性同一性障害って何?

「性同一性障害」は医学的な疾患名です。国際的な精神疾患の診断基準としてアメリカ精神医学会が定めた「DSM−IV」にもその診断基準が載っており、国際的には「病気」として公式に認められている「疾患」です。

とりあえず「DSM−IV」の診断基準を見てみましょう。

A.反対の性に対する強く持続的な同一感(他の性である事によって得られると思う文化的有利性に対する欲求だけではない)。
 子供の場合、その障害は以下の4つ(またはそれ以上)によって表れる。
  1. 反対の性になりたいという欲求、または自分の性が反対であると言う主張を繰り返し述べる。
  2. 男の子の場合、女の子の服を着るのを好む、または女装をまねるのを好むこと。
    女の子の場合、定型的な男性の服装のみを身につけたいと主張すること。
  3. ごっこあそびで、反対の性の役割をとりたいという気持ちが強く持続すること、または反対の性であるという空想を続けること。
  4. 反対の性の典型的なゲームや娯楽に加わりたいという強い欲求。
  5. 反対の性の遊び友達になるのを強く好む。
青年および成人の場合、次のような症状で現れる。反対の性になりたいという欲求を口にする、何度も反対の性で通用する、反対の性で生きたい、または扱われたいという欲求、または反対の性に典型的な気持ちや反応を自分が持っているという確信。
B.自分の性に対する持続的な不快感、またはその性の役割についての不適切感。
 子供の場合、障害は以下のどれかの形で現れる。
 男の子の場合、自分のペニスまたは睾丸は気持ち悪い、またはそれがなくなるだろうと主張する、またはペニスを持っていない方がよかったと主張する、または乱暴で荒々しい遊びを嫌悪し、男の子に典型的な玩具、ゲーム、活動を拒否する。
 女の子の場合、座って排尿するのを拒絶し、または乳房が膨らんだり、または月経が始まってほしくないと主張する。または、普通の女性を激しく嫌悪する。

 青年および成人の場合、障害は以下のような症状で現れる。
 それは、自分の第一次および第二次性徴から解放されたいという考えにとらわれる(例:反対の性らしくなる為に、性的な特徴を身体的に変化させるホルモン、手術、または他の方法を要求する)、または自分が誤った性に生まれたと信じる。
C.その障害は身体的に半陰陽を伴ったものではない。
D.その障害は、臨床的に著しい苦痛または、社会的、職業的または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。

簡単にいうと、「自分が男性である/あるいは女性である」という自己認識が「ジェンダー・アイデンティティ(性同一性=性自認)」と呼ばれる、個人の基本的な自己認識であり、普通の人はこれが性器の外見上の性別と一致しています。性同一性障害はまさにこの「ジェンダー・アイデンティティ」の障害なのです。

「反対の性別だったらいいのに!」と誰しも一度くらいは感じたことがあるでしょうが、性同一性障害はそれとはレベルが違います。「男性/女性として周囲から期待されること」を要求されたくらいのことで、「自分はホントは女性/男性なのだから、そんなことをするのは...」と悩んでしまう、こういう個人のアイデンティティの深いところでのジェンダー・アイデンティティの食い違いに悩んでいる状態が、「性同一性障害」なのです。

しかし、身体的には正常(極端には異常ではない...)です。悩みながらも「結婚し子供を作ったら少しは治るのか?」と考えて、結婚し子供を作った当事者も多くいます。それでも根本は人格の深部の性同一性にあるのですから、「悩みは深まるばかり...」などという話を自助グループなどでよく聞くわけです。

実際、性同一性障害を抱えてしまうと、ほとんど誰にも相談できません。親や配偶者、友人や先生、上司などでさえ、「ちゃんと男/女らしくしなさい!」と言われるばかりで、苦しみ多い人生を、その苦しみを隠しながら生きていかなければならなかったのです。特に日本は不幸な経緯からこの問題が一種の「タブー視」されてきた、ということがあり、精神科医師でさえこの問題に正面から取り組むことを避けてきました。この状況が変ったのはごく最近のことに過ぎません。

しかし、最近では「性同一性障害」に関する諸問題が、「人権に関わる問題である」として、医学的・行政的・社会的にちゃんと対応すべき問題である、と捉えられるように変ってきました。それにはいくつかの理由を挙げることができます。

  1. 少産少死社会となり、セックスの目的が「子孫を作ること」だけに縛られることなく、より全人格的な営為として捉えられるようになった。
  2. だから、「多様な性のあり方」を許容し、当事者の合意による他人に迷惑をかけない性活動は、道徳的に問題がないという考え方が広まった。
  3. マシーン・エイジの到来とともに、「性別による分業」の意味が失われ、「性別による差別」の正当性が完全に失われた。だから「男女平等」が少なくとも社会的建て前としては守られるようになり、ひいては「性別による差別」が厳しく批判されるようにもなってきている。
  4. 「外見上の性別」を変更することが、医学的サポートの進歩によって、かなりの完成度で実現できるようになった。

ですから、社会的建て前の上では「性別を変更すること」が非難の対象とはなりえないわけです。逆に今まで社会的・行政的に配慮されていなかった(無視されていた)ことによる不利益が、人権侵害の状況を生み出している現状を見たときに、「いくらなんでもこれは是正すべきである」という視点で取り上げられたのが、実は2003年の「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」だったわけです。つまり、この法律によって、「性同一性障害の問題は稀なケースとして無視すべきではなく、行政的・立法的にも、当事者が著しい不利益を被らないように、配慮すべき義務が行政当局にはある」ことを、実質的に認めたわけです。これは大きな進歩です。

実社会でも最近では、在職中に性別を変更し、そのまま職を続けている、というケースが増えてきているようです。「性別を変更したことを理由とする解雇」は、1990年以降は欧米では裁判の上ではほとんど認められなくなっていますし、日本でも2002年に「性別を変えたことを理由とする解雇」についてそれが「不当である」という判決が出ています(いわゆる「S社解雇事件」)。つまり、この問題が「個人の趣味」の問題でも、「スキャンダル」でもなくて、社会がキチンと対応しなければならない人権問題なのである、という認識が実社会にも広まりつつあるのです。

また、当事者の間でもいろいろと議論があるのですが、性同一性障害は「医学的疾患」として医学的に認知されており、その治療としての性別移行が正規の「治療行為」として認められています。現状はまだですが、健康保険の適用の可能性もそのうちには実現しそうです。ですから、この問題が稀なことではあっても、「恥ずかしいこと」でも「悪いこと」でもない、普通の病気であるということなのです。

かつてミシェル・フーコーは「何が精神病であり、何が精神病でないかを決めるのは、医学ではなくて社会一般の考え方に過ぎない」ことを立証しました。つまり、社会が「男性/女性の間には越えられない大きな溝があり、それを越えようとするのは不道徳である」とする限り、性同一性障害は「異常」として差別され続けます。しかし、今まで男性の職業とされていた分野に女性が進出したり、男性が「主夫」をしたりしている現実を見る限り、そのような「越えられない大きな溝」の存在がかなりあやふやになって来ていると言ってもいいでしょう。現実的に同性愛はすでに「病気」ではなく、単なる「生き方」になりました。性同一性障害は当事者が医学的サポートを要求するために、治療上の概念としては「病気」であり続けるでしょうが、実質上はそのような「社会のジェンダー観」の強制に苦悩の大きな部分があるわけです。もし、社会が寛容になれば、性同一性障害の当事者の苦悩の大きな部分は軽減されます。言ってみれば性同一性障害は「社会的な病気」なのでしょう。

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