殺されてびくついてるんだろう」
「貴様……」坂田の若衆が威嚇的に横田に迫ろうとして、止められた。
「何だよそのガキは、おい坂田、早いところその坊やをママのところに返してやれよ。怪我をしないうちにな」
 くつくつ坂田は笑い出した。「減らず口は相変わらずだ」
 坂田は横田の前に腰を下ろした。ボデイガードは座らずに周囲を警戒している。「ところで、何の用だ」坂田はタバコに火をつけた。
「工藤の居場所を教えろ」
「会長か」坂田は鼻で笑った。「サツに聞けばいいじゃないか」
「本部にも自宅にもいないことは分かってる。女の所だろう。南恵美というイロののな。警察もまだ情婦宅は掴んでない。どこだ?」
「南恵美? どうしてお前さんの口から、あの女の名が出てくるんだ」
「南恵美は脱獄した北野の女だよ」
 坂田はタバコを落としそうになった。「あの気違いの狙いは会長か?」
「お前の親分がどうなろうと知った事じゃない。俺は奴を捕まえたいだけだ。居所を教えろ」
 坂田は暫く考えを決めかねていた。
「中に入っている兄弟分の上原に便宜を計ってやって貰いたい」
「いいだろう」
「酒とタバコだ」
「わかった」
「それから、シャバとの連絡もな」
「わかった。もうそれだけ言えば充分だろ。どこなんだ、女の家は」
「俺の口から教えるわけにはいかない」
「何だと!」横田は逆上した。
「まあ待て」坂田はボデイガードの若衆を遠くへ追いやってから言った。「俺の口から言えないが、会長の女の居所を書いた紙切れを落とすのは仕方がないことだ。人間誰でも落とし物はするからな」
「馬鹿野郎」横田はほっとして怒鳴った。


9

 冬夫が藤崎の所から奪ってきた物は、腹拵え用のハム一本。携帯用の短波ラジオ。これは多分、藤崎が競馬や競輪などのギャンブルに使っていたものだろう。それに十数万の現金が入った財布と住所録。財布は鰐皮の高級品だ。勿論、一番大事なグロッグ17は腹に差し込んである。血塗れになった白衣は現場に脱ぎ捨ててきた。冬夫は保線工の作業服に着替えて、今度は大久保通りにある目立たない通風口から地下に戻って来ていたのである。
 警察は工藤の自宅や本部に緊急配備を終えているだろう、と冬夫は思った。しかし、俺の目的は恵美だけだ。その為には急ぐ必要があった。地下鉄の始発電車が動き出す前に、無人の駅を通り抜けて行かなければならないのだ。
 昼の間に睡眠はたっぷり取っていたし、地下構内は知悉しつくしていた。なにしろ冬夫は土工として、地下鉄工事に8年以上も従事していたのだ。設計者にもわからないような細々とした事情にも通じていたし、どこに何があるかも自分の庭のように知っていた。
 警官隊との銃撃戦ではいったい何人の犠牲者が出るのだろう。冬夫はそんな事をふと思った。今度は前のようなヘマはしない。

10

 寛いでコーヒーを飲んでいるどころではなかった。
 軽い朝食会ということで法務省の会議室に集められた捜査担当者や関係者は法務大臣の八つ当たりをもろに受けて辟易するばかりだった。
 テレビカメラの前では温厚で通っている白髪頭の法務大臣は、身内だけのオフレコの集まりでは、遠慮会釈もなく持ち前の傲岸さを発揮した。
「なんだ、この男は、学歴も家族も財産も何もない死刑囚じゃないか。ゴミ以下のカスじゃないか。君たちはこんな男一匹捕まえられないのか」
 警視庁刑事局長、検察庁検事正、東京拘置所長らがそれぞれ補佐官を従えて出席していた。法務大臣は数年前の建設疑獄で疑惑の槍玉に挙げられた人物である。口にこそ出さないが、誰もが腹の中で苦虫を噛み殺していた。こんな奴には沈黙で報いるしかない。出席者一同の考えは暗黙のうちに一致していた。勢い風当たりは現場担当者にいく。皆の眼が藤堂に集まった。
 古狸め、疑獄で苛められたことの仕返しのつもりか。藤堂は顔色ひとつ変えずにゆっくり紅茶を啜ってから答えた。
「まさに、そのカスが日本中を掻き回しているわけです」
 大臣の表情が硬直した。出席者の顔にも驚愕が広がる。
「いやに落ち着いているが、逮捕の目算でもあるのかね君は」
「いま、それを考えていたのです」
「?」
「新聞に犯行現場の写真がでかでかと載っていましたが、これは犯人が新聞社に電話をしたからです。つまり警察よりもマスコミの方が早く現場に到着しているのです。犯人、すなわち北野は絶対に逃げ切れる自信を持っていた。だから悠々と犯行声明を出して現場から姿を消したのです。この自信はどこからくるのだろうか。そのことを考えていたのです」
 大臣は鼻で笑った。「殺人狂の単なる自己顯示にすぎん」
「たんなる殺人狂にこれだけの芸当ができるでしょうか」
「君は」大臣は自分の言葉の効果を最大限発揮させるため皆を見回してから言った。「殺人鬼の肩を持つのか」
「そうゆう意味では北野は確かに優秀な殺人鬼でしょうな」
 大臣の眉が曇ったかと思うと癇癪が爆発した。
「誰だ、こんな男をこの部屋に連れてきたのは!」
 検事正が立ち上がった。
「大臣、彼は北野を直接取り調べた担当検事です。捜索から外すわけには参りません」
 与党でも最古参議員の一人である法務大臣は、今や、だだをこねる子供だった。
「こんな検事がいるからマスコミに叩かれるんだ!」
 警視庁刑事局長が助け船を出した。
「大臣、藤堂検事の言う通りです。例のサーフボードが見つかった一帯も今朝、徹底捜索致しましたが何の手掛かりも発見されませんでした。これはあの男に対する評価を考え直さないことには進展は望めません」
 大臣の怒りは治まらなかった。
「所詮、相手は光の当たらない所で生きてきた男じゃないか。最高学府を出た君たちが……」
 突然、藤堂が笑い出した。
 緊張が一度に外れた様なだらしのない笑いだった。議場が一瞬静まり返った。
 大臣は怒りに震えて藤堂を睨み付けた。「き、君は……」
「今の大臣の言葉でわかりましたよ」
 発作的な笑いが止むと、藤堂は静かに切り出した。
「大臣のおっしゃるとおり、奴の人生は陽の当たらない生活そのものでした。孤児院を出て散々苦労した挙げ句、奴が最後に選んだ職業は何でした?」
 藤堂は一同の顔を見回した。「地下鉄の工夫です」
 あっ、という表情が皆のあいだに広がった。法務大臣を除いて。
「我々は、目に見える世界ばかりを、光の当たる部分ばかりを見過ぎていたようですね」
 議場に動揺が広がった。
「地表の世界に幾ら捜索網を敷いても無駄なはず。つまり、北野は地下鉄の軌道を利用していたのです」
「そんな馬鹿な」大臣が叫んだが今度は誰も相手にしなかった。


*

 その頃、工藤会の大幹部、坂田と別れたばかりの特警隊長の横田は、坂田から仕入れた情報を警察に流そうかどうか迷っていた。北野を捕まえるためにはいま直ぐにも、工藤の情婦宅へ緊急配備が必要なのだ。
 否、止めておこうと、横田は思った。これは俺の仕事だ。あの生意気な検事野郎の鼻を明かす為にも、俺達の手で奴を逮捕するのだ。
 横田は携帯電話のスイッチを入れると部下達に緊急招集を命じた。場所は荻窪にある工藤の情婦宅だ。

11


 早朝の6時、横田が坂田から工藤の情婦宅を聞き出し、藤堂が地下鉄の存在に気がついた頃、冬夫はすでに荻窪の閑静な住宅街に姿を現していた。藤崎の電話帳から工藤会々長、工藤力男の私邸の住所は冬夫には手にとるように分かった。普段、工藤は家族と一緒に乃木坂の屋敷に住んでいる。しかし、組員を装って電話で確かめた結果、工藤は自宅には居なかった。となると、残るは荻窪の情婦宅である。
 荻窪までは地下鉄銀座線の新宿駅から二つ目という近さだった。
 彼は大きい籠のついた新聞配達用の自転車をくすねてきていた。直ぐ近くのマンションに配達に上がった新聞配達人のものをそのまま乗ってきたのだ。籠には新聞の束が入ったままだから誰が見ても新聞店員にしか見えなかった。盗難届けが出され、騒ぎが大きくなる頃には「用事」を済ませ彼はこの地域から姿を消しているだろう。
 冬夫は工藤の情婦の屋敷の前に自転車を留めると、家と周辺の様子を伺った。邸は塀で囲まれ屋根の付いた重厚な門で閉ざされていた。工藤はこの辺りでは堅気で通しているのかもしれない。監視カメラの様なものも無く閑散としている。警察のパトカーの姿がないところを見ると警察はまだこの情婦宅を特定できてないのだろう。
 作戦は東京拘置所にいたときから何種類も立てていた。
 冬夫は道端の石ころを拾うと、門の向こうの母屋の二階に向かって思い切り放り投げた。
 ガラスの割れる音がすると、犬の吠える声が返ってきた。声の感じからして、かなり獰猛な大型犬のようだ。
 少し間を置いて、冬夫はインターホンを押した。
「どなたですか?」
 上品そうな中年の女の声が直ぐに返ってきた。どうも恵美の声ではなさそうだ。お手伝いか何かだろう。
「A新聞店の配達の者ですが、今、お宅に石を投げた少年をたまたま通りがかって捕まえました。どうしましょうか?」
「まあ」
「このまま警察に連れて行っても良いのですが、お宅の知り合いの者かどうか顔だけでも確認しておいて下さい」
「ちょっと待ってね」
 吠え盛る犬たちをなだめる声がして、下駄の音が近ずいてきた。先程の女のようだ。くぐり戸が開くと同時に冬夫は押し入った。日本髪に結った割烹着姿の42、3の中年女が大きな眼を見開いて立っている。殴るのは哀れだと思ったが、冬夫は瞬間的に鳩尾を蹴り上げて昏倒させていた。玄関脇の犬小屋に繋がれている犬の怒り狂ったような吠声が一気に高まった。2匹のドーベルマンだ。
 冬夫は犬を無視してゆっくりと歩を進めた。近所の不審を招く前に沈黙させねばならない。藤崎のところからくすねてきた最高級のハムを投げ与えると前夜から腹を空かせていた犬は早速唸り声を上げて奪い合いを始めた。庭に拵えたガレージに白いベンツが停まっているのが見える。工藤はここにいるようだ。
 と、母屋の裏手から背広姿の屈強な男が二人現れた。冬夫と目が会うと驚いたように立ちすくみ、慌てて、内ポケットに手を入れようとする。
 しかし、新聞紙に隠すようにして握られていた冬夫の銃のほうが早かった。
 グロック17自動拳銃の安全装置は引き金にあり、トリガーを押さえると解除される。冬夫は両腕で銃を構えると2人の護衛に9ミリ弾を撃ち込んだ。
 彼の射撃法は特に心臓や頭を狙うという式のものではない。そういうのは単なるスポーツだと思っている。冬夫が中東出張中に対ゲリラ戦から知った方法は確実に相手を負傷させる戦闘用の射撃術である。即ち相手が何であれ、常に、標的の形の中心を狙うのだ。弾丸が軍隊で使うFMJ弾でなく、弾頭の柔らかい種類の弾丸ならば、当たれば必ず相手を倒せる。
 冬夫の放った殺傷能力の高い9ミリのハローポイント弾は瞬時にして工藤の若衆の動きを終熄させた。
 冬夫は用心深く、倒れた二人に近ずくと、まだ動いている男たちのこめかみにそれぞれ一発ずつ弾丸を撃ち込んだ。それから、彼等の銃を奪った。冬夫にとって、これ以後は最早、殺人ではなく戦闘だった。騒ぎを聞いて警察もやってくるだろうし、私情を排して生き延びる算段をしなければならないのだ。
 二人の持っていた銃はタウラスPT92。ブラジル製のこの銃はイタリアの名銃ベレッタ92Fのコピーで安物だが戦闘性能はむしろベレッタよりも優れていた。ベレッタと違って、ハンマーを上げて薬室に弾丸を送り込んだ状態で安全装置がかけられる。つまり何時でも敵に即応出来る状態(コンデション・ワン)で対峙出来るのだ。従って、グロックと同じく、グリップを握ったまま安全装置が解除できた。冬夫にはうってつけの銃である。遊底を開いてみると装弾数15の9ミリ弾は満杯だった。二つともコンデション・ワンの状態にして、腹に収める。
 冬夫は走って玄関に飛び込んだ。人影を認めて本能的に床に平伏す。同時に、玄関のガラス戸がバラバラに吹き飛んだ。物凄い勢いである。ショット・ガン(散弾銃)だ。冬夫は体を横転させ、上がり框の靴箱の陰に隠れた。砕け散った細かいガラス片が刺さって冬夫の顔には蚊にさされたような血の斑点が無数にできていた。
 これが屋外であれば冬夫が完全に不利だった。しかし、狭い屋内だと、銃身の長いショットガンだけを物陰から出して敵を狙うことは出来ない。どうしても体を晒して戦わざるをえないのだ。そこに冬夫のツキがあった。
 冬夫はまず靴箱の陰から銃だけを出して、前方の廊下を掃射した。盲撃ちだ。フルオートで毎分600発の発射速度をもつグレックの弾倉は1秒少しで空になった。15発の9ミリ弾はあっという間に前方のあらゆる遮蔽物に吸い込まれ無差別に破壊しつくした。遊底を開いて、空になったマガジンを取り替えている暇はない。
 そのときショットガンを腰溜めにした男が廊下に姿を現した。冬夫の銃の弾倉が空になった事を示すスライドが飛び出した音を聞きつけたのだ。手強い相手だった。ショットガンは一度に6ミリ弾なら27発を発射できるので照準を合わせる必要がない。27発の拳銃が一度に火を吹くのと同じ事だ。
 が、すでに冬夫は警護の組員から奪ったコンデション・ワンのタウラスをその手に持ち変えていた。
 銃先を障子の桟に当てて少しもたついた相手に、冬夫は躊躇なくタウラスの全弾を中心にぶち込んだ。これも2秒とかからない。スライドの開いたタウラスを惜し気もなく捨て、もう一丁のタウラスPT92を構える。にじり寄ると男はボロ布のようになっていた。人間の残骸というより血肉の塊だ。ショットガンと弾丸の帯を取って、冬夫は硝煙と血の匂う屋敷の奥に進んだ。
 もやは抵抗はなかった。
 二階に上がり寝室のドアを蹴り破ると工藤会々長、工藤力男が女と一緒にベッドにいた。二人とも半裸だ。工藤は呆然としている。無謀ともいえる殴り込みだった。当然、子分どもが始末すると思っていたのだろう。
 女が南恵美だと確認するのに冬夫は時間が掛かった。異様に痩せていたからだ。そのせいか、別人のように凄みのある女になっている。
「恵美ちゃん」
 思わず冬夫は叫んだ。
 本来なら感激の瞬間になるはずだった。しかし、南恵美は目を見開いたまま工藤と同じ様な顔付きで呆れたように冬夫を眺めたまま黙り込んでいるのだった。
「恵美……どうしたんだよ」
 何かが可変しいと冬夫は感じた。目の前の女は昔の恵美ではない。別人だ。完全に変わってしまっている。しかし、冬夫は言った。
「恵美、ここから逃げないか?」
 恵美は工藤の陰に隠れるように身を縮めた。
「恵美!」冬夫は訳が分からなかった。工藤から救いだし、当然一緒に逃げてくれると思っていたのだ。
 呆れたように経緯を見守っていた工藤が、突然笑いだした。頭の禿げた工藤は小男だが太っている。その、迫り出したタイコ腹を抱えて工藤は馬鹿馬鹿しいとでも言うように哄笑した。
「何がおかしいんだ」冬夫は工藤の鼻先に銃口を突き付けた。
「とんでもない星の王子さまだぜ。てめえは」すっかり余裕を取り戻した工藤は北野に向かって吐き捨てた。
「この女はもう俺の女なんだよ。昔のウブな南恵美ではなく俺無しでは生きていけない一匹の雌犬だ。お前さん、何をとち狂ってこんなところまで乗り込んできたんだ? ええ?」鼻で嘲笑った。
 冬夫は恵美を見た。工藤の言うとうり、ありありと迷惑そうな表情が浮かんでいる。
「そうか」冬夫は一人ごちた。
 どこでどう間違ったのか知らないが、恵美から手紙も面会もなくなったのは、工藤会の暴力のせいだと思っていたが、恵美の方が心変わりをしてしまっていたのだ。
 冬夫が自嘲する番だった。「成程、死刑囚なんか死人も同然だわな。その死んだ筈の人間が墓場からのこのこ出てきては迷惑な話だ」冬夫は喋っているうちに心底おかしくなった。こいつはパロデーだ。傑作だ。
「ところで、馴れ染めでも聞かしてもらおうか。どうやって恵美を手ごめにしたんだ」冬夫は気を取り直して工藤に尋ねた。
 工藤は哀れむように北野を見返した。
「おいおい、野暮な事をいうぜ。男と女の好いた惚れたに他人が口出しすうもんじゃねえ」
「そうかな」
 そのとき、冬夫に閃くものがあった。
 冬夫は恵美の腕を掴んで引き寄せた。案の定、白くて細い上腕部に針の跡があった。常用しているせいで、黒く盛り上がった針の跡はタコができて硬くなっている。
「なるほどシャブ(覚醒剤)か」
 工藤の形相が険しくなった。「それがどうした」
「どこにある」
「なにがだ?」
「シャブだ」
「そんなものはない」
 北野はいきなり工藤の顔面を蹴り付けた。クッションのよく利いたベッドの上で工藤は起き上がりダルマのように跳ねた。揺れ戻ってくるところを又、蹴る。今度は、何本かの歯が飛び散った。更に蹴る。耳。腹。鼻。顎。骨も砕けよとばかりに蹴りまくった。
「や、止めてくれ」とうとう工藤は虫の息で哀願した。顔はトマトが潰れたようになっている。
「バカヤロウ! 極道が命乞いか」冬夫はにべもなかった。又蹴る。工藤はベッドから転げ落ちた。
「やめて!」と、恵美が叫んだ。冬夫は寂しげに恵美を見た。
「こんな奴を助けるのか」
「愛してるのよ」
「愛してる?」冬夫は逆上した。覚醒剤のせいで彼女が一時的に倒錯しているのは分かっていた。しかし、しかしだ。
 恵美はベッドを降りると、死んだようにぐったりして呻き声を発している工藤の上に重なって北野を見上げた。「お願い、許してあげて」
 冬夫は猛烈に恵美が哀れに思えてきた。殺されるよりも酷い扱いを受けているのに自分でそれが全く分かってないのだ。極道どもめ!
「工藤! とにかくシャブをだせ!」
「出したら工藤を助けてくれる?」と恵美。
「ああ」と冬夫はいった。体中の力が抜けて行きそうだった。
 恵美はよろよろと立ち上がって、どこからかビニール袋に入った白い粉末を持ってきた。数キロはある。末端価格にして億はするだろう。暴力団新法以後、暴力団の資金源は麻薬に頼る傾向が強くなっている。工藤会もシャブで凌いでいるのだ。
「これを持って、さっさと行って」恵美が言った。
「出ていけというのか」冬夫は哄ったつもりだが声にならず痴呆的に口が開いただけだった。
 その時、再びひきつるような笑いが部屋に響き渡った。工藤だ。
 歯は折れ、鼻が砕け、眼が腫れて、血だらけのサッカーボールのようになった工藤が血ばなを垂らしながら、ひひひと笑っている。
「坊や、分ったかい、女ってもんはこんなもんだ。理屈も正義なんかもありゃせん」
 冬夫は黙って工藤を見詰めた。
「どうだ、取り引きしねえか」工藤が言った。
「言ってみろ」
「シャブをこの女もお前にくれてやる。それで、この場は見逃してくれ」
「恵美を? 俺に譲るって?」
「ああ、この女にもそろそろ飽きた。気持ちよくお払い箱にしてやるよ」
 冬夫は黙ってショット・ガンの引き金を引いた。
 至近距離から発射された4号パック弾は27発の6ミリ弾丸を工藤の顔に叩き付ける結果となった。
 工藤の頭は一瞬にして吹き飛んだ。
 凄まじい光景だった。放射状に飛散した肉片は粉々になって寝室の壁に張付き、血しぶきが霧のように舞降りた。首の無くなった持ち主のない胴体はそのままもんどり打って引繰り返った。
 冬夫には何の感慨も無かった。
 突然、悲鳴が起こった。恵美のものだった。
「恵美……」冬夫は彼女をなだめようと肩を抱いた。「恵美、おまえ、シャブで躰と神経をやられてるんだ。治さなきゃいけないんだ」
 恵美は何も聞いていなかった。細い喉からひゆーと声にならない喘ぎ声とも悲鳴ともいえない恐怖の発作を続けている。
「恵美……」冬夫は絶望的に続けた。「頼むから俺についてきてくれ。一緒に医者へ行こう、入院して元気な体になるんだ」
「鬼!」恵美が叫んだ。「何よ、あんたは、偉そうに」嘲笑した。
「ただの殺人鬼じゃないの。ケダモノ! 人でなし!」
「恵美……」
 突然、パトカー音が聞こえてきた。
 とっさに冬夫は恵美のみぞおちに強いフックを畳み込んだ。痩せて、疲れた女体はすぐにぐったりとなった。担いでもほとんど重さを感じさせないのが哀れだった。寝室のソファーに横たえると、冬夫は無言で彼女に別れを告げた。警察が恵美を病院に運ぶだろう。
 冬夫はショットガンにパック弾を補填すると堂々と表に出た。門前に数台のパトカーが到着するところだった。
 冬夫が正面に現れ出たのでパトカーの警官は慌てたようだ。急いで車を停め、降りながら拳銃をホルスターから抜き、引き金に挿入された「安全ゴム」を外し……と、操作しているうちに、北野のショットガンが続けさまに火を吹いた。
 7弾装。合計189発の6ミリ弾が嵐のように警察隊を襲った。これは例えていうと189丁のピストルの一斉砲火を受けたのと同じである。初動の警官隊はこれだけで壊滅した。5台のパトカーは爆発炎上し、警察官のほとんどは負傷を負った。僅か、数秒のことである。
 日本の警察はあらゆる点で優秀と見なされている。事実、捜査力、機動力、警察官の質。どれをとっても世界的に遜色はない。
 しかし、銃器犯罪に対処する能力は零である。
 警察官が銃撃戦に慣れていない事もあるが、銃についての知識も稚児に等しい。冬夫は中東戦争時、イランの土木工事に派遣されていて、戦闘に何度も巻き込まれた経験から実感として知っていた。ショットガンの威力は、接近戦ではマシンガンを上回るのだ。
 冬夫は鼻で笑いながら悠々とショットガンのマガジンに弾を込めた。どこからも反撃は無かった。何故なら、警官隊は、規則と規律に縛られた携帯拳銃の安全装置すら解除する前に、冬夫の先制攻撃を食らってしまったのだ。銃撃戦では数秒の遅れが生死を決めるセオリーを平和大国日本の警察はまるでわかっていなかった。
 冬夫は更に盛大にショットガンをぶちかましてから自転車に乗って現場を離れた。冬夫の背後で再び爆発と炎上が起こった。
 特警隊長の八田が部下と共に現場に到着したのはそれから数分、後のことだった。

12

 警視庁13階の大講堂では百人以上の捜査員を集めて特別大捜査会議が開かれていた。
 全国から緊急招集された刑事たちの熱気は、歴代警視総監の肖像画が並ぶ講堂に充満し、異様に緊張した雰囲気を作り出していた。
 壇上には巨大な東京地下鉄図が吊られ、刑事局長と東京の五つの地下鉄運営会社から呼ばれた技術者や運行担当者が一問一答の形で説明を繰り返していた。この会議場にはオブザーバーとして藤堂や特警隊員は勿論、法務事務次官までが出席していた。
「正直申しまして、地下鉄を完全に封鎖するなんて事は不可能です」
 一番路線の多い営団地下鉄の技師長が説明していた。
「地下鉄路線の総延長距離は250キロ、しかも、17路線が複雑に入り乱れ、交差しています。空気取り入れ口を含む出入り口はそれこそ無数にあり、こえを全てカバーするとなると、そこれこそ軍隊が必要でしょう」
 会場に溜め息が流れた。
 たった一人の「カス」に、法治国家の根幹が崩されようとしていた。死刑囚が脱獄してわずか28時間の間に、警察官8名を含む13人が殺されパトカー5台が壊され、12名の重傷者が出た。
 日本警察はなす術もない。が、警視庁の意地にかけても「手に余る」とは言えなかった。
「広く市民の協力を求めるしか無かろう」警視総監が口を開いた。「そうして各地下鉄車両の運転席に捜査員を便乗させて貰い、奴を発見次第特捜本部に連絡する」
「しかし、奴が地下鉄路に潜んでいると公表すうのは得策ではない。乗客の間にパニックが起こる」オブザーバーの法務事務次官が反論した。
「地下鉄が止まる深夜に大捜索隊を各路線に投入しましょう」刑事局長が提案した。
「ふむ」と総監は言った。「何もしないよりはマシだろう」
 あまり期待の持てない口振りだった。「他には?」
「いま直ぐに捜索隊を投入出来ないのですか?」捜査員の一人が手を挙げて尋ねた。
「とんでもない」と技師長が言った。「危険極まり無い。駅近くの大きな構道ならともかく普通の地下鉄軌道の構内は車両が通るぎりぎりの幅しかありません。その男は多分、地下構道の壁にある、丁度、板チョコレートの窪みのような箇所に、電車が来る度に張付いてやり過すか、側道のある構道を選んで歩いたのでしょう」
「奴が地下鉄構内に潜っているのは本当に間違いないのかね?」
 次官が疑わしそうに言った。
 藤堂がそれに答えた。「確実です。荻窪での大量殺戮のあと、やはり奴の足取は都営新宿線の荻窪駅近くの通風口付近で消えています。地下鉄に潜ったのは間違いないでしょう」
「そうすると、夜まで待っている訳にはいかないな。いつ又、次の犯行を重ねるとも限らん」と警視総監。
 法務事務次官はこの言葉に危機感を持った。
「男はまだショットガンを持っているのですか?」
 刑事局長が頷いて、鑑識から届いた銃の報告書を読み上げた。
「使用されたショットガンは自動式ベレッタ1200。いわゆるコンバット・ショットガンと呼ばれる銃身の短いものです。弾丸はバックショット、と呼ばれる鹿撃ち用の4号散弾で、一撃で27個の6ミリ弾が飛び出します。また、同じバックの4号マグナム散弾は一発で41個の22口径弾を射生し……」
「もういい」次官がうんざりしたように遮った。
 刑事局長は一言だけ付け加えた。「奴は、いまだに銃も、豊富な弾帯も持っております」
 その一言で議場は重苦しく静まり返った。
「やむをえん、自衛隊の協力を求めましょう。昼の間に、全ての通風口に監視を立て、出入り口の通行を遮断し、夜になって大量人員を投入する。勿論、都民には協力してもらうためにも事情を知らしめる」次官は続けた。「それから、いま直ぐ捜査員を地下鉄運転席に同乗させよう」
「そうですな、もうそれしか手はありませんな」
 総監が肯首すると議場にざわめきが起こった。警察が手に余ることを認めたのだ。議題はすぐに作戦会議に切り替えられた。

13

 覆面パトカーの後部座席で眠りをとっていた特警隊長の横田はあらゆる情報無線を傍受している助手席の部下に起こされた。
「警視庁はとうとう自衛隊に協力を要請しました」
「そうか」
 3時間ほど睡眠を取っただけで横田はかなり頭が冴えるのを感じた。
「ということは、この事件に政府が直接介入してきたということだな」
 横田は苦虫を噛みつぶした。荻窪でも北野に先を越され、特警隊の立場は無かった。いま又、警察と、自衛隊までが動員されて史上空前の大捜査が行われようとしている。北野を彼の手で直接捕まえないことには、横田はもう拘置所に帰れない。
「警察は奴を捕まえるでしょうか?」不安そうに部下が尋ねた。
 横田は鼻で笑った。「無理だな」
 予想外の隊長の返答に部下達は緊張した。
「大山鳴動して鼠一匹、だ」横田はにやりとした。
「奴は人間じゃない。獣だ。獣を捕らえるには獣の習性を知ることだな」
「はあ」要領をえない答えに部下達はあいまいに頷いた。
「地下鉄とは気付かなかったが、俺には奴が最後にどこに現れるか分っている。しかし、問題は時間だ。夜の1時まであと12時間ほどしか残されていない。急げ」
 首都高速1号線にはいるためにスピードを上げた彼等の車に、貫間通りを上野公園の方に向かう一台のリヤカーがすれちがった。リヤカーにはダンボールが積まれ、乞食同然の姿の男が肩を落として引いていた。ながびく不況のために最近はクズ屋が増えている。そんな社会の最低辺をうごめく者達への社会の人々の関心は薄い。一瞥すら与えられない霞みのような存在だ。当然、車中の横田の関心も引かなかったが、よく観察してみるとこのリヤカー引きの男が耳にイヤホーンを嵌めてラジオを聞きながら歩いていることに注意がいった筈だ。
 汚れた野球帽を目深に被り、煤で人相も判然としないほど黒くなった顔の男は北野冬夫だった。

14

 北野は谷中の墓地にいたダンボール拾いの男に藤崎から奪ってきた金を鰐皮の財布ごとやって男の持ち物をリヤカーごと買いとったのだった。
 それが数十分前。
 リヤカーのダンボールの下には散弾銃が隠してある。
 自衛隊が出勤して、東京都内に一種の戒厳令が敷かれたニュースを、やはり藤崎から奪った高性能のラジオで聞きながら冬夫は唇を歪めた。
 恵美を求めて、ただ一筋に情熱を注いできた脱獄と復讐の計画は茶番に終わってしまった。本来ならもうこの世に生きている用が無かった。全ては終わったのだ。
 がしかし……。
 冬夫は不思議な、正体不明の怒りに囚われていた。世の中全てに対する憎しみ。理由もない腹正しい気分。そう、東京拘置所の懲罰房の壁に書かれていた落書きそのままの気持ちが彼の中で青白く燃え上がっていた。
 <みんな死ね>
 冬夫は工藤を殺したあと自分も人知れず死ぬことも出来たのだった。ところが奇妙なことに、人生に対する完全な失意のあとに何故か最後まで生き延び、逃げおおせてやろうという意地のようなものが芽生えてきた。それも単に生き延びるだけじゃない、この出鱈目な世の中に最大限の衝撃を与えてやる。冬夫はそう決意していた。
 警視庁に自衛隊が協力して大量の捜索隊が地下鉄に投入されたというニュースは冬夫にとって思う壺だった。
 誰も地下鉄の怖さをわかっていないのだ。
 巨象も針の穴のように小さな急所への一撃で倒れるものだ。冬夫はその急所を知っていた。
 急ぐことはない。冬夫はそう思った。保安上、一般には極秘にされ、隠蔽されている地下鉄の送変電所は彼の目の前に迫っていたのだ。

15

「待って下さい」
 憤慨して帰ろうとする営団地下鉄の技師長を警視庁の廊下で呼び止めたのは検事の藤堂だった。
「ちょっと、お話を伺いたいのですが」
「あなたがたはね」技師長は背中を見せたまま吐き捨てた。「無謀ですよ。それに、失礼だ。人を呼んでおいて意見に耳を貸そうともしない」
「失礼は謝ります。今からでもお話を伺えませんか?」
 技師長の足が止まり、眼鏡をかけた禿頭が振り返った。
「あなたはどなたですか?」
「捜索現場の実質的な総指揮をとっている藤堂と申します」
 技師長は頷いた。「地階の喫茶店で」
「わかりました」藤堂は一緒にエレベーターに乗り込んだ。
「早速ですが、地下鉄の最大の急所は何でしょうか?」
 藤堂が急き込んで尋ねた。
「急所?」
「ええ、まあ、弱点といってもいいですが。私の素人考えでは電気だと考えていたんです」
 技師長は大きく頷いた。「電源が切れれば地下鉄はパニックに陥ります。電車の動力、構内の照明、運行管理のコンピューターすべて電気に頼っていますからね。電源は地下鉄の生命線ですからな」
 藤堂の表情が心持ち青くなった。「どうしてそれを、もっと早くに皆におっしゃっていただけなかったのです」
 技師長はむっとなった。「私共が地下鉄構内に1万人もの捜索隊を投入するのは危険だし、無謀だと言ったのに誰も聞こうとしなかった。電気だけではない、更に危険なのは火災だ。地下鉄構道それ自体が巨大な通風口みたいなものですからね。あっというまに炎は燃え広がる」
「もしも、もしもですよ」藤堂は血の気を無くしていた。「停電と火災が同時に発生したらどうなります」
「地獄ですな。東京の地下鉄は毎日200万人の人々が利用し、構内には常時十数万の人達が居る。大変なことになりますよ」
「勿論、そのための対策は立てられているんでしょう」
「やはり、一番大切なのは電源です。コンピューターの制御が不能になれば火災に対処できないからね。そのために営団地下鉄では、電力会社から独立した自前の送電所を持っています」
「その場所は?」
「残念ながっら五重丸のシークレット事項でしてね、いくら警察関係者といえどもお教えするわけにはいきません。ちゃんと文書で出してもらわないと」
 藤堂は苛立った。「もしも、もしもですよ。地下鉄の建設に長年携わってきた人物がいたとして、その場所を知る機会はあるでしょうか?」
 技師長はきょとんとした。「当然あるでしょうな」
「しまった!」
 藤堂は思わず唸り声を上げていた。地階でエレベーターが開いた。しかし藤堂は出ようとした技師長を力ずくで押し止めた。「ちょっと、一緒に来て下さい」
「何をする」技師長は不快そうに抗った。
「とにかく来て下さい。一人の男に東京が潰される瀬戸際なんです」
 藤堂の青ざめた顔を見て技師長は初めて事態の深刻さを悟ったのか、素直に頷いた。

16

 一般には100メートルも離れた標的を正確に撃つにはライフル銃が必要だと思われているが、1000メートルという遠距離ならともかく100や200ならピストルでも十分に狙撃が可能なのである。
 営団地下鉄の送変電所は上野公園の外れ、墓地と寺院が密集する静かな一角にひっそりと建っていた。周囲は白塗りの高い塀で囲まれ、門には勿論何の表札もない。門の直ぐ裏の詰所に警備員が2名、24時間歩哨に立っているという異様さを除けば周囲の人々には何の施設だかさっぱり分らないだろう。
 冬夫はそこから数ブロック離れた高層マンションの屋上から警備員を狙った。この2名の警備員を倒せば門から100メートル奥にある地下送変電所の建物まで誰の邪魔も受けない。
 タウラスPT92Fはダブル・アクションでありながらコンデション・ワンの状態で使えばシングル・アクションと同じ使い方が出来る。冬夫はタウラスのハンマーを上げ、セフティ(安全装置)を掛けて標的を狙った。
 何の恨みもない相手を狙撃することに躊躇が無いわけでは無かった。冬夫の考えでは、警備員という職業自体が始めから死もしくはそれに類する危険を伴うものなのだ。殺されて文句を言うのは彼等の考えがそもそもから甘いのだった。
 一人が詰所の箱から出たところを撃った。一発。二発。風船が割れるような甲高い音が秋の空に吸い込まれていった。
 ばかやろう、と冬夫は呟いた。
 倒れた同僚を助けにもう一人の警備員が箱舎から飛び出したのだ。こういう場合はじっと耐えて、まず警備本部に連絡しなければならないのに。とはいえ、平和大国にっぽんの警備員がそうしないことは冬夫には100パーセントわかっていた。
 タウラスの引き金を自動にして全弾を撃込む。もう一人の警備員も先の警備員の上に重なるように倒れた。
 冬夫は走った。
 迅速に行動しなければならない。
 送電設備を破壊しつくし、コンピューター制御室を壊滅する。
 わけはなかった。作るのには数億の費用と膨大な時間をかけなければならないが、壊すとなれば石油缶ひとつのガソリンで済むのだ。ショットガンをぶっぱなせばもっと早い。数分で済むだろう。
 そして? 
 そして、パニックだ。地下鉄は闇の王国になる。その闇の世界を誰にも邪魔されずに冬夫は逃亡すう積もりだった。

17

 技師長を伴って13階大講堂に戻り、ドアを開いたとたん、藤堂は場内が異様に静まり返っているのを感じた。
 のみならず、皆の目が藤堂に注視されている。
 藤堂は喉がカラカラになるのを意識しながらやっとのことで中の一人に尋ねた。「どうかしたんですか?」
 警視総監が信じられないほど落胆した表情で言った。
「東京の地下鉄の80パーセントの送電がストップした」
「はあ」
 藤堂には返す言葉も無かった。それが何を意味するか誰にも分っていた。パニックだ。電車は真っ暗な坑道でストップし、出口を見失った人々は半狂乱になって無謀な行動に走る。想像を絶する事態だった。
「ところで、今、君に電話が入っている」
 検事正がおごそかに言った。
「私に?」
「そう、君にだ」
「誰からです?」
「例の男からだ」
「北野、からですか」検事正はうなずいた。「我々はインターホンで聞いている。出てくれたまえ」
 藤堂は捜査員の一人から電話を受け取った。「逆探知は?」
 刑事局長が首を横に振る。「携帯電話だ。おそらく送電所の警備員から奪った物だろう」
 藤堂は納得して電話口に出た。
「私です」
 その節はお世話になりました。北野です。
 意外に明るい声が聞こえた。藤堂はあくまで冷静を装うことに決めた。
「覚えてますよ。君、今どこにいるんです」
 それは言えません。
「これだけやればもう満足でしょう。おとなしく自首してきませんか?」
 自首する気はありません。
「君の脱獄の目的は終わった。彼女は病院に収容したよ。これでヤクザとの縁も切れ、中毒も治る。何を今更、無益な破壊を続けるんです」
 月並みな言葉を使いたくはないですが、あなたに何が分るんです? 親も女房も家も財産も学歴も地位も将来もあるあなたに。
「自分が不幸だからといって、他人を破滅させるのはおかしい。君は、君が殺した人の家族の方達の事を考えたことはないのですか? 残された人達も君と同じ重荷を背負って生きていくことになるのですよ」
 そうして、初めてオレの苦しみもそいつらに理解して貰えるわけだ。
「君はもうどこへも行くところはない。残された道は悔い改めて、自首することだけだ。まだわからないのですか」
 何度も言うように自首する気はない。それよりも生まれて初めて俺は生きがいを感じてるぐらいですよ。あんたらを相手にしてね。
「そんなことが言いたくて、わざわざ電話をよこしたのかね」
 まあそう怒りなさんな。良い情報を上げましょう。オレは今、タンクローリーを奪ってきた。こいつにはA重油が満載されている。これを、どう使うかわかりますか? 
 息をひそめて聞いていた捜査員たちの間にどよめきが起こった。地下鉄構道にでも流されたて火を付けられたら地獄だ。
「君、君は自分が何をしょうとしているのか分っているのか」
 復讐ですな。この社会の奴等全てに対する。
「社会の人達がいったい君に何をした? 君とは何の係わりもない善良な市民を巻き込む理由なんかどこにもない!」
 不意に冬夫が笑い出した。哄笑はインターホンを通して講堂に響き渡った。
 それこそ、あんたらのたわごとだ。知ってるくせに。俺を牢に入れて豚以下、牛以下の処遇をしたのはあんたらではなく、本当は善良な市民だ。この善良な社会システムが人を死刑にし、東南アジアで無知な現地人から富を奪い、時には人殺しもするし自然も破壊する。表向き手を下しているのは軍隊や商社という組織だが、実際はこの善良な社会システムがやらせている。善良で幸せな国家、社会、家族を維持するために、略奪、殺人、裏切り、破壊等などおよそ考えられる限りの悪を必要とするのが善良な市民なんですよ。自分達では意識してないだけだ。また、意識しないで済むシステムなんだ。従って、無関係で善良な市民が今、この俺に殺されたって文句は言えないはずでしょう。
「君は……狂っている」
 あんたらが妙な真似をしなければ、重油を使うつもりはない。
「どういう事だ」
 都内の警備体制を今直ぐに解除しろ。検問、通風口の封鎖、地下鉄構内の捜索。すべてだ。でないとA重油を流して今すぐに火を放つ。
「我々は君と取り引きする積もりはない」
 これは取り引きじゃない。一方的な要求だ。
「ちょっと待て、協議する必要がある」
 あなたがたには考えてる余裕はない。要求を飲まなければ仕方ない状況でしょう。では、間違いなく頼みますよ。
 電話は一方的に切れた。
「くそ!」刑事局長がテーブルを叩き付けた。「くそう!」
 敗北感が議場を覆った。
「地下鉄へ避難命令を出さなけりゃ。捜査員も全員引き上げさせる」
 警視総監が言った。
「しかし、そんなことをすれば北野の思う壺でしょう。無人の地下鉄を堂々と何処かへ逃走出来る」と刑事局長。「ひょとすると、タンクローリーの話も奴のホラかもしれないし」
「彼は地下鉄構道を利用しないと思う」藤堂が言った。「検問を止めさせろと言ってきたところを見ると、タンクローリーをどこかへ運ぶのかもしれない」
「成程、よし覆面パトでその線を捜索させよう。表面的には、捜査体制は解除だ」警視総監が叫んだ。

18

 遥か彼方の夜の東京湾岸に高層ビル群がせりだし、鮮やかな光彩を放っている。燃える赤や黄や青の光房。
 野犬の出没する「夢の島」の荒涼とした荒野から見るとその光景はまるで異次元の世界だった。
 暗闇の中で、銀座線の一番末端、工事関係者用に仮設された、施行図にも載っていない通風口の脇に立って冬夫はどうしょうもなく虚しい思いに捕らわれていた。まるで、彼の人生そのもののような光景だった。彼はついに、それらのきらびやかな光の世界とは無縁だった。この先、あの光房の中の爪先ほどの楽しさに触れることができるものかどうか。
 彼はそこから芝浦まで歩いて行くつもりだった。
 東京芝浦の船舶管理事務所にはわずか2、3名の係官しかいない、鉄道でいえば無人駅に等しい寂しい入管だ。
 管理事務所を出るとそこは真っ暗で、道の端にうらびれた場末の酒場がひとつポツンと立っている。その酒場に行けば、冬夫の友達の韓国やタイの安月給の船員たちがいた。彼等なら気安く外国航路の貨物に潜り込ませてくれる。
 冬夫が歩き出そうとすると、不意に前方で強烈な明かりがともった。
「やっぱり、ここに戻ってきたな、北野」
 雷のように大きい声が響いた。
 眩しくて投光機の背後にいる者の姿は見えないが声の主は間違いなく特警隊長の横田のものだった。
「あんたか……」
 冬夫は眼のまえに腕をかざして光を遮りながら言った。「よくここがわかったな」
「サーフボードが見付かったのがこの近くだ。この辺の空気取入れ口から地下鉄構内に入ったと考えるのが常識だろう。それに、海外に逃げるとすれば貨物船か頻繁に出入りし、その上、警戒の手薄なこの辺しかない。とすれば、お前はかならずここに戻って来る」
「成程、俺が戻ってくるのを待っていたのか。ご苦労なこったで」
「お前は俺の部下に包囲されている。下手なことをすれば射殺しかない。さあ、おとなしくこちらに歩いてくるんだ」
「わかったよ。ところで今何時だ」
「さあな、夜中ってことはたしかだ」
「ごまかすなよ、俺の時計じゃ、午前1時29分だ。あんたら刑務官の脱獄囚に対する捜査、逮捕権は二分前に消えている。あんたらには、俺を逮捕する権限は無いんだぜ」
「残念だな。こちらの時計では午前1時20分だ。どちらが正しいのか今お前と議論している暇はない、さあ、早くこっちへこい」
「わかったよ、どうせそう言うだろうと思っていた。ところで、最後に一服吸わせてくれないか」
「変な真似をすれば、即座に発砲するぞ」
「そうびくつきなさんな。俺からはあんたらがまるっきり見えないんだぜ。反撃のしようがないんだ」
 冬夫はポケットからライターを取り出した。
「最近は便利なライターが出来た。ターボライターといって、強風の中でも火が付けられる。中にニクロム線が入っていて赤熱を保つんだ」
 冬夫はタバコに火を付けた。
「苦いな」冬夫は一服吸うと咳込んだ。「知らなかったか? 俺がタバコを吸わないのを」
「何!?」
「よく聞け、横田! 俺がここまで地下鉄を通って来たと思うのか? 本当はこの“夢の島”の入り口までタンクローリーに乗ってきたんだ。A重油でバルブを開いてきた。今頃、俺の立っている地面の下は気化したA重油で溢れているはずだぜ」
「貴様!」と横田が叫び、銃が発射されるのと、冬夫がターボライターを通風口に投げ入れるのが同時だった。
 地下構は瞬時に大爆発を起こした。
 それは夢の島の地殻が盛り上がるほどの凄まじい震動をもたらし、次の瞬間、暗闇の大地のあちこちから眩いばかいの火柱を吹き上げた。荒野に蓄積されたゴミの山が空に吹き上がり、さらに火柱で燃え上がって舞い散った。
 爆発は様々な連鎖反応を見せて広がっていった。
 数秒もしないうちに、東京湾岸に広がっていたビル群の宝石の輝きの様な光の洪水は弾けた泡のように次々と消えていき、真っ暗になってしまった。さらに、数秒後、今度は火炎の明かりとも思える光が暗闇のあちこちでちらちらと赤い舌を見せはじめた。
 そこでどのような惨劇が起こっているか、死に耐えようとしている冬夫には伺い知ることも出来なかった。
 煙と火だけが彼を取り巻いていた。横田からの反撃は無かった。爆風で吹きとんでしまったのだろう。奴とて、この地獄と化した地帯から逃げ延びることは出来まい。
 これでいいんだ、と冬夫は思った。逃げ延びたところで何が俺を待っている? 所詮は……。
 かはは、と冬夫は力なく空笑いをし、そして息耐えた。

 「完」 寄場太郎 1994

 (「寄場詩人43」1994年3号 10月30日、「寄場詩人44」1994年4号 12月20日より)


haruo iwaki