アニメーション80の歴史

80年代後半の転機

第10回全国巡回上映会

アニメーション80は順調に年2回の上映会を開催していき、人気上映会としての名声を確立していく。そして、85年に、第10回記念上映会として、東京でスタジオ200でやる他に、全国巡回上映をすることになる。それまで、関西出身のメンバーだった渡辺純夫・亮兄弟の企画で、2回ほど関西での上映会をしたことがあったが、大規模な全国巡回上映(札幌から福岡まで)は、今までの歴史でも唯一のことである。この時に、かなり完備したパンフレットも作られた。

全国巡回上映で回った場所は次の通り。ABCの3プログラム(A=第5回まで、B=第9回まで、C=新作、合計73本)で回っている。

この時には、当時池袋西武百貨店にあったスタジオ200の企画として行い、その関係で当時西武系デパートがミニホールを各地に作っていたために、そのような各地の西武系ミニホールとの協力関係を作ることができたのである。これには当時スタジオFのスタッフとして就職していたメンバーの渡辺亮の貢献も大きい。また、地方のアニメーション同好会や映像サークルのバックアップも大きかった。

IKIFの退会

しかし、80年代後半になると、主要メンバーは大学を卒業し、年2回の上映会開催が厳しくなる。そこで上映会自体は年1回(87年の第14回上映会以降)とするように変更される。また、メンバーの間でも指向が変って来るようになる。

一つの転機だったのが、アニメーション80のメンバーを中心に開催された「アニメーションちちんぷいぷい」(83年7月。「アニちんぷい」とよく略された)である。これはIKIFが中心となって、映像パフォーマンスとしてアニメーションをする、という試みだった。

このパフォーマンスの参加者はIKIF, 渡辺洋(確か東京造形大の学生だったような....よく知らない)、昼間行雄(メンバ)、住岡由統(当時東京造形大の学生、ゲストで呼んだことがある)、小山佳織(メンバ)、峰岸恵一(メンバ)の6人(というか7人)で、アニメーションの技法を使った映像パフォーマンスのコンセプトで行われた。それまでもIKIFはよくパフォーマンスの絡んだ作品を作っていたが、これをまとめて、同じような作品をサークルを越えて他の作家から集めた、というニュアンスである。

特徴的な作品を紹介しよう。

IKIF「カメラオブスクラ」
これはホントにカメラ・オブスクラを、一切フィルムも使わずに会場で実演してみせたもの。要するに暗い会場の窓側に一箇所小さな穴を開けて、外の光が入るようにして、その像がぼんやりと会場の壁に写る、というパフォーマンス。
IKIF「アニメいもむし」
7台のカメラでそれぞれ協力者に新宿の町をコマ撮り撮影してもらい、それをマルチ7面スクリーンで上映する。
IKIF「AFTER IMAGE」
これはIKIFが何パターンか作っている、蓄光性塗料を塗ったスクリーンに投影する作品。だから、映写機からの光がぼっとした感じで残りながら、どんどん新しいパターンが加えられていく。それとパフォーマンスとして園子さんがスクリーンの前に立ったりする、というような効果が付け加えられている。
峰岸恵一「パルスライブ」
要するに峰岸作品 PULSEを、パフォーマンスとして実演している。工業用ストロボを会場に持ち込んで、レコードプレーヤの上に回転する動画を乗せてフラッシュを炊いてアニメートした。

この後、IKIFはアニメーションよりもパフォーマンスに強い関心を示すようになり、86年の第13回上映会を最後にアニメーション80から脱退する。その後、岩井俊雄と組んだ「VISM」(89年のイメージフォーラムフェスティヴァルで上演)などを経て、現在ではCGによる商業的な活動と、パフォーマンスで作家活動をしている。

ここで岩井俊雄について少し触れておこう。岩井俊雄はアニメーション80のメンバーであったことは一度もないが、学生時代に岡本忠成の作品を手伝ったことがあるように、作家のベースとして自主制作アニメーションが根底にある。そのようなところから、IKIFを介してアニメーション80との付き合いが割とあり、パフォーマンスやCGなどに相互に影響しあっている。たとえば、「時間層」シリーズは、峰岸の「PULSE」をインスタレーションに仕立て直したような恰好であり、その後も驚き盤などの作品があるわけで、実質上このような実験的アニメーションの世界から出発しているのである。

新メンバーたち

また、当時加入した新メンバーとしては黒坂圭太(第9回(84)〜第16回(89)まで参加)、やまむら浩二(第12回(86)〜第16回(89)まで参加)があり、発足メンバーの浅野優子の進境もあり、アニメーション80の作品傾向が変化していく。特に黒坂圭太の与えたインパクトは絶大だった。

黒坂はイメージフォーラム付属映像研究所の8期生だったが、抽象的なアニメーションを作っていたために、イメージフォーラム内部(当時、「ニューナラティブ」女性作家のスローガンの元に、坂本崇子・木下和子などを売り出そうとしていた)の風当たりが強かった。そこで外部で上映活動をするようになり、アニメーション80に加わった。黒坂の初期作品の特徴は、音楽的構成と、当時の常識的な作品の長さ(10分以下)から見ると、異常なほどの作品の長さ(30分程度)であった。これがアニメーション80のメンバーに強いショックを与えた。つまり、短い作品ではなくて、より長い作品をどう作っていくのか、という方法論的な面でのインパクトである。

黒坂の初期作品では、特に音楽的形式を採用する、というアイデアが重視されていた。黒坂作品である「ソナタ第1番('85)」などは、本格的にクラシック音楽のソナタ形式を抽象アニメーションに持ち込んでいったのである。このような形式感によって、黒坂は20分を越える作品を作っていったのであり(「ソナタ〜」などは40分もある)、これがそれまでアイデア的短編だったアニメーション80のメンバに大きなショックを与えた。それまでも「技法見せ」(まずシンプルなかたちでアイデアを見せ、それらを素材を替え、複数の技法を組み合わせ展開する)が言ってみれば「変奏曲」の手法だと言えたのだから、このような発想が「アイデア的な掌編ではなく、より本格的な作品を作る」こと、及び本格作品として 16mm 作品を作ることがそろそろ視野に入ってきだしたメンバの間で、大きなテーマとして浮上してきたのである。

また、黒坂作品の「長さ」自体が作り上げる「世界」の問題がある。つまり、きっちりした作品世界を展開するためには、やはりそれ相応の「長さ」が必要であり、そのような「作家世界」を実現することが、作品の最終的な目的である、という考え方にメンバたちの考え方が移行していったのである。これはいわゆる「実験期」の終わりを告げることになっていった。

さらに、新加入のやまむら浩二の作品(「水棲('87)」「ひゃっかずかん('89)」)が持つ、完成度の高さも大きな刺激を与え、また浅野優子が独自に「世界」を深めていった(「木の中刺す魚の木('85)」、「五つの指の庭('88)」)ことからも、このような傾向が強まっていった。

また、海外作品の影響もある。特に80年代中盤に、重要な作品が紹介されている。やはりこの2作の影響が絶大であろう。

ユーリ・ノルシュテイン「話の話」など('84年6月:アニドウ主催日仏会館)
言わずと知れた大傑作。特に話のはっきりしない「話の話」がナラティブと非ナラティブの間を漂うようなかたちで、影響を与えている。
パトリック・ボカノウスキー「天使」('85年2月:イメージフォーラム)
これはアニメーション技法を「従」にして、どちらか言えば特撮的に扱った長編である。

要するに、80年代前半のアイデアと勢いで勝負が出来た状況に対する作家の反省が、このような黒坂・やまむら作品の刺激によって、より完成度を求め、作品としての自立性を高める方向に転換するきっかけになったのである。

あれよあれよと言う間に黒坂は人気作家となり、イメージフォーラムとも縒りを戻し、実験映画祭を改称・再編したイメージフォーラム・フェスティヴァルの看板作家となったが、アニメーション80の活動に与えた影響もこのようにかなり大きいものがあるのである。

注:現在学生を中心に人気があるシュヴァンクマイエルやクエイ兄弟は大体80年代末に紹介されているので、アニメーション80メンバたちにとっては、すでに作家的自己形成を終えた時点見ている格好になる。だから、本質的な影響はシュヴァンクマイエルやクエイ兄弟からは受けているとは言い難いことを注意しておく。

会場の歴史

アニメーション80の定期上映会が行われた場所についても少し付記しておこう。初期は恵比寿のスペース50(当時自主上映の会場として良く使われていた)が多かったが、アニメーション80が人気上映会になるにつれて手狭になり、当時は貸し館営業をしていたユーロスペースで2回ほどやった後、ユーロスペースの常設映画館化のためにこれも使えなくなって、80年代中盤は100席弱の上映スペースを求めてのジプシー生活が続いた。ようやく新宿のビプラン・ホールに定着するのか、と思われたのだが、90年代初めに三軒茶屋のams西武内の「スタジオams」と共催のかたちで定着し、大いにアニメーション80の経済に余裕ができる。その後、西武の経営悪化に伴い、中野のシアターゼロを上映会場にするようになったのである。アニメーション80自体、当初からかなりの人気上映会だったため、その観客収容の問題からこのようにさすらうことになったのである。

他団体の動向と継続の秘密

また、この頃は他のグループの活動が沈滞するようになる。他のグループも中心メンバーが就職し、制作を止めることが増える。また、意欲はあっても女性作家の場合、結婚・出産・子育てという人生の大イベントを控えることになり、なかなか活動が継続しなくなる人も増える。こんな中で「グループえびせん」は人気作家だったはらひろしが郷里に戻るのもあり、実質的に活動休止する。片山雅博らはその後アマチュア・アニメーション協会での活動が主となる。「地球クラブ」は相原の運営方針に若手作家が反発して脱退者が相次ぎ、相原の京都造形芸術大学赴任をきっかけに、東京の定期上映会としては成立しづらくなる。

こんな中でアニメーション80が活動を継続できたのには、いくつか理由があるだろう。

  1. アニメーション80は、内部でその性格を「上映団体」と位置づけている。つまり、アニメーション80の「仕事」は「年1回の上映会」を行うことである。各作家への外部上映会への出品依頼の取りまとめなどはするにせよ、その他共同制作などはしない、というケジメがはっきりした団体だったのである。だから、「グループえびせん」などの呼び物だったメンバー全員参加の「回しアニメ」のような企画はやったことがない。
  2. アニメーション80は月に1回の会合を開いて、上映会に対する準備などをしている。その中で各自分担を決めて準備をするのだが、特に会長のような職はなくて、各上映会ごとの「進行責任」制であった。つまり、役職というものは「必要悪」であり、個人の能力・得意分野に基づいて上映会のために協力するという大前提のもとに運営されていた。だから、ある程度上映会に馴れたら、可能ならば進行責任をしなければならない、というような不文律もあり、運営はかなり民主的である。
  3. つまり、作家的評価は運営には一切関係ないし、会合の中で作家の評価、作家のスタイルが話題に上ることさえなかった。そして、会員には「自立した作家」であることが仮定され、求められるに過ぎない。
  4. 「何もしなければ、1年後には会員平均年齢は1歳上がっている」をスローガンにして、積極的に新規会員を受け入れていた。大学サークルに最初の基盤があることから、当然それらの卒業生なども会員として受け入れてきただけではなく、上映会で「作りたい」という希望をアンケートなどに書いた人々に、直接アクセスして入会を薦めるなど、かなり積極的な新会員募集をしていた。これは会員の新陳代謝を盛んにするだけではなく、新会員の作品が新しい観客層をもたらすという側面もあって、重要視されている。


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