眠りの音  ッりん
 
今日も丁度、また電話が切れた直前に弾かれたように目が覚めた。
 ヤになるくらい空は澄んでいて、気持ち悪いくらいだ。今まで眠り込んでいた床は未だあたしのぬくもりを残している。ぼんやりとベットにもたれかけて思った。
 電話に出られなかった、ということは、あの電話は浩志からだったのだろう。

 いつもは日に半分以上眠っているような子なのに彼氏からの電話はエスパーのように起きて出られる、という小説が確かあったはずだ。それはそれで日常生活に支障が出るかも知れないが、1日くらいなら、あたしと交換して欲しい。
 浩志の声はライン上じゃあ、聞いたことがない。
 タイミング良く、というか、もうここまで来ると何かの呪いとしか思えないくらいあたしは彼からの電話を取ることが出来ない。導かれるように眠りにいざなわれているか、はたまた丁度回覧板を受け取りに出ているとか。どうせ電話がかかっているのは大した時間ではない。何かしら、電話に気付かない状況が数分、否十数秒あれば、その時間が浩志からの電話なのだ。
 青い空に大きく溜息を付いた。
 今日は午後から講義だ。

「おはよぉ」
「あ」
健康的に自転車で爽やかに去って行きそうになった浩志を、あたしは慌てて呼び止めた。
 自転車は急停車をして振り返る。キキ、と音が出る程スピードは出ていなかったと思うのだが。
「あ、じゃなくて、松子。ちゃんと呼び止めるなら名前呼ぶなり何なり……」
「浩志、今朝、電話くれたでしょ」
 しょうがないなァという感じで、浩司は後ろ頭を掻いた。浩司の癖なのだ。
「今朝、ね。あれは松子にとって朝なわけだ。道理で出なかったはずだわ。朝だもんなぁ。寝てるよなぁ。……いやはや、『眠り姫様』の時間感覚は凡人には分かりかねまして」
「言葉のあやよ」
 言って浩志は、大仰に一礼してみせた。
 眠り姫、というのは浩志があたしに付けたあだ名で、大抵皮肉に使われる。あたしが彼と付き合いたての頃、電話を寝ていて出られない、ということが続いたので付けられた。ある意味失礼千万なあだ名だ。
 意地悪く笑う浩志を見て、湧いてきたむかむかした感情を持て余す。あたしだってそうそう寝てばかり居るわけではない。思わず、彼がもたれ掛かっている自転車をひっくり返してやろうかと思った。
 あたしは落ち着く意味も含め、深く溜息をついて
「ねぇ、何の用だったの?電話出れないの知ってるでしょ」
 と、言った。
「明日のご飯のお誘い」
 よいしょと自転車を起こして、サドルにまたがった。もうこれ以上話す気はない、というのがありありだ。
「あした? ちょっと、何時?どこでよ?」
「また連絡する」
浩志はもう自転車をこぎ出していて、振り返りもせず言った。
 走って追いかけようとしたけど、気がついたら講義まで後5分もないことに気付いて、走ることには走ったが、慌てて目標を教室に変更した。

「ッ……浩志はッ?」
 まだ息が荒い。講義が終わってすぐに来たのだが、見渡して浩司の姿はない。とりあえず尋ねて、返ってきた答えは、
「松本ならもう出てったよ」
 という無情なものだった。無駄とは思いつつ、級友に一応尋ねてみる。
「あたしに伝言とか、あった?」
「なかった、と思うがなぁ。あいつ、すぐ出てったから」
 どうだ、と彼は周りにも聞いてくれたが、答えは彼がくれたものと大差なかった。
「ありがとう」
 行ってあたしは走り出した。
 今日は劇団の日だ。浩志もいるはず。
 一緒に行きたかったのに。……ちょっとくらい待っていてくれたって良いじゃない。

 『松本浩司』と書かれたプレートは赤になっていた。
 やっぱり先に来ていたんだ、と何故だか少し淋しい気分になる。
 室内履きの爪先をとんとんと叩く。買い換えようと思ってはいたが、買い換える機会をいつも逃している、このフロアシューズは少し小さい。今度こそ、新しいのを買わないと。
 靴を気にしていると、後輩の華ちゃんがやってきた。彼女はぺこりと非常可愛い様子で頭を下げると『高野沢華香』という赤いプレートを裏返す。
 このプレートは出席簿代わりで、来た人からこれを裏返す。表は白で裏は赤、つまりプレートが赤になっている人は、劇団の練習場であるこのフロアか、2回の事務所にいることになる。
「もう上がり?」
「はい。今日は友達の引っ越し手伝うことになってるんで」
 彼女はにこにこして、松子さんさようなら、ともう一回ぺこりをお辞儀をして駆け足で帰っていった。元気のいい良い子である。
 あたしはひらひらと手を振って華ちゃんを見送ると、『酒呑松子』のプレートを裏返した。
 『酒呑松子』は『サケノミショウコ』ではなく、『シャチノミマツコ』と読む。最初からこの読み方をしてくれる人にはいまだ出逢ったことはないが、友達で今、あたしのことを『サケノミ』と呼ぶ人はいない。下戸だから、ではない。本当に『酒呑み』過ぎて洒落にならないからだ。
 あたしの事を、サケノミさん、ショウコさん、と呼ぶのは、勧誘で電話をかけてくるおっちゃん位である。
「あ、シャチノミ先輩」
 ふと見ると童顔の少年がぱたぱたと駆けてくる。彼の名前は朝元蛍。まるで少年のような顔をしているが、れっきとした大学生で、あたしと浩志と同じ大学の学生である。だから、彼はあたしのことをシャチノミさんではなく、シャチノミ先輩と呼ぶ。その顔を生かし、劇団では大体そのまんま少年役をやっていたりする。
「あの、浩志先輩から伝言なんですけど」
「あ、え? 伝言って、浩志、居るんじゃないの?」
「ああ、裏返さないで帰っちゃったんですねえ」
 彼は言って『松本浩志』の赤い札を裏返した。あたしのささやかな希望まで一気にひっくり返してくれる。
「浩志先輩、来てすぐ帰っちゃいましたよ。今日は何か急いでいたみたいで。僕に伝言だけするとすぐに」
 童顔の彼は、何があったんでしょうかねぇと首を傾げてあたしを見た。あたしが、さぁ、というふうに首をすくめると、彼はさも分からないとでも言いたげにこくんと首をひねった。こういう動作をするとまるで中学生か、無理をすれば小学生くらいにも見える。全く成長期をどこに落としてきたんだか。
「で、メッセージは?」
「あ、はい。『明日の昼メシは食うな、時間と場所はあした電話する』」
 劇団員らしく浩志の台詞は演技をしているのだが、いかんせん彼の声は童顔の合わせて高く、浩志の低い声とは似てもにつかない。
「でんわぁ? こっちから電話してやるッ」
「『あと俺、携帯変えたから。あした番号教えてやるよ』だそうです」
「ケイちゃん、そこまで言われたら引き留めといてよ」
「ケンカでもしたんですか」
 あたしの顔色をうかがうように、覗き込んだ彼と眼があった。別に何という訳ではないのに(だってあたしが悪い訳じゃない)少し動揺した。
「べつに。また電話出れなかっただけ」
 ああ、と彼は酷く納得して顔から視線を逸らした。どういう意味よ、それ。
「発声、はじまってますから。早く行った方が良いですよ」
 言って彼自身駆けていってしまった。

 もう電話に出られないとは言わせない。
 あたしは電話の前でじっと待っていた。ベルが鳴らない時間ばかりが行き過ぎる。
 白く抜いたように雲が貼り付いていた。幼稚園の頃にやった切り絵みたいだ。
 電話ってこんなに真剣に待っているべき物だったっけ。ぽかぽかとした陽気が、何もなくてもあたしを眠りに誘う。しかしここで寝たら本当に『眠り姫』だ。
「鳴るんなら、早く鳴んなさいよ」
いつまで経っても鳴らない電話に、ごちとおでこをぶつけた。コーヒーでも入れてこようかと思うが、経験上、ここではなれた瞬間鳴るのが浩志の電話だ。
 少しでも離れたら、もうチャンスはないような気がして(なんのチャンスだ?ここで出られなかったからといって何かが終わりになるわけじゃない。ハズ)電話から1メートルと離れていないところを、ごろごろだらだらし続けている。
――君が好きだ。
 不意に言葉がよみがえる。
 あたしのどこが好き、と訊いたのに、照れたように後ろ頭を掻いて言った答えは答えになっていなかった。
 いまは、どう?
 電話に出られないあたしとは必然的に直接会うしかなくなる。それでも、今でも、君が好きだ、と言えるのかな。……なんだか不安だ。
 じりりりりりんッ
 電話のベルというよりも目覚まし時計といったふうがぴったりの音が、ひざを抱えたあたしの直ぐ脇で鳴った。この音が可愛い、という理由で祖母の家にあったふるーい電話を、独り暮らしをいいことに貰ってきたのだが、急に鳴られるとびくりとするし、じーこじーこと回すダイヤルはうっとうしいことこの上ない。もちろんキャッチホンや留守番電話も付いているわけもなく、そのあたりもあたしの電話に出られない病に起因していると思うのだが。
 じりりりりりんッ
 二回目のベルで意識が元に戻る。電話だ。
 じりりりりりんッ
 とらなきゃ。とらなくちゃ。
 じりりりりりんッ
切れてしまう前に、電話を、とらなくちゃ。
 じりりりりりんッ
 じりりりりりんッ
 ッりん

「はい、もしもし」
「サケノミさんのおたくでしょうか」
 違います、といって切ってしまわなかったのは、どうしてだろう。彼(だろう多分)の声がやたら変で高かったから、だけではない。言うなれば第六感(女の直感?)が、切れという命令を手に伝えなかったから。
「どちらさまですか」
「本日のお食事、間に合ってますか?」
 ……はい?
「大変おいしいパスタのお店をおしえてくれましてね、ケイが。たしか、パスタお好きでしたよね。どうしてもお誘いしたい、と思いましてね。眠り姫サマを」
 大きな花束でも見せつけられたみたいだった。誕生日に、扉を開けたら目の前が花でいっぱいになってしまって、なんだか上手く言葉が出てこないで思わず涙が出てきてしまうような。
 だんだんあなたの声になっていくから。
 ちっ、ヘリウムガスの効果ってみじけぇな。あんなに高いのに、というぼやきがライン上から聞こえる。すごいことだ。あたしの隣に居ないのに浩志の声が、聞こえる。
「駅前で。結構遠いからさ、十一時、いや十時半くらいでいいか。……おーい、聞いてる?マツコ?……松子?」
 ざあ、と雑音が入った。
 距離が、無くなる。こんなに近い。
 得をしている右耳から電話を持ち替えて、小さな声で聞いてみる。ゆっくり、慎重に。
 雑音で聞こえなかったなんて無しだからね?
「あたしのどこが好き?」
 記憶の糸をたぐり寄せて、君はきっとあたしの一番欲しい言葉をくれる。
 電話の糸をたぐり寄せて、あたしは君に会いに行く。

 この電話が切れても、きっと何も変わらないけれど
 変わっていくものも、きっと、ある。
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