■余裕
夜遅く帰ると玄関口にセミがいた。
悲鳴ともとれるような叫び声で鳴き、目が見えないかのような行動で無意味に電気の回りを飛び続け壁に強打してはまた飛ぶの繰り返し。
かなりうるさい。
生きることしかできないからこそ、セミの行為が意地になっているようにも見える。
人間が自らから命を絶つというのは我侭なような気がしてきた。
虫の爆発的な繁殖にはおどろくものがある。
成虫になるまで数少ないからたくさんの卵を産むのだろうが、成虫になり過ぎかと思われる。
もっと餌になれ。
じゃないと自ら狩ってしまいそうだ。
鳴くと言えば近所の烏が名物の橿原神宮も3時ごろ鳴き出す。
烏は鳥の中でも一番の早起きさんらしい。
夜中に鳴き出す烏も少々不愉快だ。
俳句や短歌にしても音というのは季節を現したり、風流さをかもしだしたりするものだが、こううるさいと癒しも風流もない。
しかし昔はもっとうるさかったなどと祖母から聞くと、じゃぁもっと昔になったらどうなんだろうと想像する。
わたしなら不快指数によりお隣さんをサクっとやってしまってたかも知れない。
しかしそれにしても音に関する昔の俳句や短歌が多く残っているのは、かなりうるさい音に対しても風流に受け流せたり、受け入れるだけの心の余裕があったのかもしれないと思う。
絵を描くのも考えるのも心の余裕なしではさっぱり手がつかず、無理にやろうとすると結局ぐちゃぐちゃになって見たくもなくなる。
しかし人間せっぱつまってる方が、なにか関係のないことをしたいという意欲が沸く。
たとえば試験期間中など。
これは心の余裕があるからこそ出きるというのはまた違うものになってくる。
考えれば考えるほどわからなくなってきた。
余裕があるというのは、ぼーっとしていてもたまるものでもない。
結局どうなんでしょう。
考えれば考えるほど余裕が減りそうなのでもう考えることは止めにしようと思います。
窓を閉めればセミも烏もうざいとは思いませんし、余裕がなくても平和なので他に望むものはいっぱいありますが、幸せであると思うのでもういいと思います。
|
|