〜宗教団体との訣別を〜


1


 『寄場詩人』43号で私が予言したとうり釜ヶ崎という日雇い生活者の場は、縮小解体に向かっている。
 日本のマクロ経済はもはや「寄場」という古い経済調整の構造を必要としなくなった。いや、余裕がなくなったというべきか。
 日雇労働者という実体が稀薄になれば当然、それを中心にそえて闘われていた寄場救済の「運動」は衰退に向かわざるをえない。
 対暴力団闘争で日雇生活者のプライドを示していた釜共も今は無く、それにとって変わった釜日労は、かつて批判していたイナガキや全港湾と同じ行政闘争を中心とした温順な行動を余儀無くされている。
 こんな状況のなかで、秩序体制は思うがまま、釜ヶ崎解体に拍車をかけはじめた。/いずれ寄場弾圧の牙城になる西成警察署新築工事はこれっぽっちの抵抗も受けず堂々と押し進められ、その陰で、無数の失業の野宿者を出している。無数の病者、死者が類々とするなかで、着実に勢力を増してきたのが宗教団体だ。

2


 釜ヶ崎には数箇所にキリスト系「慈善」活動団体がある。
 最初に結論をいうと彼等のやっていることはヤクザより質が悪い。一日雇いの単純な脳細胞で一生懸命考えてみるに、まず、宗教家は仕事をしない。日雇いのように賃労働をしない。彼等の生活費や教会の運営費は全世界からの募金によって成り立っている。教育施設(学校)運営という抜け道はあるが基本的にはカンパが全てだ。
 ところで、カンパを集めるためには、どうしても「名目」を必ず必要とする。/釜ヶ崎のキリスト系宗教団体にとって釜ヶ崎という寄場は、そういう意味で好都合である。
 彼等が、寄場に向かって「無償で」行為するのも、対外的な布教、募金のアピール性を考えた場合計り知れないメリットがあるからだ。
 「釜ヶ崎の人達に布教する気はない」のも当然、そんなことは無意味無価値だからだ。
 私がキリスト系宗教者に不信を抱くのは東京での体験が大きい。
 中学を出て、東京で日雇い仕事に行き詰まり、新聞の勧誘をやったときのことだ。私は某キリスト教会の扉を叩いた。中では信者達の懇親会かなにかが行われていたらしく、賑やかだった。呼び鈴で出てきたのは教会の神父か牧師だった。彼は初対面の私が新聞の勧誘員だとわかると、これ以上人間に出来ないほどの侮蔑をこめた、憎しみに近い表情、目付で私を睨み「うるさい!」と言ってドアをバタンと閉めてしまった。
 私は柄の悪い人達の事務所や家にも勧誘にいったが、そこまで酷い応対を受けたことはなかった。しかも、それが慈愛を説く教会の神父とは!
 教会の聖職者から冷淡な扱いを受けた経験は私に色々なことを考えさせてくれた。とくに。キリスト系宗教家には用心深くなった。態度よりも、あのときの、あの神父の眼である。あの眼は一生忘れられない傷を私につけた。
 その後私は今日まで何人かのキリスト系宗教家と会うことがあったが、表面上はここまで酷い人にはお目にかからなかった。
 私は「あの眼」を忘れ始めていた。/しかし、この釜ヶ崎に来てからである。再び、あの眼にお目にかかったのは!

3


 先日、『喜望の家』に篤志家からの柿40キロを届けたところ、応対に出た牧師は「あの眼」をしていた。
 にべもなく「いらない」という。
 「迷惑だ」と言わんばかりの堅い表情をして門前払いを食った。
 私はここが「断酒会」という釜ヶ崎のキリスト会にあっては「実効」的な活動をしているので、断酒を決意した人達に食べてもらいたいと思って届けたのである。牧師に断る権利なんかないのだ。
 それにしても、このMボクシという男はなんと冷酷な目付き表情であったことか! 一緒に押し車を押していった六十九才のお年寄りは四十年前に大阪刑務所で洗礼を受けた真のキリスト者だったが、「なにが喜望の家じゃ!」と怒っていた。
 このMというボクシは世間では慈善家で通っているのだろう。しかし、その裏に隠されたどうしょうもなく冷酷な、釜のキリスト系宗教家たち共通の、慈善の裏に隠された日雇い侮蔑を私は見てしまった。
 これはMボクシだけではない。いちいち例を挙げないが、釜ヶ崎に巣食うキリスト系慈善団体の人々は一部の例外を除いて皆ダメである。このことはハッキリしている。
 釜ヶ崎の日雇いのみんな! 今からでも遅くない、宗教団体の「慈善」を拒否する勇気と、自立する心を取り戻そう! 
 そうでないと、私達は、糞尿同然の役割、奴らの運営活動のコヤシにされたまま朽ち果てることになる! 
 それから、日雇労働運動をしている方々、あなたがたがまずやらねばならないことは宗教団体と手を切ることだ! 
 「目的が同じなら手段は問わず。共闘も辞さず」というのは逃げだ。目的と手段は分離できるものではない。目的=手段、一つのものでなければならない。まるで両者が分離できるような言い方は詭弁である。もしそんなことが通用するなら、私達は炊き出しをしている右翼とも、競艇王のササガワとも手を結べることになる。キリスト教団体のかっこいい主の御言葉と同じく「世界は一家、人類皆兄弟」というスローガン自体には逆らう余地は無いからである。
 目的と手段は一本の矢のように同一のものだ。手段が変われば目的も変わってくるし、目的が変われば手段も変わってくる。
 しかし、本当の問題はそんなことじゃないのだ。

4


 カソリック教において「教会」は世界に一つしかない。バチカンのローマ教会である。ここでは大司教を頂点とする差別が完成されており、世界の西欧的秩序体制の精神的支柱になっている。いわば体制そのもの権力そのものといってよい。
 そんな世界的秩序を思想的に擁護する宗教組織の出先機関と共闘するなんて、宮内庁と共闘するよりヒドイ。そもそも社会秩序から疎外された者の集団である釜ヶ崎の日雇いを対象とする、「労働運動」家が絶対に手など結べようのない相手なのだ。
 分るだろうか? 分らなければお終いだ。
 アメリカ軍によるイラク兵皆殺しも、ベトナムでの殺戮も、CIAによる謀略、裏切り、暗殺、リンチもすべて、アメリカの平和で善良で温順な市民社会を守るために行われている。
 つまり、平和で善良で道徳的な西欧的市民社会は殺戮、謀略、裏切りといった「血」を必要とするのだ。キリスト教的な世界観に裏打ちされた「善良」な社会は「そこに含まれないもの全てを破壊破滅して了とする」我々疎外者には恐ろしい思想なのだ。/私達が時々キリスト系宗教家に感じるぞーっとするような冷たさはそこに由来していると私は考える。
 このような団体と例え「炊き出し」のために共闘するというのがどうも腑に落ちないのだ。目の前の出先機関がいくら貧相、無力に見えようと、派出所とおなじく背後に強大な権力が控えているのである。そんな世界的秩序精神と手を組むということが労働団体にとってどういうことなのか、とくと考えて貰いたいのだが。
 否、勿論分っているのだろう。分っていてやっているのだろう。それがどういう意味を持つのかも。
 しからば、私達日雇いは、釜ヶ崎のすべての「慈善」団体、「運動」組織に対してこう告げるしかない。/さらば、すべての欺瞞たちよ! と。

(「寄場詩人44」1994年4号 12月20日より)


haruo iwaki