本テキストは「当世著作権事情」の参考資料にするために、筆者がNHKに対して書面で質問を行った、その「質問と答え」である。映像作家が著作権に関する理解を深め、NHKの著作物を利用する場合の参考になるだろうと、ここに紹介する。
回答の日時は「平成14年6月3日」であり、文責者は「NHKマルチメディア局著作権センター、メディア展開グループ」である。
まず、回答の全文をコメント無しに掲載する。恣意的な改変は一切行っていない。のちほど逐行的に考察しよう。
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コメント:総論として「成果を広く社会に還元する」ことを目的として掲げているわけで、これは勿論評価できる。
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コメント:ただし、映像の場合には多くの人々が関わっているのが普通である。NHKで放送された番組であっても、必ずしも「日本放送協会」という法人がそのすべての著作権を保有しているわけではない。タイトル・クレジットに名前の出る各種のパートのそれぞれの個人・法人が、それぞれに著作権を持っているのである。これが映像著作権処理の最大の問題である。
たとえば、音楽著作権ではこれはそれほど複雑ではない。著作権利者は、制作会社・メインの演奏家・作詞家・作曲家・編曲家程度であり、いわゆる「バックバンド」は慣例として「著作権の買い切り」がなされる。つまり、バックバンドはギャラと引き替えに、著作権を制作会社に譲渡する習慣があり、バックバンドの著作権が問題になることは慣例上ない。
映像著作権では、今だ二次利用に向けた業界慣習もほとんど確立していない。これが二次利用を妨げる最大の問題点である。
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コメント:ここで重要なのは「権利処理が可能なこと」「提供先に問題がないこと」である。2番目の「提供先に問題がないこと」は基本的に「法人」でなければならないことである。これについては後で述べる。
最大の問題は、「権利処理が可能でない」番組が実に多数に登ることである。番組の制作形態は、外部から見ている以上に複雑である。「権利処理が可能で」なくなる原因を列挙する。
逆にどんなものが二次利用可能であるか、というとこんなものに制限されることになる。
残念ながら、他には思いつかない。実際の二次利用のケースもほとんどこれだけである。
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コメント:定義なので、これに関しては大したコメントはない。
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コメント:ということである。個人への提供は「法令上」できないわけだ。作家的立場からは不合理であるが、これに関しては法の改正を待つより他ない。おそらく個人の場合「支払能力」に関しての懸念から外されているのだろう。とはいえ、個人映画界では、個人映画界の有名人であるM氏が仕切っている某MJ社などに、仲介を頼むことも不可能ではなかろうが....
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コメント:これについては筆者はそれほど関心があるわけではないが、そのうちに改正される可能性が非常に強いことを指摘しておく。映像のインターネット配信にどの程度の有効性があるのか、筆者は懐疑的なのだが、それでもNHK自体の「将来像」と絡んだ試行錯誤があることだろう。
※ 許諾できないケースの多くは、番組素材の個別事情によるものです。例えば、外部への提供など放送以外の目的で使用することについて、当該素材に含まれている外部権利者の承諾が得られない素材等です。 |
コメント:当然のことながら、これは「現実」を述べている。すでに見て来たように、映像の権利関係は大変複雑であり、1人でも二次利用に応じない場合、大概の場合は全体の二次利用が不可能になる。
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コメント:無償の場合でも、個人で負担することを考えると大変高額である。JASRACを介した音楽著作権の二次利用と比較すると、約2ケタ(JASRAC千円単位〜NHK十万円単位)違う。また、JASRACの「上映使用料」は、公開されるホールの規模・徴収する入場料などとの間で、詳細に定められた表によって課金される制度になっている。
つまりJASRACは「一般利用者による、音楽著作物の正当なルールに従った二次利用を奨める」ことを目的にして利用料金体系を設定しているのに対し、NHKの利用料金の設定は以下の前提に基づいている。
このカテゴリーに収まらない映像制作者に関しては、全く考慮されていないのである。個人映画界の立場から見れば、禁止的な利用料金規定であるとしか言いようがない。
※ 映像使用料および使用条件等は平成14年4月現在のものであり、今後改定される場合があります。 |
コメント:おそらく改正される可能性が高いのは、インターネットにおける二次利用に関して、明示的な規定がなされるものではなかろうか。
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コメント:これはその通りである。著作権法における「引用」は、いくつかの基準のもとに、正当な利用であるとなされている。それについて、NHK自体が判断を下すべき問題であるとは言えない。参考のために、「正当な引用」の基準を列挙しよう。
つまり、我々の活動自体が、引用を正当なものにすることのできる「正当な引用の慣行」を作り上げていくのである。だから、筆者の個人的見解としては、そのような「慣行を形成するような」立派な引用をしていくべきではなかろうか。