みなさん、聞いてください。告白します。隠していても、いずれバレることです。こういうことは、いつまでも隠しおおせるものではありません。いっそ正直に暴露します。ほんとうのことをすべて洗いざらいぶちまけます。そのほうがよほど気楽だからです。なんのことかって? 例の「ナンナン」ちゃんのことですよ。ほら、杉原さんが飼っていた猫ちゃんのことです。行方が知れず、わたくし岩城が虐待したと、陰口を囁かれている例の猫ちゃんのことです。えー、えー、神に誓ってわたしは虐待なんかしておりません。そう思われるのは心外ですが、わたしの不徳のいたすところでしょう。でも虐待はしておりません。じつは、食べました。はい。ナンナンちゃん、猫鍋にして食べたんです。

 杉原さんが猫可愛がりに育ててきたナンナンちゃんのことですので、思ったとおりとても美味でございました。肉質もやわらかく、軟骨はこりこりと歯ごたえがあって、淡白な、とても上品な味でした。少々泡が目立って困りましたが、これは猫鍋に特有のことですので、この程度の難点は我慢しなければならないでしょう。青果市場から拾ってきたネギをふんだんに入れ、ニンニクのかわりにショウガで臭みを消し、お豆腐とお揚げでいろどりを添えました。このおいしい猫鍋を、生まれつき顔が真っ黒なホームレス「ニューギニア木村」、両足糖尿切断車椅子ホームレスおじさん、校長先生顔の凶暴ホームレス男田村。そしてわたくし岩城の四人で、舌鼓を打って食べました。三角公園という特殊な場所での野外鍋ですので、この四人のほか食べた人はこれ以上いちいち覚えておりません。

 猫鍋に関してはじつはわたくし、八年前、ベトナムから帰国した女性から詳しく聞いて知っておりました。ベトナムでは猫を好んで食するそうです。ベトナムで猫を食することは虐待ではなく、アメリカ人が牛を食い、日本人が秋刀魚を食い、北極原住民が白熊を喰うのと同じく、生活の一部であり一種の食文化であります。かれらにとっては、むしろ野生の動物をペット=玩具として「飼い慣らす」ことこそが動物愛どころか「虐待」なのです。

 わたしもじつは「ナンナン」ちゃんをまさか食べようなどとは夢にも思っておりませんでした。ところが、このクソ暑い夏です。わたしたちホームレス仲間はたんぱく質不足でグロッキーでした。両足糖尿切断車椅子おじさんはシケモクを拾うのに疲れて炎天下で上半身裸で伸びておりましたし、生まれつきアフリカ人のように手も体も顔も真っ黒けのケーの「ニューギニア木村」も空き缶ひろいに疲れ、黒ずんだ目をしておりました。校長先生のように髭をたくわえた、威厳と品格のある面がまえの田村は、その顔つきとは裏腹に単純素朴な凶暴性を秘めている単なる危険きわまりない中年男にすぎないのですが、こいつも三日も何も喰わずに疲れ果て脱力しておりました。そこへ「ナンナン」ちゃんの登場です。猫愛好家にして博愛主義者、動物愛護家の京都某寺の住職とかいう蓮月をはじめ、杉原のお友達みなから引取りを断られた、あわれな「ナンナン」ちゃんがつれてこられたのです。こいつを喰わない手はありません。

 じつはわたくしお恥ずかしいお話ですが「ナンナン」ちゃんの首をしめるとき、ずいぶん躊躇しました。抱きしめると、心臓の鼓動と生温かい体温が手の平に伝わってくるのです。それは厳粛な生命そのものの感触でした。ヒューマニストを気取って「どうしょうかなー、いや、やっぱりおれにはできないや」、などと皆の前で善人を気取った一人芝居を演じていると、昔から三角公園にたむろしている六十過ぎの狂人のホームレスお婆さん、(この人はとてもおとなしい狂女で、この十年、彼女が他人に毒づく姿を見たことがなかったのですが)この狂女が物凄い剣幕で怒りだしました。
「いつまで格好つけてるのよ! さっさと絞めるなら絞めなさい! 女の腐ったみたいに、いやらしい!」
 わたしはその怒りのこもった激しいことばを聞いて、ハッと目が覚めたような気がしました。おれは釜ケ崎に巣食う嫌味な活動家と同じことをしている。これじゃあ動物愛護を自称する蓮月や死刑反対運動家の坂口や詐欺師博愛運動家の東(西岡)や、日雇いを「仲間」といいながら辱め虐待する釜ケ崎日雇い労働組合委員長、山田実らと同じ穴のムジナではないか! 狂ったおばさんのおかげで、自分がとても恥ずかしい振る舞いを演じていたことに気づかされました。心の底から恥じました。ニンゲンはどんなに格好をつけたところで、これまでずーっと生き物を殺して生きてきたのです。これからもそうです。喰うために動物を殺す場合、なんの弁解もいらないのです。

 さて、首を絞めてぐったりした「ナンナン」ちゃんを三角公園の銀杏の木に大の字に吊るし、全身をぐらぐらに沸騰した熱湯に漬けました。こうすると毛がむしりやすくなるのです。「毛むしり」は部落で育ってニワトリの毛をよくむしったことがあるという「ニューギニア木村」が担当しました。笑うと白い歯が目立つ木村はケケケと笑って上機嫌でした。腸(はらわた)を引っ張り出して、きれいに血合いを洗い、おいしそうなホルモンと喰えない内臓に分けるのは、もと板前の両足糖尿切断車椅子おじさんの得意とするところでした。「ナンナン」ちゃんの金玉、おっと失礼、睾丸も輪切りにして新鮮な刺身にいたしました。

 「ニューギニア木村」は、毛をむしるだけでなく、きれいに皮も剥いでくれました。ナンナンちゃんの一枚皮です。猫の皮は伸縮性がいいので、なめして、あとでTパックの猫柄パンツを作るつもりでした。そのパンツはもちろん、猫愛好家の蓮月さんに送って、蓮月さんにはいてもらい、彼女が住職を務めるお寺の本堂で、彼女おとくいの前衛ダンスでも踊っていただければ、ナンナンちゃんも本望だろうと思っております。蓮月さま、ナンナンちゃんのTバックパンツ、多分、近日中にお届けすると思います。いえいえ、お中元のつもりで頂いてください。

 それからナンナンちゃんの頭。これどうしょましょう? 「ピアノ売ってちょ〜だい」のあの猫みたく、頭と両手だけお鍋に残ったんです。だれか貰ってくれないかと、今うんうん、なんなんうなっております。

 いずれにせよ、わたしがまさかナンナンちゃんを虐待! などしでかしてはいなこと、これで皆様にはおわかりでしょう。虐待どころか、その命をきれいに頂きました。ナンナンちゃんの命は多くの人たちの身肉となって現に今も生きております。

 虐待というのは、たとえば、自分の都合で、ペットとして飼い慣らした動物を自分の都合で捨てることをいいます。あるいは自分なしには生きられないように育て、自分をご主人様と思い込ませることをいいます。つまり生命のペット化です。自称動物愛護家は「生命のペット化」というソフトで深刻な虐待を平気で繰り返しております。とくに気取った坊主に多いですね。それにくらべて、殺して喰うという行為のなんと崇高なことでしょう。ここでは一切の弁解は通用いたしません。はい。

 蓮月とかいう坊主たちは、自分たちが受け取りを拒否したくせに、潔く引き受けを承諾したこのたわたしに対し、陰口を叩き、あらぬ中傷を振りまき、猫がどこへ逃げたのか、どうして逃がしたのかわたしに問いただすという。

 わたしにはわかりかねます。この人らは、いったいどういう神経をしているのでございましょうか? この人たちは、今朝なにを食べたのでございましょうか? 夜は何を食べたのでございましょうか? 魚でしょうか。豚でしょうか。卵でしょうか。牛乳でしょうか。しこたま動物を食らっておいて動物虐待反対? はぁ〜? で、その一方で動物たちをペットに仕込む。それが動物愛だとすました顔をしている。本末転倒もはなはだしいとは思いませぬか。しかも四国のアホ坊主にいたっては「(岩城というのは)猫というものを知らないやつですな」オッホッホと笑ったというではございませんか。文化人を気取りたいのなら、或いは僧侶を気取りたいのなら、博愛家を気取りたいのなら、まずその手で猫の首を絞めてごらん。でなければとても博愛だの動物愛護だの言う資格はないよ。三角公園の狂った老女に「卑怯者」と罵られるのがおちだ。もっとも俺たちと違って物事の本質を見る能力の欠如したこういう鈍い連中には彼女の恫喝など屁でもないだろうが。

 いずれにせよわたくしナンナンちゃんを食いました。はい、たらふく食いました。ちょうど今日あたりナンナンちゃんのウンコが出るんじゃないかな。蓮月さま、検便にして送りましょうか?


怯えて隠れるナンナン

三角公園で行われた野外鍋




「小説・なんなんちゃんはやっぱり美味かった 完」


haruo iwaki