余は如何にして宝塚信徒となりし乎
映像作家宝塚にハマるの巻

第12回 キレイなだけじゃダメかしら?(2000.9)

ジョアンナ アメリカで映画に出ない? ヴァレンチノの再来になれるかも
ルーカ 芝居なんてできませんよ
ジョアンナ 映画なんて全部編集なんだから、黙って突っ立っているだけでいいのよ。セリフは吹替え、アクションはスタント。あなたはそのきれいな顔でほほえむだけでいいの……それだけで愛される。誰かを愛するってすてきなことよ。あなたはその欲求を満たすためのお人形
ルーカ じゃあ俺でなくってもいいわけだ
ジョアンナ 必要なのはあなたよ。でも、あなたの心はどうでもいいの
(荻田浩一作 星組バウホール作品「聖者の横顔」より)

宝塚はであるとよく言われます。女性の美しさを素材として作られる舞台は華やかで「美しい」ものなのですが、単純なパブリックイメージとしてのデコラティヴな美しさで出来ているわけではなく、シックな美しさ、シンプルな美しさを目指す舞台も当然あります。しかし、そのようなと芝居との関係は実に複雑です。3月に小劇場バウホールで上演された「聖者の横顔」は、美しさでは天下一品の彩輝直主演作ですが、作家として若手期待度No1の荻田浩一がそのようなについてシビアな考察を、彩輝の美に重ね合わせ批評的な面白さを出しています。

私も宝塚にハマって2年近くになります。最近悟ったこととは、私の好きな男役の必須アイテムとでもいいましょうか、いくつかの特徴です。

  1. とにかく美しいこと。舞台に登場すると「おお!」っていうくらいに美しいところがあること。
  2. 芝居が達者ではなくても「深い」芝居ができること。器用でなくてもいいから、のめり込むような熱気のある芝居をすること。感情移入ができるような感情の深さをもっていること。
  3. 個人の持ち味に特徴と面白みがあること。

ということは、歌が下手でも、あるいはダンスが下手でも私は「笑って許して」しまうのですが、以前紹介した麻路さき紫吹淳はこれらの条件をちゃんと満たしています。最近かなりこの条件を満たすようになってきたのが彩輝直で、今回はこの彩輝を取り上げて宝塚のというものを考察してみます。

彩輝直は星組現3番手(スター専科という新しいシステムが登場しましたが、運用法がまだよくわからないので、とりあえず直観的にわかりやすい以前のシステムで呼んでいきます)なのですが、ダンスが下手なこと、歌が下手なこと(声が弱い)でも有名ですし、3番手に求められる主人公の相棒程度の特にすることのない役だと弱い、という欠点があります。いわゆる「3ないスター」(歌えない、踊れない、芝居できない)の典型といってもいいのかもしれません。私見ではそれを補って余りあるのが、彩輝の美貌です。宝塚には美しい容姿の人々がたくさんいますが、芸能界のタレントの美しさとは少し違うといってもいいでしょう。一般芸能界のタレントでは、日常とはかけ離れたような人工的な美しさはほとんど歓迎されません。隣のきれいな女の子、という感じの美しさ、身近で親しみやすい美しさがタレント及び今の映画に出演する女優の美しさです。宝塚は違います。超絶に美しい、日常とはかけ離れて美しい、という美貌が重視されるのが宝塚なのです。グレイス・ケリーや原節子の美しさが、あるいは全盛期の長谷川一夫の美しさと言えばいいでしょうか、最近でいうのならばカイル・マクラクラン的な人工的なまでに整った危うい美しさが重要なのです。

カイル・マクラクランの顔立ちの特徴は完璧な対称性にあります。人間生きていれば、どうしても何かの偏りがないわけではなく、顔だって左右が完全に対称とはならないのですが、稀に対称の顔の人物がいないわけでもない。そういう人物の顔は美しいけども純粋培養されたみたいで不自然です。彩輝の顔はこういうタイプの美しさであり、完璧なゆえの退廃感であるとか、病的な美しさという風に感じられることもあるわけです。

かつて宝塚の演出家に「ショーとレビューの違いは?」という質問に答えて、「舞台を対称形に使うのがレビューであり、そうでないのがショー」という答えをした人がいます。シンメトリーというのは宝塚の絵画的美の大きな構築要素です。フィナーレなどを思い起こすといいのですが、舞台全体にジェンヌたちが満ち満ちている場面、羽根を背負って活人画的な美しさを狙う「宝塚」な場面です。この時に中心に立つのがトップスターなのですが、若手スターたちも将来はこの位置、俗に舞台に貼られるマークから0番と呼ばれる位置に立つことを目標として育てられます。ですから、スターとしての出世街道に乗っている若手スターをセンターラインにいるスターと呼びますし、脇役で人気が出ても決してセンターラインに立てないタイプのスターもいるわけです。つまり、シンメントリーというのはその中心に「扇の要(カナメ)」として立つキャラクター、より適切に言い換えるのならスターとしてのオーラによって、初めて完成するのです。そのような霊性を備えるべく若手スターたちは日々努力を重ねていくのです。

このようなオーラというものが映画スターから消滅して久しいのは皆さんも感じておられることと思います。映画全盛期のスターたちにはこのようなオーラがありました。観客もその作品の「監督が誰か」ということよりも「誰が主演か」で見に行く時代、その時代のスターたちはとりたてて演技が通好みにうまいわけではなく、何かスペシャルな芸があるわけでもありませんでした。作品も今から見れば単にきれいな男女が浮世離れをした恋愛を繰り広げるだけの世界で、人生の深刻な問題をテーマとするわけでもなく、型にはまったような大衆的なストーリーしかないわけです。しかし、今の我々でさえも、ソフトフォーカスのアップでスターが微笑むのを見ることによって、スターの持っていたオーラを感じ取ることが未だに可能であり、なにがしかのおぼろげな記憶と同時にノスタルジーさえも感じるわけです。

そのようなノスタルジーは、大衆文化がまだ若かった時代へのノスタルジーであると同時に、まだ世界の「意味」が曖昧なものであった時代の記憶、微笑む顔だけがそこにあった幼年期の記憶に裏付けられてもいるのでしょうが、そのことでフロイトを持ち出すのは少し大げさというものでしょう。しかし、父母に対する幼児の愛情がその後のスターに対する感情に大きな影響を持っているのはおそらく確実なことです。ですからこそ、スターに対する感情は、単なるに対する感情でもなく、何かのスペシャルなに基づくものでもなく、無償の愛であるわけです。しかしファンから見れば、実は無償の愛どころの騒ぎではなくて、捧げるだけの愛に過ぎないわけですが、そのようなを集めるスターとそれがもつオーラとは、されるべき元型とでもいうべきものが働いているとも言えるでしょう。ですからスターとして成熟すればするほど、そのスターは元型に近づいていく、を集める一種のブラックホールとして、一般的な意味での個性であるとか、売り物としてのであるとか、そういうものを失ってさえも愛の元型としてのみ機能していくようになるのです。

話を彩輝直と「聖者の横顔」に戻しましょう。ハリウッドに誘われたルーカ(彩輝直)は、孤児院出身の捨子であり、親の愛を知らない青年です。現在は美貌を生かしてホストクラブで働くジゴロ(宝塚の定番)なのですが、親の愛を知らないがために愛なき美青年であるところが話のポイントなのです。「人を愛することを知らないが、人には愛される」ことの矛盾、これが冷たい美貌の彩輝によって、見事に形象化されるわけです。「きれいな顔でほほえむだけでいい」という誘い文句は、実際のスターとしての彩輝に見事に当てはまる表現なのです。しかし、ルーカを誘うハリウッドのキャスティング・ディレクターは続けます。「でも、あなたの心はどうでもいいの」と。

これは考えてみれば、話の上でも残酷なセリフですが、実際のスター彩輝直に対してもシビアなセリフであるわけです。タイトルの「聖者の横顔」とは、ルーカたちが育った孤児院にあった半分崩れた聖者の像に由来しますが、ルーカはなきゆえに何も出来ないし何もしないのにも関わらず、ルーカを愛する人々が結果として自分自身の愛によって救われるという、偶像崇拝の奇蹟とでもいうべき状況をあらわしています。ですから、救済者は何によって救われるのかという一種の神学的問題さえもここには生じてきます。

ここにおいて「聖者の横顔」は一種の宝塚論、宝塚観客論のとしての意味を持ってきます。宝塚のスターは実生活においても、ファンに取り囲まれた映画スターやジゴロのような愛される生活を送っているわけですが、決して本気でファンを個人として愛するわけではありません。「誰かを愛するってすてきなこと」だから、愛される対象して存在するお人形として自己規定せざるを得ない人間の内面とその存在不安感を、この作品は丹念に辿っていきます。そのきっかけとなるのが孤児院時代の親友ジェンナーロ(朝澄けい)の病死と、その死に至るまで書き続けたルーカ宛の手記です。同じく親に捨てられたジェンナーロは、病気で余生いくばくもないことを知ると、自分を捨てた母親を探し当て、人生最後の時間を母親と過ごします。自分を捨てた母親を探し出したジェンナーロとの対比によって、ルーカは愛を求めて前進することをしないために、浮草のようなジゴロ稼業を続けていることが次第に明らかになってくるわけです。

ルーカに入れ上げている有閑マダムの一人に海運会社社長夫人のイレーネ(朋舞花。厭世感溢れる名演)がいます。イレーネは恋人との心中未遂と意に染まぬ結婚の不満のために、ホストクラブに出入りしてルーカとつき合っているのですが、ルーカを愛しているわけではなくて、いなくなった恋人の代理として愛しているに過ぎません。ルーカはちょっとしたきっかけで金持ちの娘フランチェスカ(妃里梨江)と知り合いますが、フランチェスカはイレーネの娘であり、母に愛されないフランチェスカはルーカが母とつき合っているのを知って、彼女とルーカは残酷なかたちで傷つけあいます。戻って来たイレーネの元恋人が、復讐のためにイレーネの夫が経営する会社を潰す陰謀を企んで、それにルーカが利用され、イレーネと元恋人の心中のやり直しにルーカが立ち会うに及んで、恨んだフランチェスカはルーカの友人を唆してルーカを刺させるとかいろいろあって、ルーカとフランチェスカの子供じみた争いも和解に向かい、二人はハリウッドへの誘いを受けてアメリカに渡る、という結末になります。

つまり、愛なき美青年の人間性回復の話なのですが、この和解に死んだジェンナーロの影が大きく投影しています。ジェンナーロの母との和解はささやかな奇蹟でした。奇蹟奇蹟である理由はそれが思いもかけないきっかけから起きて、思いもかけない影響を持つからではないのでしょうか。「聖者の横顔」はのではなくて愛の奇蹟譚なのです。



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