こんな作品を見た!〜「日本アニメーション学会第5回大会」にて

これは実験映像の作品評ページです。辛口ですが、よろしく。




筆者は日本アニメーション学会の会員である。現在はビンボ!なために、なかなか東京での大会には行けないが、今年は京都の京都造形芸術大学で大会があり、1日(6月28日)だけだが参加した。

日本アニメーション学会は、要するに5年前に出来た新しい学会である。その中心メンバーに旧知の人々が多く、一応発起人にも勘定されたような経緯がある。つまり、旧アニメーション80のメンバーが多く参加していたりもするのである。そういうわけで、旧交がなかなか暖まったのだが、ここはそんなことを書く場でもない。

そういう学会なので、アニメーションの中にいわゆる「実験系アニメーション」の居場所がちゃんとあり、実験系作品もいくつか研究発表などとと絡めて上映された。それらについて書こう。

石田尚志「フーガの技法」
もう何度か見ている。研究発表の中では時間の都合で真ん中のパートのみの上映であった。要するにバッハの「遺言」とまで言われる「フーガの技法」から3曲を、石田氏なりの観点でアニメーション化した作品。石田氏はさすがに音楽には造詣が深く、単なるBGVにはなっておらず、主題による音楽の構造を、造形上の構造として採用していくというアプローチである。

実はバッハの「フーガの技法」をアニメーションにしたい!というのは、クラシックオタク系アニメ作家の最大の夢である。それをあっさりとやられてしまうと立場がないが、まあ流石にバッハには石田氏も勝てない。結果的には筆者は「玉砕」に近いとまで感じてしまう。最大の原因は、バッハの音楽が持つ極端な抽象性にあるのであろう。この「フーガの技法」ばかりは、聴いていて一切のイメージを拒むところがあるように感じる。石田氏には独特の表現性があるので、そのような表現性がバッハの音楽に対して「余計に」感じてしまう。

おそらく筆者が「フーガの技法」をアニメーション化するのならば、一切の表現を断念し、「フーガの技法」のイラストレーション(図解)に専念するのではなかろうか。そういうわけで、石田氏の意図を理解した上で、やはりこれは失敗作であると考える。

(「聴覚的遠近法」というのもあるのではないかな?)

石田尚志「部屋/形態」
これは石田氏の成功作である。廃虚めいた一室(東大駒場寮)の部屋の隅の壁に、直接ドローイングをしている作品。実際の部屋の隅の立体的構造に絡めて、遠近法的錯覚をうまく利用して作られている。これが視覚的効果として大変面白い。それだけではなく、光についてのセンスがなかなか良く、一種の「聖」に関する連想を惹起せざるを得ない。筆者はこれを見た後、石田氏に「ロシアのイコンというのは、部屋の隅に飾るものである...」という話をしたことが、石田氏に強い印象を与えたようである。石田氏の表現的な資質とよくマッチした傑作である。

石田尚志「椅子とスクリーン」
さて、初見の新作。コスース風のネタである。つまり、部屋に置かれた椅子と、ドローイングによって作られるスクリーンに投影される椅子のイメージ、差し込む太陽が作る影の場としてのスクリーンなどが絡み合う作品である。結論から言えば、こういう作品の場合には石田氏の表現的資質がやや邪魔に見える。「観念の提示」としてのコンセプチュアル・アート性で攻めるのならば、もっとシンプルで、感じさせるよりも考えさせるような構造を作るべきではないだろうか。

高嶺格「God Bless America」
赤い部屋の中である。ほぼ人間の背丈ほどもある粘土の塊(2tあるそうだ)が、アメリカ人らしい人の形を取っている。これがアニメートされて、「God Bless America」を唄い出す。それをアニメートする作業自体も映り込み、一種の日記アニメ的な処理で18日間ノンストップで継続し、夜間はインターバルタイマーによる無人撮影がなされ、作者たちが寝ていたり、SEXをしていたりするのも写る。朝に窓から光が差込むのが美しい。

相原信洋の「stone」を連想させるようなスケール感があるが、これは作者が「初めて作ったアニメ作品です」というように、アニメーション系作家ではなく、パフォーマンス系作家であることが重要な作品のポイントとなっているように感じる。アニメーション系作家の場合、2tの粘土をアニメートする、という発想はまず浮かばない。制作作業自体をアニメートの一環として撮影するという発想は浮かんでもである。やはりこの作品の成功は、「現実に巨大な」粘土によって日記アニメを作ったことである。懇親会の席で、筆者は少し作者と話したが、その時に高嶺氏は「次はもっと小さなもので....」なんて情けないことを言ったので、筆者は「いや、次は20tの粘土でやり、その次はブルドーザーで地球をアニメートしなきゃ!」と思わずアオってしまった。

結論として、「普通に面白いアニメーション」であり、アメリカ批判も方法に皮肉味があり小洒落たところがあるだけで、ホントは表層的なものである。パフォーマンス系出身であるその資質面での面白さにかなり依存している。

「現代美術におけるアニメーション・映像」高峰格×市原研太郎
高嶺格「God Bless America」の上映は、美術評論家市原研太郎氏との対談の中で行われた。この対談が皮肉な意味で「面白かった」。最近の現代美術の中でたまにアニメーションを含む作品が登場していることについての、美術評論家側から見たアニメーションの話である。

結論から言えば、美術評論家は、アニメーション作品を何かの本質的な問題として評価しているわけではまったくない、ということが見えて来るのである。では、なぜ最近、現代美術の展覧会によく映像・アニメーション作品が取り上げられているのか、筆者が根本から解説しよう

それは単純に、大学でアニメーションなどの映像を教えているからに過ぎない。学生がアニメーション作品を制作し、それをあまり本質的ではないインスタレーションの中で、つまりは単純に作品を見せる場を(ややオマケ的に)作品として作るに過ぎないような、そういう発表形態を選ぶことがある。こういう作品の場合、やはり形式上「インスタレーションとして」発表されることになる。実質的な作品的興味はほとんど映像で制作された作品に限られるものであってさえ、それが形式的に「インスタレーション」であると、自動的に「現代美術」のカテゴリーに入ることになり、「美術評論家」という人種が「批評」をすることになり、気に入られれば美術館で「展示」されることになるのである。

根本的な問題は、「美術評論家」という人種が「上映会には行かない」ことである。だから同様に面白い映像作品であっても、それが上映会形式で発表される限り、「美術評論家」の目には一切止まらないと言っても過言ではない。「美術評論家」は歴史的経緯から、商業的に成立している雑誌メディアを活躍の領域としているが、悲しいかな「実験系映像評論家」には商業的に成立している雑誌メディアを現在は(過去もかなり怪しいが....)持っていない。そのため、いくら上映会形式の映像の傑作があっても、それは「アンダーグラウンド」であり、一般メディア上は陽の目を見ないのである。

だから、最近、現代美術の展覧会によく映像・アニメーション作品が取り上げられている理由は単純な事実に基づくものに過ぎない: それが単に上映会形式作品ではないからである。要するに「美術評論家」は美術館なり画廊なりの場所に居着いている人々に過ぎないのである。だから、市原氏の話を聴いていると、「ああ、この人は実験系映像作品はほとんど何も見ておらず、歴史や技法にも無知な人なのだ...」としか感じられないのである。それゆえ、「どういうポイントを褒め、評価するのか」という重大なところで、技法や発想の歴史を踏まえることができないゆえに、かなりトンチンカンでもある。とはいえ、これ以上は市原氏個人を責めるのはよそう。

筆者は以前から、「実験映像は未だに啓蒙期にある!」と主張してきた。図らずもそれを見事なまでに市原氏は実証した。だからそういうトンチンカンさも、それが啓蒙期ゆえの現象であり、「美術評論家」諸氏が上映会にも足を運ぶようになることによって、次第に解消されることを望むばかりである。

逆に言えば、我々はもっと自信を持って良い。雑誌や新聞に執筆する「美術評論家」は、我々以上に優れた視点や洞察を持っているわけでも何でもないのであるし、「美術評論家」が褒めた作品が我々の作品よりも質的に違うわけでもない。それは単なる偶然に過ぎないのである。だから、我々はもっと「美術評論家」に積極的にアプローチし、我々の実力を見せつけるべきではないのだろうか。彼らの「ジャンル意識」なぞに大した根拠が現在あるわけではないのだから。



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