みらいのなみだ 「風月堂のゴーフレットが食べたい」
「はあ?」
 気がつくと雅はダンボールをあける手をやすめて、ぼうと遠くを見ていた。
「豊島屋の鳩サブレーでもいいな」
「そんなことだから片付かないのよ。あんた引っ越しして何日経ってると思ってるのよ」
「遠くに行きたい」
 私は声に出さずに死ね、といった。もうどうしていいのか分からない。
「……雅、学校行ってないんだってね」
「引っ越しで行ってないだけだよ」
「優里ちゃん心配してたよ。比較文学科は二週間連続であんただけ休講?」
 雅はぼんやりとまた遠くの空をみていた。都合の悪い声は彼女の耳には入らない。
 私はまた黙ってダンボールをあけはじめた。どさりと植物やらの図鑑を机の上においたとき、すぐ横に赤いパッケージがあることに私は気がつく。
「雅'Sルームは喫煙可能になったの?」
「別にここで吸ってもいいけど」
 彼女は私のほうに視線をもどして、マルボロの箱に気がついたようだった。
「ああ、それ。あげる。二本吸って、やめた。杏にもらえばよかったよ」
 うすく笑う。
「こんなきついの吸うからだよ。初心者が。メンソールとかにしときゃいいのに」
 私はスマイルマークが踊る安っぽいカンから、セブンスターを一本取り出した。手本を見せるようにふう、と軽くふかして吐きだす。細くあいた窓から、煙はするすると抜けていった。
「死にたい」
 聞こえないふり以外、どうしろって言うんだ。
 むやみに煙草をすぱすぱやって、部屋が白くなるような気がした。
「買いに行く?」
「え?」
「ゴーフレット」
 もうどうせ今からダンボールあける気分でもないでしょ。雅が窓を開けた。風は吹き込んでくるわけでもないのに、じわりじわりとすり寄ってくる寒さは、本物の、冬だ。白い煙は窓の近くからすこしずつ拡散していく。
「駅の近くにさー、あったじゃん。コンビニ。そこで買おっか。すっごいおそいけど引越祝い」
 本当に遅いよ、雅は笑おうとして、煙を吸い込んでむせた。慌てて携帯灰皿(これもスマイルが踊っている)に煙草を押し付ける。
「駅まで行くんならさ、風月堂の買ってよ、本物の。コンビニで売ってるの明らかに偽物だもん。不味い」
「はぁ? 高価いんだよ、風月堂は」
 雅は上着だけはおると窓をぴしゃんとしめて、ドアに向かった。
「行くよ」
「ちょっと待ってよ。ほんと、わたし、……お金あるかなぁ」
 荷物をしまってマフラーを巻いて、財布もついでに確認して、私も慌てて飛び出そうとしたとき、マルボロが目に入ってきた。
 もらっていいんだっけ、と手を伸ばしたとき、不意に思い出した。
 正吾が吸っていたのも、マルボロの赤、だった。
 ああ、だからか。
 私のにぶいのも相当だ。
 帰らない人のかわりがゴーフレットなら。
「安いもんだ。おごってやるよ」
 今月末の懐具合に私が涙しても、雅の涙とはちがうものだから、べつに、いい。
 
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