残り香  部屋は真っ暗だ。
 僕の保健室は未だ暗いまま。

 冷え切った部屋には、火を入れる前から独特のニオイがただよっている。
 饐えたような畳の匂い。
 そしてそれとは相容れない消毒液の匂い。時折部屋にある(たぶん洗濯のためにであろう)白の仕事着。
 消毒液は残り香。
 かなりゆっくり帰ってきたつもりだったのに、(カーテンを引いていない窓には満月が貼りついたように凍っている)僕はまた人の気配のない部屋に帰ってきてしまった。

 昨日は酷かった。
 随分遅くて、問いつめてみたら『学校が終わったあと相談に乗っちゃってね』。学生服のやつと喫茶店でお茶飲みながらなんてどうかしている。
 その後も、その子は音大に行くかどうか迷っている、とか延々喋っていたようだが、僕は聞いていなかった。まだ話しているというのに大声で遮って聞いてしまった。
「そいつ、男?」
 きょとん、と娘のような顔をして、その後破顔した。
「男の子よ」
 言って母は罪もなく笑った。

 首にかけた手がやけに白く。そう、月が(確か満月ではなかった気がする。三日月の光る部分を反転させたような。でっぷりと太った月が)窓の外には浮かんでいたんだ。白く、光ると言うよりも切り抜いて貼り付けたみたいなことだけ同じ月が。
 だからだと思う。母にかけた手があんなにも浮かんで見えたのは。


 ひどく寒い。

 冷え切った部屋には、ニオイが充満している。
 きつい腐肉の匂い。
 そしてそれとは相容れない消毒液の匂い。これからは永遠に部屋にある白の仕事着。
 母の残り香。
 カーテンを引いていない窓には満月が貼りついたように凍っている。僕はまた人の気配のない部屋に帰ってきてしまった。
 母さん、母さん。ねぇ、とても寒いね。
 さらりと優しく髪を梳く。
 そうしてから、母にたかってきた不届きな蠅を僕は握りつぶした。
 ここなら守ってあげられるよ。
 耳元に寄せてそっとささやく。
 遠くに行かないでね。
 僕が守ってあげらるからね。

 母がもう二度と白衣を着なくなったとしても、腐臭を発して朽ち果てていったとしても。
 それでも。
 ここは僕だけの保健室なのだろう。

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