haruo iwaki



今日、はじめて映画『ゆきゆきて、神軍』を最後まで観た。
十年ほど前に観ようとしたことがあったけれど五分ほどであまりのエグさにパスしたことがある。

しかし、監督の原一男はtenkoさんの師匠ということになる。うまいぐあいにビデオテープが入ったので、これはいい機会だからと観てみた。
以下はその感想。

登場人物はどいつもこいつも一癖も二癖もある連中だった。
奥崎は俗っぽい正義感を振り回して他人の平穏な家庭に土足であがりこみ、突然、相手の口の中に棒を突っ込むみたいに、あたりかまわず日常を破壊して歩く嫌味な老人である。それに対する男たちも上辺は猫をかぶっているがひとつ間違うと豹変して奥崎を八つ裂きにしかねない裏の表情をもった連中である。最初は奥崎に馬乗りになられた元上官が「なぜ、殴る」と非難しながら、三名の男たちが応援に来て優勢になると逆に奥崎をこつきだす。暗闇に光ったその目はやはり日本人の奥に眠る残虐性をそっと感じさせて怖ろしい。また、監督自らもこういった登場人物たちと関わることによって汚泥の中にどっぷりつかってみえる。

その一方で登場人物たちはみな深く傷つき、それぞれがそれなりに苦しみ、胸のなかで血を流してもいる。奥崎、奥崎の奥さん、元兵士たち、元下士官、かれらの家庭の奥さんら、みなが懊悩の中にもがき苦しんでいる。なかでも監督はこの映画を撮る間、一番深く傷ついていたのではないか?
いわば野獣奥崎がみさかいなくだれかれに噛み付くのを容認して、むしろ映画作りのために囃し立てている。平和な家庭の幼いこどもや奥さんたちには何の罪もない。奥崎のよう異常者をそのような人たちの迷惑も考えずあたりかまわず放って映画に撮るということはやはり辛いものがあっただろう。そこまでして、なをかつこの監督がこの映画を撮ることにこだわったのはなぜか。

わたしは、評論家や、わけ知りや、映画ファンがこの映画について指摘し、語るところの天皇制告発や皇軍の戦争責任や奥崎のエキセントリックな異常性やドキュメントの真にせまった迫力などにはまったく興味がない。この映画の核はそんなところにはないと思えるからだ。

この映画は、カメラレンズの無謬性(むびゅうせい)、その絶対的独立性を監督自らが血を流しながらとことん見極めようとしたところに意味があると思う。
警察が好きで官憲が好きで、暴力が好きで、ほんとうは刑務所が大好きな奥崎は、それゆえに近親憎悪的に天皇や官憲を憎む。じつは警察をいつも自らの行動に関与させたがるように奥崎は警察権力が嫌いではないのだ。実際、かれが元上官たちや元兵士たちを追い込むやり口はじつは官憲の手口そのものである。
ときに脅迫し、あるいは暴力を使い、またときに泣き落としを使う。かと思えば、巧妙にも替え玉を使って四十年も前の事件の関係者の口を割らせることに成功する。
こういった過程が社会的な告発であるわけがないし、奥崎に決して正義があるわけでもない。あえていえば奥崎にはどこにも正義などない。かれの姿はどろどろの修羅場、緊張と暴力が支配する醜悪な権力支配社会構造の反転された姿にすぎない。そのようなものを映画に撮るとき、監督もまた奥崎と同じくその暴力と強制と抑圧の共犯者であることをまぬがれえない。にもかかわらず、この映画撮影が権力的な裏返しの汚泥と醜悪にどろまみれた様相をもってくればくるほど、唯一、カメラレンズだけが、ますますその無謬性、絶対的独立性を発揮し、純粋性をまざまざと観衆の前に怖ろしいほどの静けさをもって迫ってくるのだ。
原一男という人はこの映画でカメラレンズの神・性を命をかけて見届けようとした、

のだ、とわたしは思っている。